【一九〇《卑小な憂いと壮大な栄光》】:一
【卑小な憂いと壮大な栄光】
今日はレディーナリー編集部でのインターンが休みの日。でも、俺はいつも通り正面玄関から月ノ輪出版のビルに入る。その俺の後ろには、凛恋と希さんも付いてきていた。
「凡人くん、すっかり編集者さんみたいだね」
「凡人格好良い!」
俺がインターン生用の社員証を見せて警備を抜けるのを見て、希さんは尊敬二〇パーセントからかい八〇パーセントの笑顔で言い、凛恋は尊敬一〇〇パーセントの満面の笑みで言う。
「…………二人とも、ただビルの中に入っただけだぞ。それに、初めて来たわけじゃないだろ?」
「二回目だけど、やっぱり出版社のビルに来るのって緊張するし」
今日、月ノ輪出版に用があるのは俺ではなく凛恋と希さん。そして、二人の用事の相手は編集長の古跡さんと帆仮さんだ。
以前、凛恋と希さんがモデルをやった企画が人気で異例の重版が行われた。そうなれば、編集部としては企画の第二弾や第三弾をしようと考えるのは当然だ。
古跡さんは凛恋と希さんをモデルに使った次の企画も帆仮さんに担当をさせた。しかし、俺には話が来なかった。でも、俺はそれで良かったと思う。
もし俺が担当すれば、絶対に前向きに企画を練ることなんて出来なかった。
俺は、前の企画の時に企画自体も好評だったが、凛恋と希さんの可愛さで男性購入者が増えたことを知った。だから、凛恋達が男の下卑た目に晒されるのを前向きに進めることなんて出来ない。もちろん、男性購入者が増えたと言っても、全体的に見れば女性購入者が圧倒的に増えてはいる。
凛恋と希さんはモデルの経験は無く、全くの無名。しかも、二人の紹介が全く無く素性不明という話題性と、高校生の頃にティーン向けの雜誌を読んでいたであろう新大学一年の女子大生読者を取り込めたことも大きい。
今回のヒットは、モデルと企画が上手く合致した結果だ。だけど……やっぱり男性購入者が増えたということは、俺の心に薄く靄(かすみ)を掛けた。
「多野くん! 凛恋ちゃん! 希ちゃん!」
ビルのロビーに入ると待ち構えていた帆仮さんが俺達に駆け寄って来て微笑む。
「帆仮さん、お疲れ様です」
「帆仮さん、こんにちは」
「ご無沙汰してます」
俺と凛恋、希さんが挨拶をすると、帆仮さんは凛恋と希さんを交互に見て嬉しそうにニコニコと笑った。
「上で古跡編集長が待ってるから行こうか」
「「はい」」
凛恋と希さんが返事をして、帆仮さんと一緒にエレベーターへ向かって歩き出す。しかし俺は、その三人に黙ってついて行かずに立ち止まる。
「多野くん?」
帆仮さんは振り返り、付いてこない俺へ不思議そうに首を傾げる。
「俺は外で待ってます。凛恋、終わったら電話して、迎えに行くから」
「うん」
「編集部で待ってれば?」
返事をした凛恋の向こう側から帆仮さんは俺にそう言ってくれる。でも、俺は首を横へ振った。
「仕事の邪魔になりたくないので。近くの喫茶店にでも行ってます」
「そっか。じゃあ、終わったら二人を迎えに来て」
「凛恋と希さんをよろしくお願いします」
帆仮さんに凛恋と希さんを任せ、俺は入ったばかりの月ノ輪出版のビルを出て、ビルの正面にある喫茶店に入る。
その喫茶店はいつも店の前を通りはするが、一度も入ったことがなかった。だから、この機会に入って見ようと思った。まあ、本社ビルが目と鼻の先というのが一番の理由だが。
月ノ輪出版のビルに来る時も帰る時も、俺は時間を潰す必要がない。来る時は当然、勤務時間に合わせて来るし、帰る時は早く凛恋に会いたくて時間を無駄に潰すなんてことを考える気も起きない。
「いらっしゃいま――」
喫茶店に入った瞬間、喫茶店の店員さんの挨拶が聞こえる。しかし、その挨拶は途中で途切れた。
「……えっ? 優愛ちゃん?」
視線の先で喫茶店の制服を着ている優愛ちゃんに戸惑っていると、優愛ちゃんも俺を見て驚いた様子で目を見開く。
「凡人さん!? どうしてここに!?」
「優愛ちゃん、ここでバイト始めたんだ」
「は、はい」
優愛ちゃんがアルバイトをしたいという話は聞いていたが、もうアルバイトを始めているなんて知らなかった。それに、そのアルバイト先が月ノ輪出版の正面にある喫茶店だというのも驚きだった。
「ごめん。すぐに頼む物を決めるよ」
俺の後ろに並んでいる人の気配を感じ、俺は慌てて注文を考え始める。そんな俺を見て、優愛ちゃんはクスクス笑いながら店員らしく言う。
「はい。ご注文はいかがなさいますか?」
「オリジナルブレンドとアップルパイをお願いします」
「はい。少々お待ちください」
俺が客らしく敬語を使うと、優愛ちゃんがクスッと笑った後に丁寧に頭を下げてカウンターの奥へ歩いて行く。
優愛ちゃんがアルバイトしている喫茶店は有名なチェーン店で、コーヒーの種類もアレンジが加えられた変わったメニューからオリジナルブレンド、エスプレッソと言った定番のメニューも揃っている。それに、何よりフードメニューが豊富だ。だから、そもそも人気の店で客は多い方だろう。それに加えて、今は休日の真っ昼間ということと中心地にあるということで客の数も多いし、何より店内で働いている従業員の数も多い。
「お待たせしました。オリジナルブレンドとアップルパイです」
「ありがとう。じゃあ、バイト頑張って」
「ありがとうございます。いらしゃいませ、ご注文はいかがなさいますか?」
ニッコリ笑った優愛ちゃんは、すぐに次の客の注文を受けていた。いつから始めたかは分からないが、もう新人というよりも完全に戦力としての動きをしている。
人によって仕事には絶対に向き不向きがあるし、その人自体の要領の良さも関係してくる。そういう意味では、優愛ちゃんにとって喫茶店のアルバイトは合っているということだろう。それに……。
「まあ、優愛ちゃんはモテるだろうな~」
窓際の席に座りながらそれとなく優愛ちゃんの仕事ぶりを見ていると、優愛ちゃんは男性客からも男性従業員からもひっきりなしに話し掛けられているし、男性従業員に限っては過剰に優愛ちゃんをフォローするように動いている。
優愛ちゃんは凛恋とよく似て可愛いし、愛嬌の良さも凛恋に似ている。だから、中学時代から男子生徒にモテてきた。それに、喫茶店の制服というのは着た人の魅力をより強く見せる。
優愛ちゃんから目を逸らし、正面に見える窓から月ノ輪出版の本社ビルを見て、アップルパイをかじりながらコーヒーを飲む。凛恋と希さんは今頃、古跡さんと帆仮さんから新企画のプレゼンとモデルの依頼を受けているのだろう。
俺は古跡さんと帆仮さんから、凛恋と希さんへモデルの依頼の話をしてほしいと頼まれた。それを二人に伝えたら、二人は是非やりたいと言って今日企画の詳しい話を聞きに来た。俺は、そんな二人の姿を見て「そりゃあ仕方ないよな」と思った。
全ての女性がそうかは分からないが、モデルという仕事にある程度の憧れを持つ女性は多いのではないかと思う。特に、凛恋や希さんのようにおしゃれが好きな人はそうなのだと思う。
自分がやりたいことをやれて、更にそれで報酬も貰える。それなら、普通は断る理由がない。ただ、俺は凛恋と希さんのモデルにどうしても前向きになれない。
分かっている。俺が凛恋や希さんの意思を強制することはいけないことだということは。でも、理屈で分かっているからと言って、本能での拒否感を抑えることは出来ても消すことなんて出来ない。
「はぁ~……男が凛恋の写真をいやらしい目で見るんだよな……」
口に出してしまって更に気分が落ち込み、俺はその口から出た言葉の苦さを甘いアップルパイの味で誤魔化す。
モデルの話を栄次にしたら、栄次は俺の思いに理解は示したものの、栄次自身は俺と同じ思いではなかった。栄次としては希さんとなかなか会えないから、レディーナリーでのモデル姿を見られて嬉しいと言っていた。
栄次もきっと、希さんに対して不特定多数の男性から向けられる目は嫌なはずだ。でも、栄次はそれが俺よりも弱い。でも決して、それは栄次が希さんのことに無関心だからではない。希さんを信頼して好きなのもあるが、やはり自分にある程度の自信があるからなのだ。
俺は空条さんに飲み会で、俺の悪いところとして『自分に自信がなさ過ぎる上にネガティブ過ぎる』と言われた。そして、そういう自信のない発言やネガティブな発言をフォローするのが面倒だとも言われた。更には、空条さん達でも面倒なのだから、凛恋はもっと大変だろうとも言われてしまった。
最後は、凛恋はそういう俺の悪い面も可愛げとして扱ってくれているのだろうとは言ってくれたが、空条さんの指摘は正にその通りなのだ。
俺だって、俺が目の前に居て俺が思ったこと全てを俺へ吐露したら面倒だと感じる。
「飾磨みたいに気楽に考えられればな~」
何にも悪くない飾磨を間接的に傷付けながら、俺はコーヒーを一口飲む。
季節はもう初夏。そして、これから始まる梅雨の季節のように、俺の心の中にはしとしととした自虐的でネガティブな雨が降った。
「凡人、やっぱり嫌?」
「正直に言うと嫌だよ。凛恋がモデルをするのは」
夜、ダイニングの中央に俺と凛恋は向かい合って座り、俺は凛恋の顔を見ながら少し唇を尖らせて本音を言う。
レディーナリー編集部で話を聞いてきた凛恋と希さんは、またモデルのアルバイトを受けることになった。
凛恋は、もうレディーナリーのモデルのバイトは二度目になる。一回目の写真撮影の時は俺も同行したし、編集長の古跡さんや担当編集者の帆仮さんも居てくれた。そして、古跡さんが気を遣ってくれて、次の撮影では関わるスタッフを全員女性にしてくれたし、次も俺が同行しても良いと言う話にしてくれたらしい。それでも本音では凛恋にモデルをしてほしくはないと思う。
「わがまま言ってごめんね。でも、凡人が一緒に居られるバイトって滅多にあるものじゃないし。それに、古跡さんがスタッフの人をみんな女の人にしてくれたレディーナリーのモデルなら、私でも出来るバイトだって思ったの」
「だけど、凛恋の載った雑誌を見るのは女の人だけじゃない」
凛恋と希さんの写真が載った号は、異例の重版が起きるほど目に見えて販売部数が多かった。そして、それには男性の購入者が増えたのも影響している。だから、俺は嫌だと思った。明らかに、大半の男が凛恋と希さんをファッションモデルとしては見ていない。大半の男が、凛恋達の着ている服ではなく凛恋達の顔や体を見たいと思っている。それが心底嫌だった。でも、凛恋がモデルをやりたいと言った以上、俺が嫌だと思ってもやるななんて言えない。
「将来のために少しは私も貯金したいの。凡人にばかり働かせて頼りきりたくないから」
「俺は、凛恋を働かせなくて良いために塔成に入って良いところに就職するつもりなんだ。凛恋が働かなくても――」
「ただ凡人に養ってもらうだけの女にはなりたくないの。将来専業主婦になるとしても、今の私に出来ることをしなくちゃいけないの。でも……まだ、コンビニとかスーパーのバイトは怖くて出来ないから……。それにね、私やりたいことがあるの。やりたいって言ってもそんなに遠い話じゃないけど」
「やりたいこと?」
「うん。萌夏に会いに行きたいの」
正面から俺の胴に手を回して抱き付いた凛恋は、優しく穏やかな声でそう言った。
今、萌夏さんは留学でフランスに行っている。その萌夏さんの居るフランスへ行くのに必要な旅費を稼ぐために、凛恋はモデルのバイトをしていたらしい。
確かに、レディーナリーのモデルは普通にバイトをするより男と接する機会が少なくて凛恋には安心出来るバイトかもしれない。それに、凛恋と希さんの載った号はかなり売れる。そういう理由もあって、古跡さんは凛恋達のバイト代を上げた。
古跡さんもレディーナリーという雜誌の責任者だ。だから、売れると分かっている企画には予算を出す。そのお陰で、普通にバイトをするより割が良くなっている。
「希もモデルをやるのはそのため。もちろん、凡人も一緒にだからね」
「俺も?」
「当たり前でしょ。私と凡人は一心同体なんだから、どこ行くのも一緒なの! フランスだってどこにだって私と凡人は絶対に一緒」
前からムギュムギュと胸を押し付ける凛恋は俺の胸に手を回して優しく撫でる。
「それに私、凡人に見てもらうためにモデルをやってるから。初めてレディーナリーに載った時、凡人が私の写真を見て可愛いって言ってくれて嬉しかったの。だから、もっと凡人に可愛いって思ってほしいから、またモデルをやりたいなって思った。凡人が気にしてることなんて、全然気にする必要なんてないの。他の男に可愛いって思われてもキモいだけだし」
「…………」
凛恋が言っているのは凛恋の本心だ。そう信じているが、それと同時に俺を説得しようという凛恋の気持ちも伝わってくる。
「それでも嫌ならやらない」
「俺は凛恋の彼氏だから、凛恋の考えを尊重する」
「ありがとう。でも、凡人が心配してくれるの嬉しい。私、チョー凡人に愛されてるっ!」
「愛してるよ、世界で一番」
「私は幸せ者だ! 私も、凡人を世界で一番、世界でたった一人だけ愛してるっ!」
凛恋はニッコリ笑って俺の頭を撫でる。
「私も凡人が他の女の人に見られてドキドキされるの嫌だから、凡人の気持ち分かるよ」
「俺はそんなことされないって」
「今まで何人に告白されたのかしら? この色男さんは」
ツンツンと胸を突く凛恋は嬉しそうに微笑みながら、小首を傾げて上目遣いで俺を見る。
「萌夏には黙っといてよ? 内緒にしていきなり行くんだから」
「でも、萌夏さんの都合も聞かないと」
「それとなく萌夏が休みの日を聞き出せば良いのよ。それに、萌夏が忙しい間は私達で観光すれば良いじゃん。まだ先の話だけど今から楽しみ! 凡人とフランス旅行かぁ~」
「高校の頃にイギリスに行って、大学ではフランスか」
「今度はバイトで稼いだお金だから、凡人も遠慮しなくて良いでしょ?」
「まあな。イギリスの時は本当に申し訳なかったしな。旅費全部出してもらってさ。結局、向こうで使ったお金までお父さんに出させちゃったし」
「パパがそうしたかったから良いの。本当に家でも言ってたのよ。凡人に恩返ししたいって」
「俺はお父さんに恩を売るようなことはしてないんだけど……」
「凡人は私達にとってはチョー恩人よ? 私のこともだけど、優愛のことも守ってくれたし、それにママのことだって守ってくれた。パパだけじゃなくて、私達家族全員が凡人に感謝してるの。それと同じくらい、凡人を何度も危ないことに巻き込んで申し訳なく――」
「それこそ凛恋達が気にすることじゃない。俺は自分の大切な人達を守っただけだ」
凛恋の体を強く抱き締めて、温かく柔らかい凛恋の体の感触を自分の中に取り込む。
「お布団行く?」
「もうしばらくこうしてて良いか?」
「……良いよ。凡人なら、永遠にこうしてて良い」
凛恋が俺の頬に自分の頬を付けてゆっくり擦りつける。柔らかくすべすべとした凛恋の頬を感じながら俺がそっと目を閉じると、小さく笑った声が聞こえて唇が温かい柔らかさに包まれた。
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