【二〇七《境界線上の葛藤》】:一

【境界線上の葛藤】


 フランスのパリから帰国して、俺は凛恋と一緒に地元へ帰省した。

 俺は帰省したその日から、楽しかった旅行から気持ちを切り替える。

 川崎夏美(かわさきなつみ)ちゃん。俺が出会った、高校生の女の子のことだ。


 夏美ちゃんは家庭環境が良いとは言えない状態で、今は児童相談所に保護されている。しかし、いずれは児童養護施設に入ることになる。でも、それが不安な自分が居るのだ。

 栞姉ちゃんが一度、俺の家から出て施設へ行った時、その施設のボランティアの大学生から酷いことをされた。それで、栞姉ちゃんは傷付き辛い思いをした。その経験があるせいか、児童養護施設に対する信用が俺にはない。もちろん、酷い施設なんて全国でもほんの一部でしかないのだろうが、それでも不安があることは否定出来ない。


 児童養護施設でなければ、里親を探すしかない。でもそれは児童養護施設よりももっとリスクが高い。

 預かった子供の世話をするという『仕事』をする児童養護施設と違って、里親の里子を育てるという行為自体は『ボランティア』だ。もちろん預かった子供の養育に掛かる費用や手当は出る。でも、子供を育てること自体は金では解決しない。


 子供を育てることは大変なことだ。いや……人を育てることは大変だ。


 人は絶対に自分の思い通りには動かない。それは当然で、どんなに幼い子供にもそれぞれの自我を持っているからだ。好き嫌いはするし嫌なことがあれば不機嫌にもなる。それを、実子だったら我慢出来る人も居るだろうが、それが里子、他人の子供だというだけで無理だと感じてしまう人は多いと思う。人を育てることを仕事だという前提で報酬を得て働いている児童養護施設でも子供を虐待する時代だ。それなのに、人を育てる行為がボランティアの里親なら尚更虐待のリスクも高くなる。


 夏美ちゃんはとても良い子だった。自分の境遇に追い詰められて、顔も知らない男にすがろうとはした。でもそれは、夏美ちゃんの周りに居る人が誰も夏美ちゃんのことを見てあげていなかったからだ。

 俺は、夏美ちゃんが安心して暮らせる環境にしてあげたい。

 俺が考えるよりも、児童相談所の職員さん達が考えてくれる。それが良いのは分かっている。でも、俺にはただ夏美ちゃんのことを黙って見ている気にはなれなかった。


「カズくん、久しぶりにモナカとお散歩しない?」

「ああ」


 部屋のドアをノックして開けた栞姉ちゃんが、リードを俺に見せてニッコリ笑う。俺は、部屋の床から立ち上がって栞姉ちゃんと一緒に庭に出る。

 庭でのんびりしていたモナカに栞姉ちゃんが近付くと、モナカは栞姉ちゃんに駆け寄って嬉しそうに尻尾を振って見上げる。


 栞姉ちゃんがリードを首輪に付けると、モナカは栞姉ちゃんの隣にピッタリと寄り添って俺を見る。


「じゃあ、行こうか」


 歩き出した栞姉ちゃんについて行くモナカの隣を歩き出し、俺は足下を歩くモナカを見下ろす。モナカは栞姉ちゃんの隣をピッタリ歩きながらも、俺を見上げてジッと見詰めている。


「モナカも分かるんだよ。お兄ちゃんが何か悩んでるって」

「向こうで、親に育児放棄された高校生の女の子に会ったんだ。駅前で、俺を出会い系サイトで出会った人だと勘違いして声を掛けてきた。それで、女性を支援してるNPO法人に助けてもらって、今は児童相談所に居る。これから先は児童養護施設に入ることになりそうだって話してた」


 振り返った栞姉ちゃんの言葉に、俺は正直に自分が思っていることを話した。それは、栞姉ちゃんが俺が考え込んでいることを分かっているからではなく、夏美ちゃんのことを相談する相手としては最適任だと思ったからだ。


「そっか。その子はカズくんに出会えて良かったね」

「でも、その子には他に頼れる人が居なかったらしくて、それで児童相談所のカウンセラーの人が、その子は分離不安障害になってるかもしれないって。その対象が俺になってるらしい」

「分離不安障害か……。カズくんが優しくしてくれて、カズくんなら信じられるってその子は思ったのかもね。カズくんは凄く頼りになるから頼りたくなる気持ちは分かる。私も、カズくんに頼って施設から逃げてきた経験があるし」


 栞姉ちゃんが淡々とした口調で語った言葉に、俺はその時の記憶が蘇る。

 セーラー服姿で顔を腫らして首に青あざを作った栞姉ちゃん。それを作った相手には、今にも煮えたぎるような怒りが沸き立つし、夏美ちゃんがそうならないようにしたいという思いも強まる。


「でもね、それってカズくんが悪いわけじゃない。一番悪いのは、その子をそんな精神状態にした親。でも、二番目に悪いのは誰かに頼らないと心の平定を保てない本人だよ」


 俺は栞姉ちゃんの言葉が意外だった。

 栞姉ちゃんの言葉通り、夏美ちゃんが辛い状況に追い込まれたのは、間違いなく夏美ちゃんの育児を放棄している親の責任だ。でも、夏美ちゃん本人に責任があるという言葉が出るとは思っていなかった。


「私みたいな人の境遇って、他人からの感想が両極端なの。それだけ辛い家庭環境だったら仕方ないって甘く見てくれる人も居る。でも、自分だけが辛いと思うなって厳しい意見の人も居る。私はどっちかと言えば厳しい方の意見だけど、それでもやっぱり“自分と関係ない人”に迷惑を掛けるのは、ただのわがままでしかないと思う」


 自分と関係のない人。それが、きっと“保護責任がない人”にという意味なのは分かっている。でも、自分と関係のない人という言葉には、他人を遠ざけるような本心が見えてしまう。


 俺もずっとそうだった。自分と、爺ちゃん婆ちゃん以外は他人だと思っていた時期が沢山あった。そこから、絶対に他人の世話にはならないという意地もあった。そういう時期があって、他人ではない人が出来た今なら、俺は自分以外の人を遠ざけるようなことを悲しいや寂しいと感じる。

 それにやっぱり、誰にも頼れず追い詰められるより、誰かに頼って救われる方が良いと思う。


「俺は迷惑を掛けても良いと思う」

「私は血の繋がりはないけど、カズくんのことを本当の家族だと思ってる。もちろん、お爺さんとお婆さんも、かけがえのない大切な家族だと思ってる。それはカズくん達が私を家族にしてくれたのもあるし、言葉だけじゃ無くて心から私を家族として受け入れて、受け入れようとしてくれたのが分かったから。だから、私はカズくんの家族としてカズくんのことを助けたいって思うし、カズくんになら弱音を吐いて頼っても大丈夫だって思ってる。それはね、私もカズくんもお互いのことを迷惑だなんて思わないって確信があるからだよ。迷惑だなんて思うくらいの覚悟なら、カズくんは私を家族として受け入れてくれなかった。カズくんは凄く真面目な子だから」


 栞姉ちゃんのその言葉は、俺に言っているような気がした。

 夏美ちゃんからどんな迷惑を掛けられても、迷惑だと思わないという覚悟がない限り踏み込むべきではないと。


 俺と夏美ちゃんの関係は友達だ。ただ、友達としての期間はあまりにも短く、個人的な問題に首を突っ込めるほど信頼関係が構築されているわけじゃない。今はまだ、限りなく他人に近い――いや、ほぼ他人と言っていい。その関係性では、普通は家庭環境まで首を突っ込まない。もし突っ込める関係があるとすれば、親友や恋人と言った深い関係性にまでなった間柄でしかない。俺は今、夏美ちゃんとは友達の関係でそのプライベートな問題に首を突っ込んでいる。


 友達という関係をどの程度深い関係かと定めるのは難しい。ただ、夏美ちゃんと出会ってからの時間だけを考えれば、親友とは絶対に呼べない。

 夏美ちゃんが今抱えている問題は、間違いなく人生を左右する問題だ。でも、俺は栞姉ちゃんの言葉を聞いて迷いが出た。

 本当に、今のままの接し方を夏美ちゃんにして良いのか、と。


 綺麗な言葉を使えば、夏美ちゃんの人生を背負える自信がないと言える。でも、酷く汚い言葉を使えば、夏美ちゃんの人生を変えるために自分の人生を犠牲にしたくないと言えた。


 もし、夏美ちゃんの人生を背負ったからと言って夏美ちゃんの人生を好転出来る確証は全く無い。背負った結果、自分の人生まで追い込まれる可能性がある。

 俺の人生が俺だけのものなら別に良いのかもしれない。でも、俺の人生はもう俺だけのものじゃない。俺の人生は、俺だけではなく凛恋のものでもある。その凛恋の人生まで巻き込むことを考えると……。


「確かに、その子に親身になって寄り添うこともその子を助ける方法だと思うよ。でも、それは分かりやすい助け方。私は他にもその子の助けになれる方法はあると思うよ。もっと分かりにくい形の助け方が」

「もっと分かりにくい形の助け方……」


 俺は栞姉ちゃんの言葉を口に出して反すうしながら、自分の答えを出そうと必死に考える。しかし、そんなに簡単に答えが出るほど、俺が考えている問題は簡単なものではない。


「カズくんのやり方は極端なんだよ。〇か一かじゃなくて、〇か一〇〇か……ううん、〇か一〇〇万かって言うくらい極端。カズくんはそういう融通が利かないところがある。やっぱりそれじゃ一〇〇万の力を絞り出すためにカズくんはカズくん自身の何かしらを犠牲にしなきゃいけなくなる。もちろん、誰かのために何かをしようとしたら、時間とか気持ちとかをその誰かに傾けないと出来ない。でも、カズくんは必要以上に時間と気持ちを割こうとする。それが、八戸さんみたいに大切な人なら私はいくらでも傾けて割くべきだと思う。だけど、冷たい言い方になるけど、カズくんがそこまでするべき人じゃない人も世の中には居る」

「……じゃあ、夏美ちゃんがそういう人だって言うこと?」

「その夏美ちゃんって子が、カズくんにとってどんな子なのか知らない。でも、八戸さんより大切だって思えるならいくらでも気持ちを傾けて割いて良いんじゃない?」


 俺は栞姉ちゃんの言葉をズルいと思った。俺が、この世の中で凛恋と比べて、凛恋よりも大切だと思える人なんて居るわけがない。だから、栞姉ちゃんの言葉に俺は「夏美ちゃんは気持ちを傾けて割くべき人ではない」と答えるしかない。


「私はね、カズくんのお姉ちゃんとしてカズくんを心配してるの。私がカズくんの家族になる前から、カズくんは私を心配してくれた。その心配のお陰で助けられたって分かってるし、カズくんが凄く私のことを心配して気持ちを傾けて時間を割いてくれたから今の自分があるのもちゃんと理解してる。だからこそ心配なんだよ。カズくんのやってる、綱渡りみたいな人助けが」


 栞姉ちゃんの一言一言が俺の心に突き刺さる。そして、俺の心の奥底を静かに痛めつけた。

 なんとかしたい。そう思うことはきっと悪いことじゃないと思う。だけど栞姉ちゃんは俺に言っているのだ。

 俺のしようとしていることは危ういと。


 分かってる。知ってる。俺は何か行動を起こす時に後先を考えないし、俺は何でも出来るスーパーヒーローなんかじゃない。後先を考えないから追い込まれることが沢山あるし、何でも出来ないから手詰まりになることも沢山ある。今の状況だってそうだ。夏美ちゃんのために何かしようと、夏美ちゃんの力になろうとした結果、結局は夏美ちゃんを分離不安障害という状態にしてしまった。それは、俺が何も出来ない人間なのに後先を考えて行動しなかったせいだ。


 やりたいことも目指すところも明確になっていないのに行動することは無責任だ。俺は、その無責任で夏美ちゃんを苦しめている。


「善意とか厚意とかって凄く素敵なことだと思う。世の中の大部分の人が善意とか厚意を持つってことを真っ先に躊躇う人が多いから、誰に対してもそういう気持ちが持てるカズくんは本当に人間として素敵な人だよ。でもね、善意と厚意って人を優しい気持ちに出来る万能な物じゃない。善意と厚意に限らず人の気持ちって盾にもなれば剣にもなる。それが相手を思いやる気持ちから生まれたものでも、相手を傷付けてしまうことになるの。カズくんを責める気持ちはないけど……私は凡人くんの優しさで凡人くんを好きになった時、凡人くんが私の気持ちに応えてくれなくて凄く傷付いた。それは私自身のエゴでしかなくて、凡人くんには関係ない話。でも、実際に私は傷付いた。今は弟のカズくんってなんとか割り切って居られるけど、もしそうじゃなかったらきっとまだ引きずってたと思う。それだけ、カズくんの優しさは人の心を左右してしまうの」

「俺はどうすれば良いんだろう……」


 つい、俺はその言葉を発してしまった。栞姉ちゃんとモナカと一緒に散歩に出る前は、夏美ちゃんが良い環境に居られるようにどうすれば良いのかを考えていた。でも、今は自分がどうすれば良いかが分からなくなっていた。夏美ちゃんのために何かをしようとしていること自体が悪であると感じて、行動しようという前向きさが陰ってしまった。それは、中途半端なことをすれば夏美ちゃんを傷付けると認識したからだった。


「それは私が何か言うべきじゃない。それは、真面目なカズくんならちゃんと分かってるはず」

「分かってる」


 栞姉ちゃんの言いたいことは分かっている。

 誰かに出してもらった答えは自分の答えじゃない。それは、誰かからヒントをもらって導き出した答えとは全く別物だ。自分の答えじゃないというだけで、人は持った答えの責任を出した相手になすり付ける。そうなったら、自分の持った答えに自信を無くして答えを最後まで突き通せなくなる。

 だから、どんなに悩んで時間が掛かっても自分で答えを出さなくてはいけない。

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