【二七〇《良い先輩》】:一

【良い先輩】


「知り合いの隣に引っ越すなんてことってあるんだね」


 アルバイトの休憩中、隣で俺が買ってきた差し入れのシュークリームをモグモグ食べる帆仮さんがそう呟く。それに、平池さんが田畠さんの方を見てニヤッと笑った。


「美優、まさかとは思うけど、多野くんの隣にわざと引っ越したの?」

「そ、そんなことしてないよ! 第一、多野くんの引っ越し先なんて知らなかったし!」


 平池さんにからかわれた田畠さんが全力で否定するのを見て、俺は平池さんに向かって話す。


「引っ越し先を田畠さんに言った覚えはないですし、そもそも田畠さんに俺の隣に引っ越す理由はないですよ」


 平池さんが田畠さんをからかって言っているだけで、本気で言っていないのは百も承知だ。だが、一応俺からフォローをするのは必要なことだ。


「そういえば、田畠さんはなんで引っ越しなんてしたんですか?」

「うん。ちょっと、気分転換にね。それに、新しい方が会社に近いし」

「俺もここに近いのを考えて選んだんですよ。やっぱり、通勤時間が長いと辛いですからね」

「うん。そのお陰で、朝も前よりゆっくり出来るようになったし」


 ニコッと微笑んだ田畠さんは、シュークリームにかじり付いて美味しそうにはにかんだ。


「てか、美優も不用心ね。女の一人暮らしで近所に挨拶するなんて」

「実は、それ多野くんにも言われたんだ。だから、挨拶したのは多野くんのところだけ」

「ほんと、隣が多野くんで良かったわね。もし隣に住んでるのが変な男だったら危なかったわよ」

「き、気を付けます……」


 平池さんに軽く注意を受ける田畠さんは、身を縮ませてマグカップを両手で握りコーヒーを飲んだ。


「巽さんは今度の懇親会に来ない? お金は心配しないで良いから」

「えっ? 私も良いんですか?」


 俺を挟んで帆仮さんが巽さんに声を掛けると、口の端にシュークリームの粉砂糖を付けた巽さんは首を傾げる。その巽さんの目の前に携帯用のウエットティッシュを置いて、自分の口の端を黙って指さす。すると、見る見るうちに顔を真っ赤にした巽さんは慌ててウエットティッシュで口を拭いた。


「すすす、すみません!」

「いや、そんなに謝らなくても……」

「多野くん、優しいのは良いけど、そういうのはもっとさり気なく伝えないと」


 帆仮さんがクスクス笑うのを見て、他にどうやって伝えれば良いのか考えてると、帆仮さんは話題を戻す。


「巽さんも私達レディーナリー編集部の一員なんだし、懇親会は親睦を深めるためにする会だから、不都合がなければ参加してくれると嬉しいなって」

「は、はい! えっと、会費はいくらですか?」

「心配しなくても、会費はお姉さんに任せて良いの」

「でも、多野さんも自分で払うんですから」

「ほら、多野くん言った通りでしょ? 巽さんが恐縮しちゃうって。だから、やっぱり多野くんの分も――」

「分かりました。まあ、巽さんだけ出してもらうと、巽さんも参加し辛いでしょうし、今回はご馳走になります」

「良かった」


 俺の分の会費を帆仮さん達が割り勘で払ってくれると言ってくれたが、俺はそれを一度断っていた。だが、巽さんがそれで参加し辛くなるなら、俺も帆仮さん達の厚意に甘えた方が良い。


「まあ、多野くんのことだから、きっとこうなると思って今日の差し入れを買ってくれたんだよね?」


 前から聞こえる田畠さんの言葉に苦笑いを返すと、平池さんが俺を見てニヤッと笑った。


「図星か。でも、そういうところが多野くんの良いところよね。年上に素直に甘えてくれないのは結構問題だけど、ちゃんと気遣いするところ」

「面と向かって褒められると困るんですけど」

「照れ屋なところは可愛いと思うよ?」

「ありがとうございます」

「露骨な褒め言葉に動じないのは可愛くないな~」

「俺にどうしろって言うんですか……」


 俺と平池さんのやり取りを帆仮さんと田畠さんは笑って見て、俺の隣では巽さんがクスクスと小さく笑っていた。

 アルバイトを終えてタイムカードを押すと、俺の近くに巽さんが駆け寄ってくる。


「多野さん、途中まで一緒に帰りませんか?」

「良いよ」


 一緒に本社ビルの外へ出ると、出た瞬間に吹いた風にスカートがなびいて、巽さんは両手で軽く押さえる。


「今日、風強いね」

「そうですね。パンツにしてくれば良かったかな~」


 アハハッと照れ笑いを浮かべる巽さんは、手でスカートを押さえながら歩き出す。俺も、その巽さんの歩調に合わせてゆっくり歩き出した。


「もうほとんど仕事は完璧だね」

「ありがとうございます。でも、私がやってるのは資料のコピーと郵便物の配布と、後は買い出しくらいでまだまだです」

「それだけ出来てれば十分だよ。他のアポ取りとかはまだ今の仕事に慣れてからで良いよ。古跡さんもあまり仕事を詰め込まないようにって言ってたし」

「家基さんにも、無理しないようにって言ってもらいました。でも、多野さんって本当に凄い人だったんですね。あの量の仕事を一人でやってたなんって」

「俺も初めの頃は、巽さんみたいに簡単なコピーと郵便物の配布の仕事ばかりだったよ。でも、それを続けてるうちに仕事によって必要な資料の傾向が見えたり、締め切りが近い仕事とか余裕のある仕事が分かったりする。それと、郵便物の配布をするうちに編集さんの顔と席の場所を覚えるから、別の仕事で編集さんに聞かないといけなくなった時に困らなくて済む」


「そうなんですか」

「まあ、それに気付いたのはそれが自然と出来るようになった後なんだけどね。ほんと、古跡さんは凄いよ。きっとあの人はそういうのも全部見えて仕事を振ってきてる」

「確かに、編集長ってバリバリの仕事人って感じですよね。格好良くて凄く憧れます」

「古跡さんは本当に仕事が出来るね。だから、編集長が務まるんだと思う。それに、人柄も良いからみんなに信頼されてるし。人の上に立つべくして立った人だよ」

「でも、多野さんも編集部の皆さんから信頼されてて凄いです! 今の目標は多野さんみたいになることです」

「俺は目標にしない方が良いよ。俺になると編集さん達にいじられるから」

「いじられるって言うのは、愛されてる証拠ですよ」


 巽さんと笑って話していると駅に着き、俺は改札にICカードをかざして改札を抜ける。


「多野さんもこっちなんですか?」

「そっか。巽さんは中川学院大学だから、こっちの方だね」

「はい。大学の近くにあるアパートに住んでます」


 中川学院大学の最寄り駅は、俺が新しく住み始めたアパートと路線が同じだし月ノ輪出版に近い。


「巽さん、女性専用車両に乗らないの?」


 ホームに上がると、丁度電車が着いて俺は開いたドアから電車に乗り込む。しかし、隣に女性専用車両があるのに巽さんは一般車両に乗り込んできた。


「せっかく多野さんと同じ方向なんですし」

「そう? でも、この時間帯って――グッ!」


 乗り込んだ瞬間、俺は背中から押されて中へ押し込まれる。丁度、様々な会社の定時後にある帰宅ラッシュの時間は電車も人でごった返す。こういう時に、電車の中には痴漢が出てくる。


「巽さん、後ろ壁に付いてる?」

「は、はい。ありがとうございます」


 巽さんが背中を電車の壁に付けられているか確認して、俺は両手を突っ張って巽さんが立てるスペースを空けた。しかし、後ろに居る人達も少しでも余裕を持って立とうと周囲を体で押し退けてくる。


「多野さん、手の力を抜いてください。私は大丈夫ですから」

「いや、でも……今力を抜くと――ッ!」

「わぷっ!」


 必死に腕を突っ張り続けようとしたが、かなりの人数の体重が掛かり、流石に全く鍛えていない俺の腕では耐えきれなかった。そのせいで、後ろから押された俺は巽さんの正面に密着してしまう。


「巽さん、大丈夫?」

「だ、大丈夫です」


 一瞬俺の胸に顔を埋めた巽さんは、笑いながら顔を上げる。しかし、俺はとっさに下げすぎた視線を巽さんの目にすぐ戻した。

 巽さんは襟元がゆったりしたTシャツを着ていた。その襟元は俺の腹当たりで巽さんの胸が押し潰されているせいもあってたわんでいた。そのせいで、襟元から巽さんが付けていたブラがチラリと見えてしまっていたのだ。


「多野さん、あの……すみません」

「ご、ごめん。どこか痛い?」

「い、いえ……その胸が当たってしまって」

「い、いや! 気にしないで! この状況だし仕方ないよ。それに、俺の方こそごめん」

「多野さんに言われた通り女性専用車両に乗れば良かったですね」


 顔を赤くして照れ笑いを浮かべた巽さんは、顔を上げて俺の目を見る。


「こうして見ると、多野さんって本当に身長が高いですね」

「女の子と並ぶと高いけど、男だと俺くらいの人は沢山居るよ」

「そんなことないですよ。私の周りには多野さんくらい背の高い人って居ませんでしたし。それに足も長くてスタイル良いし」

「ありがとう」


 褒められて困っていると、下で巽さんがクスクス笑う。


「編集部の皆さんが多野さんをからかう気持ちが分かる気がします」

「え?」

「多野さん、褒められると困った顔をして照れますよね。多分、皆さんその多野さんの顔が可愛いからからかっちゃうんだと思います」

「ということは、俺は巽さんにからかわれたの?」

「いえ、私は本当に思ったことを言っただけですよ」


 そう明るい声で言った巽さんは、屈託のない笑顔を浮かべた。




 家に帰ってやることと言えば、飯を食って風呂に入り、明日の準備をすることくらい。あとは、寝る時間までだらだら過ごす。

 部屋に一人で居る時間が増えて、俺はレディーナリーを含め月ノ輪出版以外の女性誌を買って読むようになった。

 大学を卒業したら本格的にレディーナリー編集部の社員として働くことになる。そのために他社の女性誌も読んで、女性はどんな記事が読みたいのか知っておく必要がある。

 古跡さん曰く、俺は「多野はうちで男性目線で記事を判断出来る貴重な人材」らしい。ただ、俺を世間一般の男と同じかと問われたら、俺はそうじゃないと思う。


 インスタントコーヒーを飲みながら、女性誌をペラペラ捲るが、やはり女性誌はファッションと美容に関する記事が多い。あとは、雑誌のそれぞれの傾向にもよるが、次のファッション美容に関わらずトレンドになりそうなアイテムの紹介や、生き方や考え方に関するコラムが主だ。ターゲットの年齢層が高い雑誌なるほど、コラムが充実している気がする。逆に若い世代向けになると、おしゃれなレストランや美味しいスイーツの特集がある気がする。

 ファッションの記事を見ていると、テーブルに置いてあるスマートフォンが震えた。


「凛恋、お疲れ様」

『凡人~お疲れ~』


 随分ぐったりした凛恋の声に、俺は女性誌を閉じて凛恋との電話に集中する。


『もぉー、チョー疲れた! しかも家に帰ったら凡人居なくて甘えられないし!』

「もう晩ご飯と風呂は終わったのか?」

『うん。全部終わって、今ベッドでゴロゴロしてる。オープンしたばかりだからお客さんが多くってさー。昔、萌夏の実家でアルバイトしてたって言っても、流石に疲れちゃった……』

「寝なくて大丈夫なのか?」

『うん。眠いけど、寝る前に凡人の声聞きたくなって』

「今週は平日も凛恋の休みと俺の休みが重なってるから会えるな」

『うん! 今から待ち遠しい! 大学終わったらすぐ合流して、水族館に行きたい! 丁度色んな種類のクラゲを集めたイベントやってて、凡人と一緒にクラゲ見て癒やされたい!』

「良いな。久しぶりに水族館デート」

『決まりね! チョー楽しみ!』


 明るい凛恋の声を聞きながらコーヒーを飲むと、笑っていた凛恋の声が空元気になる。


『凡人もバイトで疲れてるし、そろそろ切るね! 凡人、愛してるっ!』

「凛恋――あっ……切っちゃったか」


 俺の返事を聞く前に凛恋は電話を切った。それは素っ気ない行動に見えるが、凛恋が寂しさを隠した行動だと言うのが分かった。

 あのまま電話をしていたら、ズルズルと電話が長引いてしまう。俺もそうだと思ったから、だから、俺も凛恋が電話を切った気持ちが分かった。

 俺と凛恋は会いに行こうと思えば会いに行ける距離に住んでいる。でも、そんな距離なのに俺達は寂しくて寂しくて仕方がない。でも、だからこそ俺達は互いに自立しなきゃいけないんだ。


 自立しなければいけないのは分かっている。だけど、まだ自立し切れていない俺達は辛い。今感じている辛さを考えると、本当に俺は凛恋から自立出来るのか不安になって来た。

 電話の切れたスマートフォンを充電器に接続してテーブルに置くと、部屋のインターホンが鳴った。今は深夜というわけではないが、人が訪ねて来るには遅い時間だ。


「はい。あっ、田畠さん、お疲れ様です」

「多野くん、お疲れ様」

「今終わりですか?」

「うん。締め切りの近い仕事があったから残業」

「まあ、社員さんはみんな残業しないと終わらないですよね、あの仕事量は」


 話をしていると、田畠さんは手に持っていた二つのビニール袋のうちの一つを俺に差し出した。


「帰りに私が通ってるパン屋さんに寄ったんだけど、多野くんにお土産」

「え? 良いんですか?」

「うん。いつも多野くんにはお世話になってるし、今日は差し入れにシュークリームも貰っちゃったし。それに、これからお隣さんで色々お世話になるかもしれないし」

「逆に気を遣わせてしまってすみません」


 袋からはパンの良い香りがして、夕ご飯を食べた後なのに食欲がそそられる。


「冷めても美味しいやつを選んだから、明日の朝ご飯に食べて」

「ありがとうございます。ありがたく頂きます」

「多野くんは何してたの?」

「今ですか? 他社の女性誌を読んでました」

「本当に? 私、今月号まだ全部見れてないんだ。買えてもないし……」

「じゃあ、俺が読み終わったやつをあげますよ」

「えっ!? 貰うのは悪いから貸してもらえる?」

「良いですよ。ちょっと待ってて下さい。取ってきます」


 部屋に戻って読み終わった女性誌をビニール袋に入れて玄関に戻ると、田畠さんに差し出す。


「ありがとう」

「いえ」

「来月のは私が買うから。今度は私が貸すね」

「ありがとうございます」

「じゃあ、また明日編集部で。おやすみ」

「はい。おやすみなさい」


 微笑んで胸の横で小さく手を振った田畠さんに頭を下げてドアを閉じると、俺はテーブルに置いた田畠さんから貰ったパンの箱を開く。


「美味そう。だけど、これって高いやつじゃないのか?」


 田畠さんから貰ったパンはおしゃれなロゴの入ったしっかりとした箱に入っているのもそうだが、中身のパンを見てはっきりと普通のパン屋さんで売っている物よりも手間が掛かっているのが分かる。

 申し訳なさを感じるが、田畠さんがせっかく買って来てくれたのだからありがたく食べさせてもらうのが礼儀だ。


「そろそろ寝るか」


 充電器に繋いだスマートフォンを見て時間を確認し、俺はパンをテーブルの上に置いたまま部屋の電気を消してベッドに潜り込む。


「おやすみ、凛恋」


 目を瞑って心を落ち着かせてから、俺はそう誰も居ない部屋で呟く。そして、ゆっくりと眠りに就いた。

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