【二四五《散り菊》】:一

【散り菊】


『来ないでッ! もう誰も信じないッ! みんな私のことなんてどうでも良いんでしょッ!』


 その声に飛び起きて、薄暗い部屋の中を見渡してホッと息を吐く。そして、心に押し寄せた罪悪感に堪らなくなって布団から出た。

 冷蔵庫からお茶のピッチャーを取り出しコップに注いで一気に冷茶を飲み干す。


「凡人?」

「凛恋……ごめん、起こしたか」

「ううん。私は大丈夫」


 隣に立った凛恋が、寝起きの顔で目を擦りながら俺の腕を抱く。


「凡人、何かあったの?」

「いや、暑くて目が覚めただけだ」


 俺はコップを置いてから凛恋に首を振って否定する。

 凛恋には、夏美ちゃんのことは話していない。ただ、話をしてきたとしか言っていない。

 正直に話せる訳がなかった。それは、俺が今抱いている途方もない罪悪感を凛恋に抱かせないためだ。


「私もちょっと暑くて目が覚めちゃった」


 クスッと笑った凛恋は、首筋に汗を掻いていて着ているシャツは汗で肌に貼り付いている。


「凡人のTシャツ、私の汗でびっしょりになっちゃった」


 汗で湿ったTシャツを掴んでクスッと笑った凛恋は、俺の胴に手を回して抱きつくと、俺の胸に顔を埋めて息を吸う。


「凡人の汗の匂い……」


 凛恋が俺の臭いを嗅ぐのを見ながら、俺も凛恋の背中に手を回し、さり気なく凛恋の着ているTシャツの肩に鼻を付けて凛恋の匂いを嗅ぐ。


「ねえ、凡人」


 凛恋が俺の体に手を回したまま体を横に揺らし、俺を見上げて甘えるような声を発する。


「布団に戻るか」

「うん!」


 ニコッと笑った凛恋が俺の手を引いて布団に戻ると、汗で湿ったシャツを脱ぎ捨てて俺のシャツも引っ張り上げて脱がす。そして、クスッといたずらっぽく笑った後に頬へ軽くキスをした。


「ホント、チョーヤバイよね私達。夏休みに入ってからはめ外しすぎ」


 俺の手を握って目の前で囁く凛恋は、ゆっくりと俺の胸を押して布団の上に押し倒した。


「でも、仕方ないよね? こんなに格好良い彼氏が居たらはめ外しすぎても」


 ムギュムギュと上から胸を押し付けてくる凛恋は、ついばむように頬や口の端にキスをして、いたずらっぽく上から微笑む。


「凡人からチューしてくれないの? 寝る前はいっぱいし――んっ……」


 下から凛恋の後頭部に手を回し、強引に凛恋の唇を奪う。でも、凛恋がすぐに俺に身を任せて、強引なキスは互いに求め合うキスへ変わる。

 前から凛恋を求める回数が増えた訳でも減った訳でもない。でも、求める時の気持ちの質は変わった。


 俺は凛恋に癒やしてもらおうとしている。凛恋を感じたい、凛恋の愛に包まれたいという渇望(かつぼう)以外に、凛恋に冷え切って黒ずんだ心を少しでも癒やしてほしいと求めてしまっている。そんなこと、凛恋にしてもらうようなことじゃないのに。

 凛恋が手探りでエアコンのリモコンを操作して設定温度を下げる。そして、手からリモコンを床に落として、凛恋は再び俺とキスをする。


 互いの肌を合わせていると、全身を溶かすような熱に包まれる。でも、その熱でのぼせて余計な思考が出来なくなることが心地良い。

 何も考えられない時間が長くなれば長くなるほど、嫌なことから逃げられる時間が長くなる。


 命を失わないために逃げることは罪じゃない。でも、背負うべき……向き合うべき責任から逃げるのは罪だ。

 戦略的撤退じゃない。ただの敵前逃亡だ。でも……逃げれば逃げるほど、立ち向かおうとする意思が崩れていく。

 生温く心地良い場所に居続けたら、冷たい場所や熱い場所に出たくなくなる。

 優しく温かに包み込んでくれる凛恋の中にずっと居たい。凛恋の中から出たくない。きっと……凛恋の外に出たら俺は…………。




 俺達が生活する街では、日本全国でも有名な花火大会が毎年開かれる。例年は地元の花火大会を見物しに行くが、今年は補講を受けないといけないこともあって、地元の花火大会は見られない。そんなこともあって、今年は街の花火大会に行くことになった。

 まだ少し明るいうちに家を出て、凛恋と一緒に浴衣をレンタルしてくれる店に行く。

 花火大会当日の夕方ということもあり、店を訪れる客は多いし、店の前を歩く人達も浴衣を着ている人達が多い。


「凡人! どう?」

「今年は水色に黄色の金魚柄か。めちゃくちゃ可愛いな」

「今年は落ち着いた柄じゃなくて、明るい感じにしようかなって思って」


 着付けを終えてもらった凛恋が、その場でくるりと回って俺に浴衣姿を見せる。

 周囲では俺達と同じように恋人同士らしき男女が居る。そのうちの男の方の視線を集める凛恋の手を掴み、俺は店から花火大会の会場まで歩き出す。

 大きな花火大会ということもあって、街中に花火大会のポスターが貼られている。そのポスターには何種類かバリエーションがあるが、そのうちの人さ一種類のポスターを見てしまって視線を逸らす。


 毎年、花火大会は赤字だったらしい。それで今年は出資者か集まらず、開催資金が確保出来ずに開催が危ういと言われていた。でも、そんな中、街の花火大会は長い花火大会の歴史上、最も規模が大きくなるらしい。その原因――いや、功労者はロニー王子だ。


 日本のことが好きなロニー王子が、花火大会の開催が危ういということを聞いて、ポケットマネーで花火大会の実行委員会へ多額の出資をした。それをニュースで見て、それに加えさっき見たポスターにはそのロニー王子の出資に対する感謝の文言が書かれていた。


 花火大会を楽しみにしていた人からすれば、ロニー王子には感謝しかない。俺も凛恋と花火大会に行くのだから、その花火大会を実現させたロニー王子には感謝しないといけないのかもしれない。でも、心の狭い俺はどうしてもそんな気になれなかった。それは、その出資のニュースが報道された後に、ロニー王子が凛恋を花火大会に誘ったからだ。もちろん、凛恋はロニー王子の誘いを『花火大会には凡人と一緒に行く約束をしてるので』と断ってくれた。それでも、ロニー王子の下心が見えるのが嫌だった。


 ロニー王子が出資した花火大会の開催費用は総額で一億五〇〇〇万くらいになるらしい。そのうちの何割をロニー王子の出資額が占めているのかは分からないが、わざわざロニー王子の名前を前面に押し出して宣伝するポスターを作っているところを見ると、少なくない割合を占めているのだろう。そして、その出資の目的がもし、凛恋と一緒に花火を見物するためにされたとしたら、もうそれは常軌を逸していると思う。


 好きな人にどれだけお金を掛けられるかで愛の深さは測れない。でも、お金を掛けるというのは、アルバイトでもお金を稼いだことのある俺からすれば、結構躊躇するはずのことだと思う。もちろん、俺は好きな凛恋のためなら自分の出来る範囲で凛恋のためにお金を使おうと思える。でも俺は、俺の凛恋にお金を掛けるという気持ちとは、ロニー王子のお金を掛ける気持ちは違うと思う。


 ロニー王子は自分でお金を稼いでいる訳じゃない。ロニー王子が使っているお金は、両親が持っているお金の一部で、その両親が持っているお金は元々フォリア王国の国民が納めた税金で出来ているはずだ。

 俺も少ないアルバイト代だが、一部を税金として納めている。もしその税金を、内閣総理大臣の息子が女性とたった一度デートするためだけに数一〇〇〇万規模で使ったとしたら許せるとは思えない。


 沢山の国民が汗水垂らして稼いだお金から納めた税金を、少しも汗を流さず働きもしない男の私欲に使われる。それが俺は納得出来ない。そして、それで「ロニー王子、ありがとう」なんて言っている花火大会実行委員会にも疑問を持つ。

 だけど、結局花火大会を見物しようとしている時点で、俺も俺が疑問を持っている人達と同じ穴の狢(むじな)だ。


「地元の花火大会もおっきいって思ってたけど、やっぱり人の多さが違うね」

「ああ。はぐれないようにちゃんと側に居ろよ」

「分かってる。この手、絶対に離さないから」


 指を組んで握った手を持ち上げて、凛恋は明るく可愛い笑顔を向ける。その凛恋の体に自分の体を寄り添わせると、クスッと笑った凛恋が軽く俺の体に寄り掛かりながら歩く。

 凛恋に浴衣の着付けをしてくれた店からしばらく歩くと、次第に人混みが厚くなり周囲に飾られている幟や提灯、それから通りに出ている出店が見えてきて、花火大会らしさが色濃くなる。

 街中を流れる川の河川敷に近付くと、既に河川敷にある出店の間は人で溢れ、川に架かっている橋も人でごった返していた。


「やっぱ、結構人が多いね」

「凛恋、大丈夫か?」

「うん。凡人が居るから大丈夫」


 そうやって明るく言ってくれるが、凛恋が無理をしているのは明らかだ。でも、初めてくる花火大会だから、人が少なくても花火が見物出来る場所が俺には分からない。


「凛恋、お茶飲んどけ。汗掻いてる」

「ありがと」


 人混みを歩いている途中、人の切れ目を見付けてそこで一度凛恋を休憩させる。凛恋がペットボトルからお茶を飲むのを見ながら、凛恋の足下を見て靴擦れで足を痛めていないか確認する。歩いている時も痛そうにしていなかったし、靴擦れにはなっていないはずだ。


「凡人がゆっくり歩いてくれるから全然痛くなってないよ。はい、凡人も飲んで」

「ありがとう」


 凛恋の足下を見ていた俺に、凛恋がニコニコ笑いながらキャップが開いたままのペットボトルを差し出す。その中から一口お茶を飲むと、キャップを閉めて鞄に仕舞った。


「何か買うか?」

「ううん。この人混みの中じゃ食べられないし、どこ行っても人が多くて無理そうだから。それに、そのために早めに晩ご飯食べてきたんでしょ?」

「そうだけど、せっかくの祭りだしさ」

「ダメよ。お腹にお肉が付いちゃうし」

「凛恋はもうちょっと付いても良いと思うぞ? いつも言ってるけど」

「いつも言ってるけど、凡人の彼女として凡人に最高に可愛いって思ってもらえる状態をキープしたいの」


 手を握ったまま腕を絡めて強く腕を抱いた凛恋は、クシャッと可愛く笑った。


「それに、大好きな凡人と並んで歩いてるってだけで最高なの。これで、一緒に花火を見られるんだから他には何も要らない」


 凛恋が言ってくれた言葉が嬉しすぎて、思わず顔がにやけてしまう。その俺の頬を、凛恋はニヤニヤと笑って人さし指で軽く突いた。

 俺と凛恋が少し出店の間を歩いて祭り気分を堪能している間に、薄明るかった空は完全な闇になる。でも、出店の照明で照らされる河川敷が賑やかで明るい。


「凡人、打ち上げ数五万発って凄いよね」

「ああ。ニュースでも言ってたけど、去年全国で開かれた花火大会は多くて四万発だって言ってたから、かなり規模が大きいだろうな」

「でも、大体花火大会の時間って二時間くらいだから、二時間で五万はちょっと多い気もするな」

「ってことは、短い間にいっぱい上がるんだ」


 そう言った凛恋は、まだ花火が上がっておらず真っ暗な空を見上げて首を傾げる。


「ってことは、ドンッ、ドンッて上がる訳じゃなくて、ドドドドドッて上がるってこと? なんかそれ、花火って言うか爆竹じゃん」


 眉をひそめて言った凛恋の言葉に思わず笑うと、凛恋も笑った俺を見てはにかむ。


「まだ花火を見てないけど、もし予想通りだと、風流って感じがしないかも」

「大は小を兼ねるって言葉はあるけど、数が多ければ何でもいい訳じゃないからな。それに、俺はどっちかと言うと打ち上げ花火よりも線香花火の方が好きだ。人混みがない場所で綺麗な花火を手軽に見られるし」

「それ分かる! あっ! 今度線香花火買ってきて二人でやろうよ!」

「良いな。じゃあ、明日早速線香花火を買いに行くか」

「うん! 楽しみ~」

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