【二〇六《スペシャリテ》】:二
「遂に、夢を叶えたな。おめでとう、萌夏さん」
萌夏さんの夢はパティシエールになることだ。名店クロンヌ・ガトーの新店舗で働くということは、萌夏さんももちろんケーキを作って行くということになる。それはまさしく、萌夏さんが目指していたパティシエールの仕事だ。
「ありがとう。とりあえずは叶ったけど、ここからが勝負なの。レティシアさんの下に付かせてもらって技を盗みながら、私のケーキで結果を出さないと。私のケーキでマルセイユ支店を他の支店や本店に負けない人気店にするの」
萌夏さんが手際良くケーキ作りをしながら微笑むと、凛恋が身を乗り出して笑顔で言った。
「萌夏のケーキなら絶対に大丈夫。萌夏のケーキは何でもチョー美味しいし綺麗だし、それに萌夏の明るさと優しさが詰まってるもん! 人気にならないわけない!」
「ありがとう、凛恋。凛恋の期待に負けないケーキを作れるように頑張る」
ただでさえ夢にひたむきな萌夏さんは輝いて見えた。そして、夢を叶えて次の夢を追い掛け始めた萌夏さんは、もっともっと輝いている。
この二年間で萌夏さんは大きく成長した。そう考えて、すぐに俺はどうだろうかという疑問が浮かぶ。
成長ということが、勉強が出来るようになったとか仕事が出来るようになったと言うことなら、少なからず成長はしただろう。でも、精神的な成長は、俺はしたとは言い切れないと思った。
特に今年は酷かった。俺が仕事で我慢をしたせいで、沢山の人に心配を掛けた。それは高校時代から繰り返していることだ。それを鑑(かんが)みれば、俺は成長していない。
「凡人くん、そんな辛気臭い顔してどうしたの?」
「え? 辛気臭い顔、してた?」
「とぼけてもダメよ。凛恋じゃなくたって、凡人くんが何か考えてる顔くらい分かるんだから」
「ごめん。俺は大学生になってから何か精神的に成長出来たかなって思ってさ。萌夏さんは夢を叶えてもストイックにまた次の夢を追い掛け始めた。それに、高校時代から間違いなく精神的に成長してる。でも、俺は高校時代から何も変わってないなって思って」
正直に自分の胸の内を明かすと、隣に座る凛恋が黙って俺の手を握る。すると、材料を混ぜながら萌夏さんが笑った。
「私は変わることが全部正しいとは思わないけどね。不器用でも優しくて格好良いって凡人くんの長所でしょ? もちろん、凡人くんは不器用さが無くなったら最強だと思うけど、不器用なところが格好良いだけじゃなくて可愛いって思うし」
「ちょっと萌夏、私の目の前で凡人のことを口説かないでくれる?」
「ごめんごめん」
「でも、萌夏の言ってることは間違ってないのよね。私も、凡人のぶきっちょな優しさには慣れてるし。萌夏の凡人が可愛いって感想にも同意する」
耐熱陶器のカップに混ぜた生地を流し込む萌夏さんに凛恋が言うと、萌夏さんはクスッと笑う。
「ほんと、凛恋は高一の頃から変わらず凡人くんが大好きよね」
「そうよー。誰にも渡す気がないくらい大好き」
「はいはい。分かってるって」
萌夏さんはオーブンに生地を流し込んだ耐熱カップを入れると、白い皿を四枚用意する。
「五日って意外と早かったな~」
萌夏さんが呟いた声で心にあった寂しさがざわつく。
今日の午後にはもう日本へ帰国するために飛行機に乗らなければいけない。
心友と過ごす時間は短く感じる。そして、終わりを感じると酷く切なくなる。でも、それでも心友と過ごす時間を止めないのは、心友と一緒に居ることが楽しいからだ。
一日が二五時間、いや四八時間欲しい。それだけあれば、もっと楽しい時間を楽しめる。
「今日で三人が帰るって思うとめちゃくちゃ寂しい。でも、また次に会える日のために毎日を頑張ろうって思える」
「次に会える日のために毎日を頑張る、か」
萌夏さんの言葉を繰り返しながら、俺は心の中で深く頷いた。
世の中、楽しいことや嬉しいことばかりじゃない。むしろ、つまらないことや悲しいことの方が多いと思う。だけど、それでも俺達が毎日生きて行けてるのは、そんな膨大な嫌なことの中にある、キラキラと輝く楽しいことや嬉しいことが一粒でも二粒でもあるからだ。
萌夏さんも凛恋も希さんも、そして俺もまた次にみんなで笑ってはしゃげるために毎日を生きる。
「出来上がり。一応、これが私のスペシャリテ、フォンダン・オ・ショコラ・アミアンティム」
盛り付けを終えた萌夏さんが俺達の前に出した皿の上には、中央にこんがり焼かれたフォンダン・オ・ショコラの周りに、ホイップクリームやラズベリーの実がちりばめられ、それらを繋いで囲うように赤いベリーソースで円が描かれている。
「フォンダン・オ・ショコラ・アミアンティムのアミアンティムってなに?」
「アミアンティムっていうのは、フランス語で親しい友人のことを指す言葉なの。この中央にあるフォンダン・オ・ショコラは凡人くんで、このフォンダン・オ・ショコラに寄り添ってるホイップクリームが凛恋。そして、周りにちりばめてるベリーが私達。んで、この甘酸っぱいベリーソースは私達を繋いできた時間をイメージしてる」
「凡人がメインなんて、萌夏らしいケーキ」
凛恋がクスッと笑うと、萌夏さんは少し顔を赤らめてはにかむ。
「だって、私達が本当の意味で親友になれたのは凡人くんのお陰でしょ? 外はちょっと固めで苦い生地で出来てて、中には温かくて甘いチョコレートソースが入ってるフォンダン・オ・ショコラは凡人くんのイメージにぴったりなケーキだから選んだの」
「全然知らない人から見たら、凡人くんは無愛想な人にしか見えないけど、実際に凡人くんの心と接した人は、凡人くんが優しくて温かいって知ってるからね。萌夏の言うとおり凡人くんのイメージにピッタリ」
希さんはチラッと俺に視線を向けてクスクス笑いながら萌夏さんの話に同意した。
「凛恋に見立てたホイップクリームは、凡人くんの持ってる苦味を包み込んでまろやかにしてくれる大事な役割があるの」
「萌夏、ありがと」
「そんで、ラズベリーは甘さと酸っぱさのアクセントのためと、彩りが良いから凡人くんの周りを賑やかしてる私達ね。それで、私達を繋いだ時間に見立てたベリーソースは、良いことも悪いこともいっぱい経験して酸いも甘いもあったから、甘酸っぱいベリーソース。それで、円にしてるのはその時間は絶対に途切れて終わらないって意味」
その萌夏さんの言葉を聞いて、俺は心の中に温かい気持ちがフッと湧き出る。そして、萌夏さんがケーキに込めてくれた気持ちが嬉しくて、俺の目の奥には熱い涙が染み出る。
萌夏さんが作ってくれたケーキに込められた想いはとても温かくて優しい。萌夏さんがどれだけ、俺達という心友達のことを考えて大切にしてくれているか分かるケーキだった。
「さ、食べて」
俺達は萌夏さんに促され、フォークで萌夏さんが作ってくれたフォンダン・オ・ショコラ・アミアンティムを切り分けて口へ運ぶ。
フォンダン・オ・ショコラの苦味と甘味のバランスが素晴らしく、どの味もくどくなくしつこさがない。それにホイップクリームを絡めて食べると、バランスの良い苦味と甘味を更に滑らかにまろやかにしてくれる。そして、アクセントとしているラズベリーやベリーソースが後味の爽やかさを作り出して、一切の雑味を口に残さない。チョコレートはあまり多く食べられないが、これなら何皿でも食べられてしまえる。そう思えるほど食べやすいケーキだった。
「萌夏さん、めちゃくちゃ美味しかった」
「ありがとう。でも、レティシアさんにはまだまだ改善の余地があるから研究しなさいって言われてるの。私のスペシャリテなんだから、私が絶対にレティシアさんを唸らせる一皿に高めてみせる。大切な親友を載せた皿だしね」
パチッとウインクをした萌夏さんは、自分の分の皿に載ったフォンダン・オ・ショコラをフォークで丁寧に食べ始める。
俺と凛恋と希さんは、萌夏さんに甘く温かい視線を向ける。それに、萌夏さんは少し恥ずかしそうに頬を赤らめながらも微笑みを返す。それは、萌夏さんがベリーソースに見立てた俺達が経験してきた時間と全く同じだった。そして、それは萌夏さんの願い通り……。
絶対に途切れることはないと確信出来る。
荷物を預け終わった後、搭乗手続きに入る前にシャルル・ド・ゴール国際空港のロビーで、俺達は萌夏さんと最後の別れを惜しむ。
視線の先では、ついさっきまで笑顔で話していた凛恋、希さん、萌夏さんの三人が抱き合っている。その三人の顔には、涙が浮かんでいた。
絶対にまた会える。そのために毎日頑張って生きる。そう確信していても、やっぱり別れの寂しさを消し去れるわけじゃない。でも、俺はそれで良いのだと思う。
別れが寂しいということは、それだけ惜しむ相手のことが大切でかけがえが無いということなのだから。俺はそれを、高校を卒業する時に知った。だから、寂しくて涙を流すことは何も恥ずかしくない。
「凡人くん」
「萌夏さん」
「来てくれてありがとう」
涙を流して目を真っ赤にした萌夏さんが、俺に近付いて来て右手を差し出しながらそう言う。俺は、その萌夏さんの手を握って強く握手を交わしながら答える。
「いや、俺達が萌夏さんに会いたくて勝手に来たんだ」
「今度は凡人くん達が住んでる街に遊びに行くから。今度は凡人くん達に街を案内してほしいな」
「任せてくれ。絶対に楽しませるよ」
「それは全然心配してない。みんなと一緒に居て楽しくないわけがないし」
赤い目のまま満面の笑みを浮かべた萌夏さんは、ゆっくりと手を離して体の後ろに両手を組む。そして、一度凛恋を振り返った。
「凛恋。私、凡人くんが好き」
「知ってるわよ。昨日も聞いたし」
「凡人くんのこと諦められない」
「知ってるわよ。萌夏は簡単に諦めるような恋なんてしないことくらい。でも、凡人は絶対に渡さない」
「うん。私も、凡人くんの隣は凛恋だと思ってるから」
凛恋と萌夏さんは笑い合いながら、ゆっくりとまた抱き締め合った。
「今度は嫌なことがあったら、ちゃんと言いなさいよ。隠しちゃダメだから」
「うん……ありがとう、凛恋。今度は絶対に何かあったら話す」
「それなら良い。私達は親友なんだから、辛い時こそ頼ろう。私だって、嫌なことあったら萌夏に頼るから」
「凛恋には凡人くんが居るでしょ?」
「女の子にしか頼れないこともあるでしょ?」
「まあ、それもそうね」
凛恋と萌夏さんはなかなか離れる気配がない。それに、その輪に希さんも加わって、また三人で別れを惜しみ始めた。それを見て、俺は名残惜しさよりも微笑ましさを抱いた。
やっぱり、男には入れない空間というのは存在する。いや、男が入るべきではない空間と言った方が良いのかも知れない。
優しくて温かくて華やかな女子の輪。それを見詰める俺は、三人に背中を向けてシャルル・ド・ゴール国際空港のロビーを見渡す。
沢山の外国人達がせかせかと歩くロビーを見ると、やっぱり自分が外国に来ているという実感が湧き、非日常の世界に飛び込んだという感覚がある。だけど、もうすぐその時間も終わりだ。
もう終わりだ。そう思ったのに、何故か俺の心に寂しさが沸かなかった。それよりも、また次に会える時に対する期待が心を躍らせる。それは、きっと俺が時間の楽しみ方を知っているからなのかもしれない。
それを教えてくれたもの全てを表現する言葉を俺は知らない。きっと、代用出来る言葉はいくらでもあるのかもしれない。でも、どんな言葉を使ってもそれは陳腐(ちんぷ)なものになってしまうような気もする。
でも俺は今日、それを感覚として表現出来るスペシャリテに出会った。その一皿を食べれば誰だって俺の感覚を分かってもらえる。
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