【二六二《ドイツより愛をこめて》】:二

 シャワーを浴び終えて部屋に戻りソファーの上でゆっくりしていると、部屋をノックせずにマリアさんが入って来た。


「凡人、どう?」

「マリアさん、ノックくらい――ッ!?」


 振り返ってノックしなかったことを咎めようとしたら、マリアさんが羽織っていたバスローブを開いて中に着ていたランジェリーを見せた。

 俺がランジェリーショップで選ばされた中の一つで、タイプ的にはベビードールという種類のランジェリーらしい。ブラとパンツよりも露出は少ないが、肩と胸元は大きく露出していて、丈は短く太腿の半分以上が出ている。


「凡人が選んだのよ?」

「それはそうですけど……なんでまたその格好なんですか……」

「せっかく選んでもらったんだし、お詫びに一種類くらいは着てるところを見せようと思ったの」

「どんなお詫びですか……」

「どんな男性でも、女のこういう姿は喜ぶものよ。凡人だって嬉しいでしょう? 安心して、恋人が居る凡人には答えを聞かないでおくわ」


 クスクス笑うマリアさんはベビードール姿のままベッドの上に座る。


「はぁ~……陛下とお会いして気疲れしちゃったわ。あっ! 来たみたいよ。凡人が代わりに受け取って来てくれる? 私、こんな格好だから」

「……分かりました」


 自分でバスローブを脱ぎ捨てたマリアさんの言葉に色々思うことはあるが、部屋のドアを開ける。


「マリア・ヘルトロ・フェル様のご注文の品です」

「あ、ありがとうございます」


 ホテルの男性スタッフがドアの前にカートを押し出す。そのカートの上段にはチーズの盛り合わせにフルーツの盛り合わせ、それから大量のカナッペが盛られた皿があった。そして、カートの下段には、つまみの数を見ても多過ぎる本数のワインボトルがあった。


「お食事が終わりましたら、フロントにカートの回収をお申し付け下さい。失礼します」


 カートを入ってすぐの通路にカートを入れた男性スタッフは、丁寧に頭を下げて立ち去る。


「凡人、早く持って来て」

「……はい」


 急かすマリアさんの声に、俺はカートを部屋の奥まで歩いて行く。すると、ベッドから立ち上がったマリアさんがテーブルの上につまみの皿を並べ、カートの下からワインボトルとワインオープナーを取り出す。


「凡人、グラスをテーブルの上に置いて」

「はい」


 言われるままワイングラスをテーブルの上に置くと、マリアさんは手慣れた手付きでワインを開けて二つのグラスに注ぐ。


「凡人、隣に来て」

「いや――」

「良いの? 筑摩理緒とディープキスしたこと、恋人の八戸凛恋に言っちゃうわよ?」

「…………失礼します」


 マリアさんの正体を知ってる俺の方がニコニコ笑うマリアさんに相当な弱みを握られている。


「乾杯しましょう」

「はい」

「「乾杯」」


 乾杯をして一口飲むと、にこやかにワインを楽しんでいるマリアさんに尋ねる。


「いったいどうやって俺のことを調べたんですか?」

「そんなこと言えると思う?」

「まあ、言えないでしょうね」

「当然よ。ただ、かなりの情報を得たのは本当よ。事前情報では、凡人は恋人とほとんど毎日セックスしていたし、筑摩理緒とディープキスもしていたし、かなり理性が緩いと睨んでいたんだけど、もっと調査をするべきだったわ。急を要すると言われたから、早めに行動に移したのよ。凡人と二人きりになる状況も作らないといけなかったし、元々スケジュール的に無理な話だったのよね。王妃様も無茶苦茶言ってくれるわ」

「マリアさん、そんな愚痴言って良いんですか?」

「凡人は私の正体を知っているし、今更よ」


 グッとワインを飲んだマリアさんは、カナッペを一つ頬張ってソファーの背もたれに背中を付ける。


「こんなに気楽な気分でワインを飲んだのは初めて」

「そうなんですか?」

「ええ。だって、私がワインを飲む時はいつだって仕事の最中だから」


 そう言ったマリアさんは少し寂しそうな顔をした。

 スパイの仕事なんてよく分からないが、明らかに精神的に負担の大きな仕事なのは想像が付く。だから、きっと気の休まる時なんてほとんどないのだろう。


「ふごっ!」

「女性とのデート中に呆けてはダメよ」


 マリアさんから口にチーズを押し込まれて、俺はチーズを噛み砕きながらワインを飲んで流し込む。


「ねえ、凡人」

「何ですか?」

「もし、私が本気で凡人を好きだったら私とセックスした?」

「いや、それでも断りました。俺には凛恋が居ますから」

「本当、凡人って私が見て来たどの男性よりも理性的で一途よ。詳しくは言えないけど、仕事で色んな男性に会って来たから分かるわ」

「あの……マリアさんは嫌じゃないんですか? その……」

「好きでもない男性とセックスするの? そんな感情を持ってたのは最初の一人や二人までよ。今は仕事で必要な手段だから使うだけ」


 俺の質問に答えてワインをまた呷る。その行動から、マリアさんにとって話したくない話だったのが分かった。


「すみません。嫌なこと聞いて」

「謝るようなことじゃないわ。もっと眉をひそめるようなことを聞かれたことがあるから」


 足を組んで二杯目のワインを注いだマリアさんは、今度はフルーツの盛り合わせからメロンをフォークで刺して頬張る。


「凡人、飲みが足りないわよ」

「それにしてもあんなにボトルを注文して飲み切れるんですか?」

「飲めるに決まってるでしょ? 凡人はそこまで飲まないけど、私はワインが大好きなの。それに今日は凡人にプライドをズタズタにされて飲みたい気分なの」

「それ、俺が悪いんですか?」

「元々は王子に甘い王妃が原因だけど、私とのセックスを拒んだ挙げ句に私の正体を見破って、女性としても機関員としてもプライドを傷付けられたわ」


 ジトっとした目で俺を見るマリアさんは、空になったワインをテーブルに置く。そのマリアさんのグラスにワインを注ぐと、マリアさんはニヤッと笑ってまたグラスを手にした。


「良い心掛けね。それなら、凡人に良いことを教えてあげるわ」

「何ですか?」

「凡人は意志は固いけど隙が多いわ」

「隙が?」

「そう。人に漬け込まれる隙よ」

「人に漬け込まれる隙……」

「凡人は肝心な時に冷徹になれない。もし、凡人が私達の世界に居たら命がいくつあっても足りないわよ」


「……それは」

「でも、今ならそれが凡人の良いところだって分かるわ。凡人の隙は凡人にとっては欠点かもしれないけど、凡人と接する人にとって親近感が湧くポイントよ」

「えーっと、それって褒められてるんですよね?」

「そうよ。でも、そこを利用されて悪い人間に漬け込まれることもあるから気を付けてほしいとも思うわ」

「ありがとうございます。気を付けるようにします」


 マリアさんの忠告を素直に受け入れると、マリアさんはクスッと笑って小首を傾げた。そして、スッと顔を近付けてニヤリと笑う。


「それと、本来の意味での隙も多いわよ。だから、筑摩理緒に何度もディープキスされちゃうのよ。私も今ディープキス出来たけど、凡人に脅されると困るからしなかったの」


 ワインを笑いながら飲んだマリアさんは、ソファーの上に足を立てて膝を抱える。


「さあ、朝まで飲むわよ」

「いや――」

「どうせ明日の飛行機は夜でしょ? だから夜ふかししても大丈夫よ」


 そう言って、マリアさんはいつの間にか空になったボトルをカートの下段に置き、別のボトルを手に取って開ける。

 カルロス国王に会った後のマリアさんは、カルロス国王に会う前以上にやりたい放題になった気がした。でも、今のマリアさんからは全く危険や恐怖を感じなかった。




 次の日、搭乗ロビーで出発時間を待つ間、預けなかったショルダーバッグの中を見ると、中に見慣れない封筒が入っていた。

 不審に思いながらも封筒を開くと、中から一枚の便せんが出てきた。


『ハイ、凡人。この手紙を読んでいるのはいつかしら? でも、きっと私はもう貴方の側には居ないわね』

「……マリアさん」


 そんな悲しげな書き出しの手紙の続きに目を移す。


『私は幼い頃から凡人の知ってる仕事のために努力を強いられていた。幼い頃から将来は決まっていたの。そして、その決められた将来のために沢山の知識や技術を得て、沢山のものを失い得られなかった。その中には恋愛もあったわ』


 俺は日本の一般的な家庭とはちょっと言えない事情の家に生まれた。でも、マリアさんはそんな俺よりももっと特殊な家庭に生まれたのだ。そして、その生まれた家庭で強いられた将来を想像すると胸が辛くなった。


『きっと人に漬け込まれる隙の多い凡人は、私のことを聞いて心を痛めてくれているかもしれない。でも、私は今の自分で良かったと思うわ。もし今の自分でなかったら、凡人という素敵な人と出会えなかった。凡人に拒まれて女性としてのプライドは傷付いたけど、初めて男性から人として見られた気がしたわ。それが悲しくもあり嬉しかった』


 そこで空行が入り、その空行が何となく物悲しさを増幅させる。


『ごめんなさい。今、書きながら今の自分でなかったら良かったと思ってしまったわ。今の自分でなかったら、こんな出会い方をしていなかったら……私達は違う関係になれたかもしれないのに……普通の友人に、もしかしたら本当の愛を教えてもらえる恋人になれたかもしれないのに……そう、思ってしまった』


 その文章が書かれている部分が、水滴に滲んだように文字が歪んでいる。まるで、涙の雫で濡れたような跡だった。


『…………凡人、愛してるわ。世界で一番、人生で初めて、貴方を愛してる』

「マリアさ――ん?」


 手紙を読み終えた時、スマートフォンが震えて電話が掛かってくる。すると、その画面に表示された名前を見て目を細めた。


『マリア・ヘルトロ・フェル』

 その着信者を示す文字列を見て、俺は応答ボタンを押して指をスライドさせて電話に出た。

『手紙は感動した?』


 電話の向こうでクスクス笑うマリアさんの声を聞いて、俺は一気にさっきまでの物悲しさが消え失せて酷い疲労を全身に感じた。


「俺の番号なんていつ手に入れたんですか」

『凡人、スマートフォンのパスワードは分かりにくいものにした方が良いわよ? 恋人の誕生日なんて安直過ぎるわ』

「ご忠告ありがとうございます。この電話の後、すぐに変えます」

『凡人達の付き合った記念日も止めておいた方が良いわ。私が知ってるから』

「…………」

『あら? 怒った?』

「いや、怖いなと思って」

『話したでしょう? 恋は人を良い方にも悪い方にも変えるって』


 俺をからかうために嘘の手紙まで書いたということにそこまでするかという感情が浮かぶ。


『凡人が先に酔い潰れちゃうのが悪いのよ。一人で飲むのは退屈だったわ』

「マリアさんが酒豪過ぎるんですよ。あの大量のボトル、結局ほとんどマリアさんが飲んだじゃないですか」

『凡人に良いことを教えてあげるわ。スパイと会う時にやってはいけないことが三つあるの。一つは金銭を受け取らないこと。それを弱みに利用されるわ。二つ目はプレゼントは貰わないこと。プレゼントの中に盗聴器やGPS発信器が仕込まれていることがあるし、爆発物の可能性だってある。さて、最後の一つはなんだと思う?』

「……スパイの手紙は信じるな、ですかね?」

『酷いわ。それに間違いよ。教えてあげるから"その"座り心地の悪そうな椅子から立ち上がって振り返って』


 そのマリアさんの指示に従って立ち上がり振り返ると、ガラス張りの窓の向こうでスマートフォンを耳に当てながら笑顔で手を振るマリアさんが見えた。


「来てたんですか」

『見送りに来たのよ』

「ありがとうございます。それで? 最後の一つは教えてくれないんですか?」

『もちろん教えてあげるわ。手紙の入ってた封筒の中をよく見て』


 そう言われて、鞄の口から手を突っ込み仕舞った封筒を取り出して口を開く。すると、封筒の中には便箋以外の物が入っていた。

 ベッドの上で爆睡する俺と、その俺の頬にキスをするベビードール姿のマリアさんの写真。構図的にマリアさんが自撮りした物だと分かる。


『スパイと会う時にやってはいけないことの三つ目は、スパイの前では酔わないこと。凡人みたいに酔い潰れてしまったら完全に無防備よ。そんな写真を撮られたくらいは可愛い方。私が悪いスパイなら命を取られていたかもしれないんだから』

「……気を付けます」

『ちなみにその写真のデータは私のスマートフォンに残ってるから』

「…………」

『安心して。恋人に見せないわ。良いでしょう? 私のプライドをズタズタにした上に私の秘密を握ってるんだから。これでもイーブンではないわ』


 ガラスの向こうでクスクス笑うマリアさんは、俺の持つ写真を指さす。


『それ、裏返してみて』


 言われるがまま写真を裏返すと、写真の裏にはボールペンで書かれた文字と真っ赤なキスマークが見えた。


『凡人とセックス出来なくて残念』


 文末に、ピリオドや句点の代わりにハートマークが書かれていて、その盛大に俺をからかい倒す気満々の文章に若干イラッとした。


「マリアさんって結構いたずら好――あれ?」


 スマートフォンに話し掛けながら顔を上げると、既にそこにマリアさんの姿はなかった。


『凡人、残念なお知らせが一つあるわ』

「何ですか?」

『本来、任務を完遂したターゲットや、今回の凡人みたいな任務を失敗したターゲットには二度と顔を合わせないのが機関員の決まりなの。でも、凡人の場合は特殊な事例になるの。だから、その決まりは適用されないわ』

「はあ……」

『だからまた必ず会いに行くわ。世界でたった一人、私のセックスを拒んで、私を人として扱ってくれた友人に』


 それでマリアさんからの電話は切れて、耳には電話が切れていることを知らせる電子音が聞こえる。


「凛恋……俺、とんでもない友達が出来たかもしれない……」


 そんなことを呟いていると、搭乗ロビーに俺の乗る飛行機の搭乗案内のアナウンスが響く。そのアナウンスにスマートフォンを持ったまま搭乗口まで歩きながら、また凛恋に会える喜びに心を躍らせる。そして、右手に持ったスマートフォンで凛恋にメールを打った。


『凛恋、今から飛行機に乗る。早く凛恋に会いたい。大好きな凛恋にドイツより愛をこめて』

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