【二一八《ただ最愛を知っただけ》】:一
【ただ最愛を知っただけ】
俺と凛恋の家の隣で優愛ちゃんとルームシェアをしているステラは、優愛ちゃんと一緒に俺と凛恋の家を訪ねてきた。そして、居間に座ったステラは俺を真顔でジーッと見詰める。
「何かあったのか?」
「凡人に助けてほしい」
俺が尋ねると、ステラはそう要領を得ない言葉を返してくる。
毎回のことながら、説明が圧倒的に不足しているステラの言葉に、俺は慣れた対応でステラから詳しく話を聞き始める。
「具体的に何をどう助けてほしいんだ?」
「男子に今度ある大学の演奏会でデュオを組んでほしいと頼まれて困っている。だから助けて」
「助けてってことは、男子とデュエットをしたくないってことか? 別に良いんじゃないか? 一緒に演奏するだけだろ?」
「それがね、一緒に演奏した男女は結ばれるってジンクスがあるんだって」
優愛ちゃんがチョコレート菓子をポリポリと食べながら、ステラの話にそう付け加えてくれる。つまり、ステラにデュエットを頼んでいる男子はステラとお近付きになりたいやつらなのだろう。
以前、真弥さんから音大について話を聞いた時は、音大はひたすら音楽しかやらないような音楽に対してストイックな人達の集まりだと思っていた。しかし、実際は案外普通の大学と同じような感じらしい。
ステラは性格がド天然なところはあるが、見た目はかなり美形だし、ヴァイオリンを弾いている時は物凄く格好いい。そんなステラを魅力的だと思う男子は多いと思う。だが、ステラはヴァイオリンを弾くために大学に行ってるのだろうから、そういう男子が迷惑なのかもしれない。
「私はソリスト。それに、私は凡人のもの」
「ちょっと、いつからステラは凡人のになったのよ。凡人は私のよ」
隣に座る凛恋が俺の腕を抱きながらステラを見て目を細めた。いつものことなのだから、凛恋ももっとステラの言葉を受け流せば良いのにと思う。だが、凛恋は変わらずギッとステラに鋭い視線を返している。
「断るなら自分で断れよ。俺が断ったら余計話がややこしくなるだろ?」
「断るのが面倒」
「面倒って、嫌でもせっかく誘ってくれたんだからちゃんと断るのも礼儀だろ。ちゃんと自分で断らないとダメだぞ」
「二七四人全員に頼まれた時に断った。でも二七四人全員から考え直してほしいと言われた。だから、凡人に助けてほしい」
「…………ステラは人気者だな」
俺はてっきり一人の男子学生から誘われているのかと思っていたが、二七四人から誘われる状況を想像して、確かにそれは面倒だろうと思った。
クラシック音楽界でかなり有名な天才ヴァイオリニストであるステラは、天才的な演奏技術を持っていることでかなり有名だが、クラシック音楽界やヴァイオリンに無縁な人にも、見た目がクールで可愛いことからそれなりに名が知れている。そんなステラだから、男子に人気が出るのは必然だろうが、おおよそ三〇〇人の男子達に好かれるまでだとは想像していなかった。しかし、二七四人から頼まれて断り、それで全員から考え直してほしいと言われたら面倒だとしか思えない。そして、基本的に人付き合いが苦手なステラが、その状況にお手上げになるのは分かる。
「無視してるなら話は別だが、一度断ってるんだからほっといて良いんじゃないか? 断ってるのに考え直せって言うのは男の方の身勝手だろ」
ステラは頼まれた時に断っていると言っていた。それでも相手の男の方が無理矢理食い下がったのだ。一度断っている時点でステラが最低限やらないといけないことは終わっている。
「大学に行く度に、色んな人からデュオを組んでほしいと頼まれて困っている」
「それは大学側に苦情を入れた方が良いな。断ってるのにしつこく誘われて困ってるって」
「分かった。一緒に行ってほしい」
「いや……どうして俺が一緒に行くことになるんだよ」
ステラが人と話すことが苦手なのは分かる。だが、人と必要最低限のことが話せないという状況のまま放っておくわけにはいかない。
俺も自慢ではないが人と話すのは得意じゃない。しかし、必要最低限の会話は出来ると思っている。それは、自分が生きていく上でどうしても人と話さなくてはいけない場面が出てくるからだ。
今、ステラは困っている。でも、それはステラ自身が困っている、迷惑していると言えば改善される可能性が高い。
「でも、この前ステラが持って来た演奏会のプリントにはヴァイオリン専攻でもピアノ専攻の人と一曲はデュエットしないといけないって書いてなかった?」
凛恋が入れたお茶を飲みながら言った優愛ちゃんの言葉を聞いて、俺は細めてステラを見る。そのステラは全く表情を変えない。
「ステラ、優愛ちゃんが言ったのは本当か?」
「そう」
「……じゃあダメだろ、デュエットしないと」
「でも、私はソリスト」
「高校の頃、ジュードとデュエットしただろ」
「あの時は凡人のために仕方なくやった」
「大学の必修なんだろ? だったらやらないと単位を落とすんじゃないか?」
「凡人なら何とかしてくれると信じてる」
「俺が大学の単位をどうこう出来るわけがないだろ……」
意地でもやりたくないのか、ステラは頑なに首を縦に振らない。
「凡人さん、演奏会でデュエットした男女が結ばれる理由って、そもそもデュエットを受ける時点で相手に対して嫌な感情がないのもそうなんだけど、練習期間に一緒に居る時間が長くなるみたい」
「なるほど。ステラは結構人見知りなところもあるし、親しくない男と二人きりで過ごす時間が長くなるのは苦痛だよな」
優愛ちゃんの話を聞いて、ステラの嫌な気持ちも分からなくなかった。
俺だって男女に限らず、まったく面識のない相手と二人で頻繁に会わされたらストレスが溜まる。しかも、ステラの場合はジンクスの件もあって、十中八九相手の男子達はステラを好きだと思っている。そうなると、練習終わりに食事に誘われたり休みの日にはデートに誘われたりと、想定されるストレス案件は多い。
「優愛は何でそんなに音大の事情に詳しいの?」
「バイト先に音大の人が居て、その人から聞いた」
凛恋の質問に優愛ちゃんはそう答えると、ステラの頭を優しく撫でた。
「ステラってヴァイオリンも天才的だし見た目もチョー可愛いでしょ? だから、音大でも目立つみたい。自分の彼女が世界的な美少女ヴァイオリニストだったらって考えちゃうのかな~」
「私が好きなのは凡人だけ」
「凡人は私のよ。でも、好きでもない男と一緒に居ないといけないのが嫌だって気持ちは分かる」
三人の会話を聞きながら、最初はステラのわがままに見えていた話も、ステラの心の安定に関わる大きな問題になった。特に俺は、男に言い寄られて傷付いた人を何人も見ている。
ステラのことだから、一度目に断った時には一切配慮のないストレートな言葉をぶつけたと思う。それでも食い下がるということは、男子達がよっぽどの自信家か何も考えてない脳天気のバカかどちらかだ。ただ、自信家でもバカでも突き抜けてしまったら、女性にとっては恐怖でしかない。
「とりあえず大学側に話をするのは絶対だ。それで、可能だったらピアノを専攻してる女子学生を探してもらえ。女子なら男子よりはマシだろ?」
「……分かった」
ステラはそう答えるが、まだ話をするのが不安なのか俺をジッと見て助けを求めている。
「凡人、提案がある」
「提案?」
「そう。大学には私が話をする。でも、凡人に隣に居てほしい」
「付き添いをしてほしいってことか……」
迷うところではある。ステラに自分で話をさせなければいけないとも思う。しかし、ステラが不安な気持ちも分かる。そして、そんな不安であろうステラを一人で行かせることが不安な俺が居る。
もし、ステラがまた大学で男子に会ってデュエットを申し込まれたら、ステラは今よりもっと人と話すことが苦手になってしまう。それにやっぱり、ステラに男に対して恐怖心を持ってほしくない。
凛恋も萌夏さんも、男というだけで条件反射のように恐怖を感じてしまう。それに二人とも苦しまされている。そういう二人を見ているからこそ、同じ境遇の人をこれ以上増やしたくはない。女性を不用意に怖がらせるような男を、同じ男として見過ごすわけにはいかない
「分かった。一緒に行こう」
「凡人、愛してる」
「ありがとう。でも、俺が好きなのは凛恋だけだ」
ステラの頭を撫でながら、俺は結局助けることにした自分の甘さに罪悪感を抱く。でも、危険を感じるような状況にステラを置いておくのは良くない。その状況を放置するくらいなら、ステラを多少甘やかすくらい問題じゃない。そう俺は心の中で割り切った。
「凡人さんは優しすぎるよね~。まあ、そういうところも凡人さんの良いところだけどさ~」
「そうよ。凡人の優し過ぎる性格にはいつもヒヤヒヤするんだから、優愛は真井さんとくっついてなさい」
「心配しないでも盗らないって」
凛恋をからかった優愛ちゃんはステラに視線を向ける。
「ステラ、大学に話をするなら早い方が良いんじゃない?」
「凡人、明日一緒に行ってほしい」
「分かった」
優愛ちゃんに促されて言ったステラに頷くと、ステラは小さく微笑んでスマートフォンを取り出した。
「もしもし、神之木ステラです。少し大学で困ったことがあって……明日、友人と一緒に相談をしたいです」
どうやらステラはスマートフォンで大学の職員に電話をしているらしい。
ステラは電話を切ると俺を見てから立ち上がった。
「連絡はした。明日また来る。優愛、部屋に戻ろう」
「もう良いの?」
「良い。これ以上は、凡人と凛恋の邪魔になる」
「あっ……ちょ、ステラ待って! お姉ちゃん、凡人さんおやすみ!」
部屋を出て行くステラを慌てて追い掛けて出て行った優愛ちゃんを見送ると、俺は腕を組んで小さく息を吐いた。
「ステラに悪いことしちゃったかな……」
隣では、凛恋がステラと優愛ちゃんが出て行った玄関の方を見ながらそう呟く。
「明日、音大に行った帰りにステラとゆっくり話してくるよ」
「うん……」
凛恋は少し声を落として俺の手を握る。その反応から、凛恋も俺と同じ気持ちなのだということが分かった。
次の日、ステラと待ち合わせをしてステラの通う音大に向かう。
俺はステラの通う音大の前までは何度か行ったことはある。でも、中まで入るのは今日が初めてだ。
赤煉瓦製の塀の上に白いフェンスというシックな雰囲気の校門をステラと一緒に抜けると、俺は校内の異様な雰囲気に顔をしかめる。
すれ違う学生達がステラの方を見て指を指しながらヒソヒソと話をしている。俺は、その雰囲気に純粋な嫌悪感を抱いた。
きっと、ステラを指さしている学生達の方は「あっ、天才ヴァイオリニストの神之木ステラだ」というような単純な理由なのかもしれない。でも、指をさされてヒソヒソと話をされるという状況は居心地の良い雰囲気ではないし、晒されて気分が良い雰囲気でもない。しかし、そんな周囲の雰囲気にも、全く気にした様子を見せないステラは俺を振り返って首を傾げた。
「凡人?」
「よくこの雰囲気の中を歩けるな」
「この雰囲気?」
「周りからジロジロ見られて落ち着かなくないか?」
俺がそう言うと、ステラは周囲をグルリと見てから俺に視線を戻す。そして、表情を全く変えずに言った。
「興味の無い人間に興味は無い」
「まあ、ステラらしいな」
興味の無い人間に興味は無い。日本語としてはどうなの? と思ってしまう答えだが、それがステラの答えなのだ。
ステラは人と話すのが苦手だが、その前提には興味の有る無しも関わってくる。ステラは昔から、ヴァイオリンを生活の中心に置いて、生活に占める割合も圧倒的にヴァイオリンが多かったらしい。だから、ステラは極端に対人経験が少ない。それは、昔から対人関係を避けてきた俺よりも少ないように思える。それが原因で人と話すのが苦手なのだが、人と話すのが苦手以前に、ステラにとって人と話すことに必要性を感じなかったからなのだと思う。
今、ステラの周囲でステラを見ている学生達は、ステラにとって同じ音大の学生だ。しかし、ステラにとって同じ音大の学生というだけでは興味の範囲に入らないらしい。そして、ステラは興味の範囲外にあるものには、人に限らず一切無関心で全く意識を向けようとしない。だから学生側から興味を向けられても、その興味を全く気にしないのだ。
正直に言うと、俺はステラのそういう能力ではないが、性格が羨ましいと思う。
俺は自分から興味を向けていない相手から興味を持たれることが多々ある。でも、それは好意的なものでないのがほとんどだ。もし、俺の立場がステラだったら、そういう悪意的な興味を全く感じず気にせず生活出来るのだと思う。でも、俺はステラじゃない。
俺は完全に気にせず興味の範囲外に置くことは出来ない。俺に出来るのは、“気にしないという意識を持って、自ら関心の外に追いやろうとする”だけだ。でもそれは、結果的に一度相手を意識の中に入れてしまう。だから、完全にシャットアウトするわけではなく、一度心の中で興味を持つかの選択をしなくてはいけない。一度心の中で選択をしようとした時、端から興味を持つべき相手ではないと分かっていても意識してしまう。そこで、俺は嫌な思いをする。
西のことも、羽村のこともそうだ。あいつらのことなんて意識の中から消し去ってやりたい。でも、意識の中から消し去ってやりたいと思っている時点で、俺は西と羽村を意識の中に一度持って来てしまう。でもステラだったら、意識さえもせずに二人を意識の外に置ける。
「凡人は気になる?」
「ああ、明らかにステラのことを見て指さしてるからな。気分が悪い」
「どうして凡人が気分が悪い?」
「友達のステラをジロジロ見て指さしてるんだぞ。嫌な気持ちになって当たり前だ」
俺の答えを聞いたステラは、また周囲を見渡す。しかし、今度は無表情ではなく少し表情を曇らせていた。
「凡人をジロジロ見ている女が居る。凡人をジロジロ見て良いのは凛恋と私だけ」
「……気にするところはそこなのか。でも、俺を見てるわけじゃなくてステラと一緒に居るやつを見てるだけだぞ」
ステラの大分ずれた言葉にほっこりして、俺は少しだけ心の中に走った冷たさを消し去った。
歩き慣れているステラの案内で大学の構内に入り、ステラが歩いていく後ろを付いていく。事務関連の部署がある事務棟は、当然ながら音大らしさはない。
「ん?」
天井から教務課と書かれた札の下がったカウンターの場所まで行くと、スーツを着た男性二人が立ってこちらを見ていた。
「神之木くん、こんにちは」
「どうも……」
男性に声を掛けられたステラは、見るからに萎縮した様子でさり気なく俺の後ろに隠れる。すると、ステラに声を掛けた男性は俺に視線を向けて渋い顔をする。
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