【二二四《精神臨界》】:二

 フライパンをテーブルに置いて、小竹さんはベッドに上がり俺の上に馬乗りになった。そして、シャツとスカートを脱いで下着姿になった。それをボーッと見上げながら、俺は視界が涙で歪むのを見る。


「……帰して、ください」

「ダメだよ。凡人は私とずっと一緒に居て私と結婚するの」

「帰せよッ! 俺が何したって言うんだッ! 俺はあんたのことなんかこれっぽっちも好きじゃない!」

「凡人……混乱してるんだね。呪いの掛かった指輪を壊したのに洗脳も解けてない」

「洗脳? そんなものに掛かってるわけないだろ! 頭がおかしいのはあんたの方だッ! 外せよッ!」


 もう、冷静さなんて保てなかった。説得なんてどうでも良かった。今すぐに、目の前に居る悪魔をこの手で消し去りたかった。


「……少し眠ったら落ち着くから」

「クソッ! ンンッ! ンンーッ!」


 小竹は俺の上に馬乗りになって俺の体を押さえ、口に錠剤を押し込む。その薬を飲み込まないように努めたが、小竹に口を塞がれて息苦しさから喉を動かしてしまった拍子に飲み込んでしまう。そして、錠剤を飲み込んですぐにまた睡魔が俺を襲い始める。

 俺はまた意識が遠くなるのを感じながら、心底死ねば良いのにと思った。でも、それは俺に馬乗りになった小竹ではなく、凛恋のために何も出来なかった自分自身にもつくづくそう思った。




 小竹に拘束されて三日経ち、俺は両足の拘束だけは外された。でも、左手は鎖ではなくワイヤーの繋がった手錠に変わった。

 ワイヤーの長さはトイレには行けるものの、部屋の外には出られない。窓にも防犯用の追加鍵が掛けられていて、窓も開けることは出来ない。

 摺りガラスの窓の外は真っ暗で。ここに連れて来られてから四度目の夜になる。


「ただいま」

「……帰してください」


 帰ってきた小竹に解放してくれるように頼む。でも、小竹はそれを無視して台所に立った。


「今から晩ご飯の準備するから待っててね」


 振り返って笑う小竹に、俺はベッドの上で視線を落とす。

 もう逃げる方法を考える余裕もない。逃げることを考えるよりも、色んなことが心に押し寄せて心を押し潰した。

 こんなに自分の心が弱いとは思わなかった。自由を奪われて、大切なものを壊されて、それで気力を失ってしまうほど柔だとは思わなかった。


「凡人、今日の夕飯はシチューだよ。煮込みが終わるまでいちゃいちゃしよう」

「帰してください……」


 俺の隣に座って抱き付いてくる小竹から体を離そうとする。でも、気力を失った俺の力は拒むにはあまりにも弱く、女の小竹に簡単に引き寄せられ唇を奪われた。

 気持ち悪かった。吐き気がした。小竹の舌の感触が嫌で、必死に目を瞑って頭を無心にしようと努めた。


「凡人、今日は出来そう? 私、今日こそはエッチしたいな。やっぱり、早く凡人の子供が欲しいし」

「帰してください……」

「……やっぱり、まだ洗脳が解けないんだね。でも大丈夫。凡人の洗脳が解けるまで、私がずっと付いてる。それで、凡人の洗脳を解いて一緒に幸せになろう」


 抱き締められて、押し返したいのに押し返せなくて、拒む気持ちはあるのに拒めなくて、そんな弱い自分に嫌気が差した。

 もう、誰も助けに来てくれないのかもしれない。俺は、一生小竹の家に繋がれて、一生ここから出られないのかもしれない。

 小竹がベッドから下りて、台所で鍋の様子を見ている後ろ姿をボーッと眺めながら、左手の手錠を見る。


「凡人、シチューが出来たよ」

「帰してください……」


 皿にシチューを盛った小竹が戻ってきて、スプーンでシチューをすくって俺の口元に差し出してくる。だが、俺はそれに口を付けずに頼む。でも……小竹は俺の話は聞かない。


「はい、あーん」

「帰してください……」


 俺がまたそう頼むと、小竹はスプーンを皿に戻して皿をテーブルの上に置いた。


「凡人が発注ミスした私のために、お客さんに頭を下げてくれたでしょ? あの時に、私の運命の人だって思ったの。私は、凡人と一生一緒に居たいって思ったの」

「帰してください……」

「でも、凡人には悪い女が付いてて、ずっと心配だった。だから、凡人を助けるために色々頑張ったの。それでやっと、こうやって凡人と一緒に居られる」

「帰してください……」

「それが、私は凄く嬉しくて幸せ」

「帰してください……」


 また抱き締められて、心の温度が下がる。凍えそうなほど体が震えて、小竹から強く抱き締められるに従ってその震えが大きくなる。


「シチューは明日も食べられるから。少しゆっくりしてからお風呂に入ろうか」


 優しく微笑む小竹の顔が恐ろしくて俺は顔を背ける。そして、重たい体をベッドの上に倒した。

 眠れば朝になっている。朝になれば、仕事がある小竹はこの場所から居なくなる。朝になれば小竹の顔を見ずに済む。だから、早く眠ってしまおう。


「凡人、あの女のことがまだ忘れられないの?」

「…………」

「あの女、もう他の男と付き合ってるよ。凡人が居なくなったらすぐに他の男の家に転がり込んでる。毎日毎日泊まる男の家を変えてる。そんな尻軽女のこと――」

「凛恋のことを何も知らないくせに、勝手なこと言うな」

「凡人。分かるよ、信じてた人に裏切られて悲しいんだよね? でも――」

「信じてた人じゃないッ! 信じてる人だ! それにッ! 凛恋は俺を絶対に裏切らないッ! 凛恋は……凛恋はそういう人だ! お前みたいな、人を強制して従わせようとする薄汚い人間と一緒にするなッ! ――ッ!」


 寝転がった体を振り向かせて小竹に怒鳴ると、小竹は初めて俺に手を上げた。でも、俺は頬を打たれても小竹を鋭く睨み返す。


「せっかく、凡人から好きになってもらうのを待ってたんだけどな。でも、私ももう我慢出来ないから」


 冷たい表情で俺を見下ろした小竹は、バッグの中から白地の小箱を取り出す。その箱にはなにやら英語が書かれている。


「これ、勃起不全に凄く効くんだって。これがあれば、凡人がしたくなくてもエッチ出来るよ?」

「俺が飲むと思うか?」

「飲むと思うよ? あの女と凡人がエッチしてた映像、私がネットに拡散するって言ったら」

「――ッ!?」


 小竹は俺の顔を見て勝ち誇ったように笑った。

 小竹は、俺達の部屋に仕掛けられた盗撮器の映像を見ていたと言ってた。だから、その映像を保存している可能性もある。もちろん、小竹が言っていることがはったりである可能性もある。だけど、はったりではなかった場合……ネット上に――。


「最初から洗脳されてました。自分が間違ってました。南都子のことが好きです。そう言ってくれればこんなことしなくて済んだのに」

「……証拠はあるのか。盗撮した映像を持ってるって証拠が」

「信じなくても良いよ。私、凡人を夢中にさせてたあの女が嫌いだから。一生消えない恥を掻いてもらった方が清々するし。本当に気持ち悪い。私の凡人にあんないやらしいことをして。あの女のせいで、私の凡人がどんどん穢れていく。そんな罪を犯した女には、ちゃんと制裁を与えないと」


 はったりか分からない。分からないからこそ、俺は強気に出られない。はったりだと仮定して動くにはリスクが高すぎる。


「…………」

「凡人があの女のことを綺麗さっぱり忘れて、私と結ばれてくれたら私はあの女を許してあげる。私が時間を掛けて、あの女に穢された凡人を綺麗にしてあげれば良いんだから。でも、凡人がまだあの女のことを好きだって言うんだったら、あの女を許さない」


 小竹はテーブルの上に置いてあったノートパソコンを開き、俺にモニターを向けて操作する。そのモニターに映し出された映像を見て、俺は視線を床に落とす。ノートパソコンに映し出されたのは動画ではない。でも、俺と凛恋が前に住んでいたアパートの部屋を移した出した静止画だった。


「……止めてくれ」

「言うことが違うよ?」


 小竹に聞き返されて、唇を噛んで両手の拳を握り締める。今小竹に従わなければ、凛恋が傷付いてしまう。でも……従えば凛恋だけは守れる。


「凛恋のことを忘れて、あんたの言うことに従う。だから、その動画をネットに流さないでくれ。頼む……」

「違うよ。あんたじゃないでしょ? ちゃんと名前で呼んで」

「南都子の言うことを聞く。南都子のことを拒まない。だから……止めてくれ」

『南都子の言うことを聞く。南都子のことを拒まない。だから……止めてくれ』


 俺が言葉を発した後、発した言葉と同じ声が部屋に響く。それは、小竹が持っていたボイスレコーダーから発せられた音だった。


「もし、逆らったら分かってる?」

「分かってる」


 首を傾げた小竹に頷いて答えると、小竹は俺の隣に座って俺の頬を撫でた。そして、ニッコリ笑う。


「凡人からキスして? ちゃんと、舌を絡めて恋人にするみたいに」


 俺は、小竹に言われた通り、自分から顔を近付けて小竹にキスをした。少しでも躊躇った姿を見せれば小竹の機嫌を損ねると思った。だから、必死に頭の中で凛恋とキスをしていると思い込もうとした。


「はぁ~……凡人のキス、凄くいやらしい」


 舌で俺の唇を舐めた小竹は、嬉しそうに笑ってまたキスをする。そして、俺は小竹が押し込んで来た舌を受け入れた。

 どんどん、自分が黒ずんでいくのが分かる。凛恋を守るために行動する時間が長くなれば長くなるほど、凛恋に見せられない自分になっていく。


「凡人、私のこと好き?」

「ああ」

「ちゃんと言って」

「南都子のことが好きだ」

「嬉しい。私も凡人のことが好き」


 ベッドの上に押し倒され、上で焦ったように服を脱ぐ小竹を見上げる。そして、小竹の手が俺の下腹部に触れる感触に顔をしかめてしまい、それを隠すために少し顔を小竹から逸らした。


「やっぱり薬は飲まないとダメだね」


 俺に馬乗りになりながら、小竹は小箱の封を開けて錠剤を取り出し、俺の顔の上に持ってくる。


「あーん」


 小竹に口を開けるように言われ、俺は一瞬躊躇う。でも、すぐに口を薄く開けた。

 小竹の手がゆっくり俺の口の中へ錠剤を入れようと近付いてくる。そして、小竹の指が錠剤を離そうとした瞬間、部屋の中にインターホンが鳴った。

 その音を聞いた瞬間、俺は自由になっている足を動かし、テーブルの上に置いてあったノートパソコンを蹴飛ばした。ノートパソコンを蹴った右足には激痛が走ったが、部屋の中を吹っ飛んだノートパソコンは、壁に当たって真っ二つに割れる。


「取り押さえろ!」


 玄関ドアの鍵が開いて、部屋の中に数人の警察官がなだれ込んでくる。そして、瞬く間に俺の上に馬乗りになっていた小竹を取り押さえた。


「離してッ! 離せ! もう少しで凡人は私のものになるのに! 離せ!」


 俺は床の上に取り押さえられながらも叫ぶ小竹を見ながら、上がった息を必死に整えようと息を吸う。


「多野凡人さん! 大丈夫ですか!? 誰か工具を持ってこい。腕を拘束されてる!」


 警察官が俺の側に来て、俺に声を掛けながら他の警察官に指示を出す。俺は指示を受けた警察官が走ってきてワイヤーを切るのを見て、やっと心が落ち着いて壁に背中を付けて大きく深く息を吐く。


「多野さん、こちらへ」

「イッ!」


 俺は警察官に部屋から出るように促されるが、ノートパソコンを裸足で蹴飛ばした右足が痛み上手く歩けない。


「肩を貸します」


 警察官の肩を借りて小竹の部屋から出た俺は、アパートの前に停まったパトカーを見る。そのパトカーの側には、凛恋のお父さんとお母さんと一緒に居る凛恋の姿が見えた。


「凡人ッ!」

「凛恋……」


 俺を見た凛恋は駆け寄って来て俺を力いっぱい抱きしめてくれる。


「良かった……凡人っ……凡人っ……」


 抱きしめて泣いてくれる凛恋。その凛恋の温かさは近かったし感触も強かった。だけど……。

 凛恋の存在が、手の届かないどこかにあるような、そんな気がした。

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