【二四四《蕾→牡丹→松葉→柳……》】:二

 夏美ちゃんと会うはずだった日の翌日。俺は夏美ちゃんが居る施設に来た。そして、いつも通り受付に話をして、夏美ちゃんとの面会を頼んだ。


「多野くん、ごめんなさい。川崎さん、部屋から出られないみたいで」

「分かりました。俺が部屋に行っても良いですか?」


 ロビーのソファーに座って待っていると、施設の職員さんが申し訳なさそうに施設の奥を見る。

 昨日、俺が夏美ちゃんに行けないと電話をした後から、夏美ちゃんはずっと部屋に籠もり食事も取っていないらしい。その状況で、今からもう会えなくなることを伝えるのは辛い。でも、もうそうするしかない。これ以上、凛恋の優しさに甘えて凛恋に無理をさせたくない。

 施設内の廊下を歩き、夏美ちゃんの部屋の前に立ってドアを軽くノックする。


「夏美ちゃん、こんにちは。開けてくれないかな?」

「はい……」


 ドアの向こうから夏美ちゃんの元気のない返事が聞こえ、その後に内鍵が開かれる音が聞こえる。俺は、左手に持ったケーキが崩れないように部屋のドアを開けた。


「こんにちは」

「こんにちは……」


 見るからに元気のない夏美ちゃんに挨拶をして部屋の中に入ると、俺は思わず足を止める。

 部屋の中は換気がされていないのか、女の子の甘い香りが濃いムッとする空気が立ちこめ、照明がついていない上にカーテンが締め切られていて暗い。それに、部屋の中には学校で使う教科書や私物の本が床に散乱し、ベッドの上にも床にも制服や私服、それに下着も無造作に散らばっている。

 教科書や本はしわくちゃになったものや、ページが破れているものもある。きっと夏美ちゃんが乱暴に投げ散らかしたんだろう。


 夏美ちゃんは大人しい性格の子だ。だから、よっぽどのことがない限り、今の部屋の状況に陥るほど荒れるとは思えない。でも、その“よっぽどのこと”が起こったのだ。多分きっと……いや、確実に俺のせいで。


「夏美ちゃん、ちょっと空気入れ換えようか」


 スウェット姿の夏美ちゃんの横を通り過ぎて窓の方に歩いて行くと、夏美ちゃんが俺の手を掴んで止める。


「夏美ちゃん?」

「もう、来ないって言うんですよね。そのために来たんですよね」


 夏美ちゃんは俺に視線を向けずに俯いたままにそう言った。その夏美ちゃんを見て、俺は心に締め付けられる痛みを感じながらも、夏美ちゃんから視線を逸らさず声を掛ける。


「座って話そ――」


 床に散らばった教科書と本を簡単に整理して座る場所を確保し、俺は床に座ろうとする。でも、俺が前屈みになった瞬間、夏美ちゃんが俺の体を押してベッドに突き飛ばした。

 固めのベッドの上で僅かに跳ねた俺は、背中に軽い衝撃を受けて肩を壁にぶつける。その鈍い痛みに耐えながら顔を上げようとすると、夏美ちゃんが俺の上に馬乗りになって見下ろす。


「夏美ちゃん……」

「凡人さんから何も聞きたくないです」

「夏美ちゃん、ちゃんと話したいんだ」

「もう会えなくなる話なんて聞きたくないですっ!」


 俺が話そうとしてることを察してしまった夏美ちゃんは、俺の言葉を聞きたくないと拒否して首を激しく横へ振る。


「凛恋さんが会うなって言ったんですよね」

「凛恋はそんなこと言わない」

「そんなことありませんっ! 凛恋さんが私と凡人さんを会わせないようにしてるんです! 凛恋さんは私が嫌いだから、嫌いな私と凡人さんが会うのが嫌なんですっ! だから、凡人さんに私と会うなって言って、凡人さんは凛恋さんに言われたから私ともう会えないって言いに来たんですッ!」


 俺のシャツの胸元を両手でギュッと握った夏美ちゃんは、上から大きな叫び声を上げる。その叫び声を上げた拍子に、夏美ちゃんの目から涙が溢れ落ち、俺の頬に落ちて伝い、布団に染み込む。


 頬に触れた夏美ちゃんの涙は、頬を焼かれるかと思うくらい熱かった。でも、その涙の熱さを感じた直後、俺の心には凍えるような冷たさが刺す。


「夏美ちゃん。俺、小中といじめられてさ。まあ、高校の頃もいじめられてた」

「知ってます。凡人さんも私と同じで、凄く傷付いたって」

「そう。でも、俺が本当に傷付いたのは小学校低学年までだった。それ以降は、いじめをしてくるやつらのことを心の中で馬鹿にしてたよ。俺の場合は、そうしないと自分の心を保てなかったから。小学校の頃は親友って呼べるやつが居たからなんとかなってた。でも、本当に辛かったのは中学の三年間だった」


 回顧して、俺は自分の言った言葉を噛みしめて思う。俺はいじめが辛かったのだと。

 いじめには慣れている。だから、いじめられてもどうってことない。そう言うのは、単なる俺の強がりでしかないのだ。強がって虚勢を張っていなければ、弱みを見付けられて追い打ちを掛けられると本能的に感じていたのだ。だから、弱みを見せないように俺は、必死にいじめに動じない自分を周りに見せようとしてきた。


「夏美ちゃんは今が辛い?」

「辛いです……学校では変わらずいじめられてて、施設に居ても独りです。だから、凡人さんが居なくなったら、私は生きていけない……」


 また頬に夏美ちゃんの涙が落ちて、ズキッと心に突き刺さる。その痛みに耐えながら、俺は夏美ちゃんを見上げて言葉を重ねる。


「高校に上がって、親友と再会して、凛恋と出会って、沢山の友達も出来て、俺は分かったんだ。俺は必死に自分は一人で大丈夫なんて思っていたけど、実際はそんなことなかったんだって」

「だったら、私の気持ちを分かってくれますよね?」

「ああ。でもね、俺には他にも分かったことがあったんだ。高校を卒業して、仲の良い友達と離れ離れになって、専門学校に行ってた友達はフランスで就職した。だから、ずっと今まで通り何も変わらない状況はあり得ないことだっていうのも分かった。絶対に、今、高校の仲の良いメンバーでずっと一緒に居られたら、俺は本当に最高に楽しい毎日を過ごせてると思う。だけど、ずっと永遠に今まで通りに出来る状況なんてないんだって分かった。時間が経てばそれぞれの立場が変わって、心の中では友達同士でも、今までと同じように会いたい時に会える状況には居られないんだって」

「でも、凡人さんはどこか遠くへ引っ越す訳じゃありません。凛恋さんに言われて――」

「凛恋は関係ない。これは、俺が決めたことなんだ」


 切っ掛けは凛恋だ。でも、それで夏美ちゃんともう会わないと決めたのは俺自身だ。だから、この今俺の心に押し寄せている罪悪感は全て俺の自己責任だ。そして、夏美ちゃんを酷く傷付けていることも、全て俺自身がやっていることだ。


「凡人さんが好きです。凡人さんとずっと一緒に居たい……」

「それは出来ない」

「浮気相手でも良いです。エッチするだけの相手でも……」

「俺は凛恋を裏切れない。それに、夏美ちゃんはそんな男に安売りして良いような価値の低い存在じゃない。もっと、夏美ちゃんは自分から大切にしてもらうべき価値を持ってる」

「……また、出会い系サイトで男の人に会います」

「それがどんなに危ないことで良くないことかは、夏美ちゃんが一番よく分かってる。礼儀正しくて優しい心を持った夏美ちゃんなら分かってるだろ?」

「…………凡人さんが居てくれないなら、生きてる意味なんてありません」

「あるよ。夏美ちゃんはまだ高校生だ。生きてるだけで意味があるし、生きてればもっと自分に意味が持てる。でも、生きていないと将来持てるかもしれない意味さえ持てなくなる」

「凡人さんが居ない人生なんて意味ないですッ! そんな人生なら死んで終わらせた方が――」

「逃げることは大事だよ。いじめが辛くて無理にいじめのある状況に居続けるのはよくない。だから、不登校になっていじめから逃げるのは全く悪いことじゃないと思う。でも、それはいじめに自分を殺されないためだ。自分の命だけじゃなくて、心を殺されないために逃げるんだ。逃げた先に死ぬことがあるなら、それは逃げちゃダメだ。立ち向かわないといけない。そこは逃げちゃダメなんだ」


 逃げてはいけないと言うのは簡単だ。死のうと考えてしまう人に、戦えと言うのは酷な話だ。でも、逃げた末に命を失うのなら逃げさせてはいけない。立ち向かわせるか、他に道を見付けてあげなくてはいけない。でも……今の俺には夏美ちゃんに他の道を示してあげられない。だけど俺は今、答えを出さなくてはいけない。だから……俺は夏美ちゃんに立ち向かうことを強いることしか出来ない。夏美ちゃんの持っている心の強さに懸けるしかない。


「凡人さんが居なくなったら……私は独りぼっちなんです……」

「植草さんも居るし、施設の人も居る」

「みんな仕事だからやってるんです。お金のために、私のことを心配してる振りをしてるんです」

「そんなことないよ。みんな夏美ちゃんを心配して真剣に考えてくれてる」

「仕事とか関係なく私のことを心配してくれる人は凡人さんしか居ませんッ!」


 上から俺にしがみつく夏美ちゃんは、必死に俺を繋ぎ止めようと訴え続ける。


「絶対に嫌です……絶対に嫌……」


 目の前で涙を流されると、心を鬼にして冷たくすることが出来なくなってしまう。でも、俺は突き放さなければいけない。

 夏美ちゃんの肩を押して引き剥がしベッドに座らせて、俺はベッドから下りて立ち上がる。そして、立ったまま夏美ちゃんの両肩に手を置く。


 俺がやってることは身勝手なことだ。

 自分で勝手に夏美ちゃんの問題に首を突っ込んで、手に負えなくなったら勝手にその問題を投げ捨てようとしている。

 まだ夏美ちゃんから離れるべきではないとは思う。今俺を見上げている夏美ちゃんは、俺のシャツの裾を握り締めている。

 その手を、離さなければいけない。でも、そのために夏美ちゃんの手に自分の手を伸ばすのを躊躇う。


『凡人が夏美ちゃんと会うの、ずっと嫌だった』


 凛恋の言葉が頭の中に反響し、凛恋の悲しむ姿が脳裏に浮かぶ。


「夏美ちゃん……これからは、もう会いに来られない」


 ゆっくりと夏美ちゃんの手をシャツから剥がして言うと、夏美ちゃんの俺を見上げている目から色が消えた。


「……………………凡人さんも、私を見捨てるんですか」


 冷たい声だった。感情が全く感じられなかった。


「見捨てる訳じゃない」

「じゃあ、何でもう私と会えないんですか? 私には凡人さんが必要なんです」

「川崎さん、植草です。多野さんも来てるんだよね?」


 ドアの向こうから、植草さんがドアをノックする音が聞こえる。その植草さんの声に、俺は助かったと思ってしまった。

 夏美ちゃんを納得させることは俺では難しい。いや、俺では無理だ。だから、俺よりも夏美ちゃんを納得させられる手段や言葉を持っているかもしれない。


「入ってこないでください」


 ベッドから下りてドアまで駆け寄った夏美ちゃんは、ドアの内鍵を閉めてドアに背中を付ける。


「川崎さん、何か困ったことがあるなら――」


 ドア越しに、植草さんの諭すような声が聞こえる。でも、それ以外に何かガチャガチャと耳障りな金属音も聞こえる。多分、植草さんの隣で職員さんが部屋の合い鍵を用意しているのだ。

 俺は今、夏美ちゃんを目の前にしている。その夏美ちゃんは目の色を消して、恐ろしいくらい無感情で淡々とした声を発している。多分、それをカウンセラーとして経験の長い植草さんはドア越しに察したのだ。だから、良くない状況だと思って無理にでもドアを開けようとしている。


「凡人さんが居なくなるなんてイヤ……」


 背中でドアを押さえる夏美ちゃんは、首を横へ激しく振って涙を散らせながら言う。

 分かっていたことだった。どうやっても、夏美ちゃんを綺麗に納得させて、夏美ちゃんともう会わないという選択が出来ないことくらい。絶対に夏美ちゃんは傷付き、そして俺は夏美ちゃんを傷付けることになると分かっていた。俺は、それが分かっていて、それでも夏美ちゃんともう二度と会わないと決めたのだ。


 花も折らず実も取らず……花も実もどっちも得ようとしたら、結局二つダメにして得られない。だから……花を選ぶか実を選ぶか、どちらか決めなきゃいけない。


「夏美ちゃん……ごめん。本当に……ごめん。俺にもっと力があったら、俺がもっと夏美ちゃんのことを考えられる人間だったら、夏美ちゃんをこんなに傷付けることはなかった……」


 謝っても仕方ない。いや、謝って許されることではない。

 俺は、夏美ちゃんの見捨てるのかという言葉に、とっさに見捨てる訳じゃないと言った。でも、それは詭弁(きべん)にもならない暴論だ。誰がどう見たって俺は夏美ちゃんを見捨てるようにしか見えない。俺自身、俺がやっていることは夏美ちゃんを見捨てることにしかならないと思っている。だから……俺は夏美ちゃんを見捨てるのだ。


「…………帰ってください」


 夏美ちゃんはドアから離れてそう言った。その言葉の後、ドアが開き植草さんと職員さんが夏美ちゃんの部屋に入ってくる。そして、部屋の惨状を見て目を見開いた後、俺の姿を見て眉をひそめる。


「多野さん、これは――」


 植草さんが状況を俺に尋ねようとした瞬間、俺の背後で甲高い破壊音が響く。その音に振り返ると、締め切られたカーテンの隙間から、割れた窓ガラスが見える。


「川崎さん、どう――キャッ!」


 植草さんが夏美ちゃんに駆け寄ろうとした瞬間、夏美ちゃんは俺が持ってきたケーキの箱を植草さんに向かって投げた。そして、その箱は壁に当たってひしゃげ、床に鈍い音を立てて落ちる。


「出てってッ! もう誰も私に関わらないでッ! もう誰も信じられないッ!」

「多野さん、部屋から出てください」


 手当たり次第に、部屋にある物を俺達に向かって投げる夏美ちゃんを見詰めていた俺は、後ろから植草さんに腕を引っ張られて部屋の外へ連れ出される。その直後、テープ台が俺の顔の横を通り過ぎて廊下の壁に当たった。

 人を切り捨てるのが初めてな訳じゃない。むしろ俺は、同い年の誰よりも人を切り捨てたことが多いと思う。俺をいじめるやつらのことは当然切り捨てたし、凛恋を傷付けるやつらも容赦なく切り捨ててきた。それに、俺の味方をしてくれる人達を傷付ける人も切り捨てて来た。


 俺の人生は、人を切り捨てて進んできたようなものだ。だから、俺は今更人を切り捨てることに何か感傷的になっていい人間ではない。でも……だけど……それでも……こんなに辛いことがあるなんて思わなかった。

 俺が今まで切り捨ててきたやつらは、俺が嫌いで俺が憎んでいるやつらだった。だから、自分の世界から切り捨てることに躊躇なんてなかった。でも、夏美ちゃんは違う。


 夏美ちゃんは心ない大人に――心ない親に傷付けられた子だった。そして、これからもっと心ない人達に傷付けられる危うさがあった。でも、夏美ちゃん自身は本当に優しくて素直な子だった。夏美ちゃんの人生を狂わせたのは、全て心ない人間達の冷たさが原因だ。だから、俺はその夏美ちゃんが明るく前を向いて歩いてくれるようになってほしいと思った。


「川崎さん落ち着いて!」

「来ないでッ! もう誰も信じないッ! みんな私のことなんてどうでも良いんでしょッ!」


 植草さんと夏美ちゃんの声が頭の中で反響して、グラグラと脳内を揺らす。その揺れで俺はまともに立っていられず、壁に背中を擦りながら廊下に座り込む。

 夏美ちゃんは心ない人間達の冷たさに傷付けられた。その心ない人間達の中に…………今日俺も入ってしまった。

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