【一八六《手遅れになる前に》】:二

「座って」

「失礼します」

「休みの日に御堂と帆仮が揉めたってどういうこと?」

「休みの日に、たまたま同じ店に居合わせて。その時に酔った御堂さんが仕事が出来なくて使えないインターン生が居るって御堂さんの友達に話してて、それを聞いた帆仮さんが怒ってしまって。帆仮さんの方が御堂さんに食って掛かって。でも、大事になる前には帆仮さんを店から連れ出せたので大丈夫だと思ったんですけど……」

「はぁ~……全く、後輩の多野に仲裁されて面倒見られるなんて。大人しそうに見えて帆仮も熱いところがある子だから、それが今回は災いしたってことね。多野、面倒掛けてごめんなさい」

「いえ。あの、やっぱり、今日の編集部の雰囲気って?」

「ええ、確実にその一件が決定打になったわね。今まで、帆仮は御堂とそりが合わなかったし、編集部の中でも御堂を良く思ってない編集は帆仮以外に居た。きっと、帆仮が御堂と揉めたことを他の編集に話したのね」


 編集部の雰囲気が変わってしまったのは、やっぱり御堂さんと帆仮さんの揉め事が原因らしい。多分、帆仮さんが揉め事のことをみんなに話した結果、御堂さんを孤立させようという雰囲気が出来てしまったのだ。


「多野は嫌そうね」

「まあ……良い気分にはなりませんよ」

「御堂には個人的に呼び出して話をしたんだけどね。いくら揉め事を起こしても、文芸編集部への転属は無理よって」

「古跡さんは知ってたんですか」


 俺は平池さん達から、御堂さんが文芸編集部志望だったことを聞いた。でも、古跡さんもそれを知っているとは思わなかった。


「もちろんよ。人事部から配属を聞いた時にね。文芸編集の事業縮小で新入社員を入れる余裕が無いから、文芸部に採用した新入社員を全部署に振り分けるって」

「事業、縮小……」

「珍しい話じゃないわ。特に、今は本が売れなくなってる時代よ。今は純文学作品よりももっと娯楽性が高い大衆小説が売れてる。若年層向けのライトノベルは市場が大きくなってて、うちでもライトノベル編集部は規模が大きくなった。文芸編集部も純文学中心から大衆小説中心に出版物をシフトしてる。それを成功させたのが羽村よ。もっと言えば、それが成功出来てるのが文芸編集部には羽村しか居ない。だから、うちの文芸編集部は全体で見れば収益が振るわなかったの。それで、出版数を減らすことになったのよ。そして、出版物を絞ると人員は少なくて済む。当然、人が要らない文芸編集部に新入社員を入れるって判断は人事部はしなかった」

「……じゃあ御堂さんがレディーナリー編集部に来たのは……」

「人事部がどう振り分けたかは知らないけど、たまたまよ」

「…………そうですか」


 多分、本当に想像でしかないが、御堂さんは大衆小説の編集者になりたかったのではないだろうか? だったら、文芸編集部の配属にならなかったとしても、まだライトノベル編集部なら希望に近かったのではないかと思う。でも、結果的に配属されたのはレディーナリー編集部だった。


「人事部には言ったのよ。文芸とうちじゃジャンルが違い過ぎるって。でも人事部は、面接では会社都合で配置が換わることがあっても大丈夫か確認したって言って聞かなかったわ」

「面接でそんなこと聞かれて、無理なんて言える人って居るんですかね……」

「少なくとも、日本人には滅多に居ないと思うわ」


 面接で面接官の心証が悪くなるようなことはみんな避けようとする。会社都合の転属について聞かれて、無理だと答えたら心証が悪くなると考える人がほとんどだ。そういう、採用される側の弱みを握っている感じの人事部の対応が、俺は不誠実だと思った。


「もし、女性誌の編集者になると分かってたら、御堂は月ノ輪出版は受けなかったでしょうね。確実に、自分の希望の文芸に入れてくれる出版社を受けたわ。そう考えると、他人事のようになってしまうけど……運がないわ」

「御堂さんは――」

「ただ、採用に運がなかったことと今回の件は別問題よ。自分の思うようにいかなかったからと言って、職場の雰囲気をめちゃくちゃにして良い訳じゃない。それに、年下の多野を貶して当たるなんて、社会人というより人としてどうかと私は思うわ」


 そう言って、古跡さんは深く大きなため息を吐く。


「…………でも、もう少し様子を見させて。流石に、新入社員の首を切るって判断を早急に出すわけにはいかないから」

「古跡さん……」


 古跡さんは申し訳なさそうに俺を見る。

 御堂さんが俺に向けているのは八つ当たりだ。自分が希望する部署に行けなかったことで感じたストレスを俺にぶつけて発散している。それは、俺が今まで出会ってきた、俺をいじめてきた人間と同じ行動だった。でも、採用に関する話を聞くと、御堂さんが不憫に思えてきた。


「採用に関して同情する余地はある。でも、同僚に対する度重なる無礼な態度が編集部の雰囲気を悪くしている。そこはきちんと注意して改善を促す。多野の話を聞いてると、御堂に何か言うことはないと思うけど、もう少し静観してもらえる?」

「はい。御堂さんのことは古跡さんにお任せします」


 古跡さんの言葉を聞いて、俺はそれ以上何も言えなかった。

 新入社員の首を切る。すぐにはそうしないと言っても、古跡さんはその選択肢を俺に話した。

 切る。つまりは解雇するという判断はかなり重いものだと思う。それは、御堂さん自身にとってもそうだが、解雇を言い渡す古跡さんにとっても辛くて重いに決まっている。


 社員を解雇するということは、その人の仕事を奪うことだ。たとえ、その人本人に問題があって解雇される事由があったとしても、その人の人生を大きく左右することになるのは間違いない。自分から退職を申し出てきてそれを受理するのとはわけが違う。

 それを、古跡さんは選択肢に入れながら御堂さんと接している。それは、誰かを首にする権限がない俺でも、精神的に辛い時間が続くことになると簡単に想像出来た。そういう中で、古跡さんは今まで通り大変な仕事をこなして行かないといけない。


「古跡さん……大丈夫ですか?」

「えっ?」


 俺が古跡さんに尋ねると、古跡さんは目を見開いて意外そうな顔をする。そして、優しく微笑んで俺の頭に手を置いて優しく撫でた。


「本当に多野は優しいわね。私のことを気遣ってくれるなんて」

「だってそれは……古跡さんも考えたくないことだと思ったので。それに、俺がもっと上手くやってればこんなことにはならなかったと思いますし……」

「帆仮も歩み寄ろうとしたし、帆仮から経験の多い家基に教育係を代えもした。編集部全体としては御堂に歩み寄ろうとはしたのよ。でも、それを突っぱねたのは御堂の方。こっちも遊びでやってることじゃないの。いつまでも学生気分で居られたら困る。だから、厳しく対処するわ。もちろん、御堂を孤立させようとしてる編集部の雰囲気も許容するつもりもない。相手が誰であろうと、そういう雰囲気で作る雑誌は面白いものにならないわ」


 古跡さんはそう言うと、俺の頭から手を離してニッコリと微笑む。


「安心しなさい。これでも編集長をやって長いのよ? 今まで今回以上の辛い目を何度も切り抜けてきたわ」


 その古跡さんは、俺が今まで見てきた中で一番、人の上に立つ人間らしい古跡さんだった。




 凛恋と手を繋いでスーパーに入ると、凛恋が横から俺を見上げて体を軽くぶつける。


「今すぐ辞めさせるわけじゃないでしょ?」

「そうなんだけどな~」


 編集部から帰ってから、一度家で凛恋に編集部での出来事を一通り話した後、俺達は食材の買い出しに来た。家で一通り凛恋に話をしてスッキリしたはずだったが、やっぱり心の中でモヤモヤする。


「それに凡人は被害者の方じゃない。何にも悪いことしてないのに八つ当たりの的にされてさ。凡人は怒ることはあっても悩む必要はないの」

「そうなんだけど、やっぱり解雇って聞くと良い気分はしないだろ」

「そりゃ、良い話じゃないから良い気分にはならないだろうけどさ。凡人はちょっと気にしすぎ」


 いつも通り買い物カゴを手に持つと、凛恋は俺の腕を抱いて俯く。俺は凛恋が俯く前に見ていた方に視線を向けて睨んだ。

 俺の視線の先には、平然とした顔で俺と凛恋の方に視線を向けている羽村さんが立っていた。


「買い物を済ませて早く帰ろう」


 凛恋を連れて、凛恋が用意した買い物メモを見ながら必要な物を手早くカゴの中に入れていく。その間も、羽村さんは俺達の遥か後ろから付かず離れず付いてくる。俺の腕を掴む凛恋の手には、ずっと力が籠もり小刻みに震えていた。


 買い物を終えてスーパーの自動ドアを抜けて駐車場の中を歩き出してすぐ、後ろから走る人の足音が聞こえ、視界の端から目の前に人影が飛び出して立ち塞がった。その立ち塞がった人を見た瞬間、俺はすぐに背中に凛恋を隠した。


「ここまで邪魔されると、流石にもう我慢の限界かな」


 ムカつく笑顔を浮かべる羽村さんは、俺を見てそう口にした。しかし、我慢の限界なのは俺の方だ。


「それはこっちの台詞です。いつまで俺達に付きまとうつもりですか」

「俺は君の方を追い掛けてたつもりなんてないんだけど。こんばんは」


 羽村さんは追い掛けて来て道を塞いだ挙げ句、俺から視線を外して凛恋へ話し掛けた。しかし、凛恋は俺の背中に隠れて言葉を返そうとはしない。


「彼から俺に対する嫌な話でも聞いた? でも、俺と彼はそこまで親しくないから、良い話も悪い話も知らないはずだよ? つまり、君が聞いたことは全部彼がでっち上げた嘘だ。俺は単純に君と仲良くなりたいだけなんだ。怖がらせるつもりなんてない」

「帰って下さい。それが無理なら、道を空けて俺達を帰して下さい」


 俺を無視して凛恋へ話し続ける羽村さんに言って歩き出そうとすると、羽村さんは涼しい顔で俺の進路をまた塞ぐ。その羽村さんの顔を睨むと、羽村さんはフッと笑った。


「一度くらい食事に行っても良いだろう? もしかして、俺に彼女を盗られるのが怖いのか?」

「俺の彼女は男が苦手なんです。これ以上、俺の彼女を怖がらせるようなことはしないで下さい」

「男が怖い人が男と付き合うわけないだろう。ましてや男と手なんて繋がない。そういう少し考えれば分かる嘘は吐くのはどうかと思うけど? 君、塔成大の学生なんだよね? だったら、もう少し学のある嘘を吐くべきじゃないかな?」


 何も凛恋について知らない羽村さんが、凛恋のことをあたかも理解しているような口振りで話す。それに胸の奥で怒りが煮えたぎった。


「今の彼女の様子を見てそう言いきれるなら、あんたは幼稚園から人との接し方をやり直した方が良い」

「自慢ではないけど、君よりも遥かに知人は多いと思うけど?」

「単純な数比べでしか自分の優位性を示せないのも学がないと思いますけど?」

「だったら、全世界に住む人間のほとんどが学がないことになるね。ねえ、彼みたいな短絡的な人間より、俺と話してた方が君のために――」


 余裕たっぷりの表情で羽村さんが俺の後ろに伸ばした手を、俺は自分の手が痛むほど勢い良く弾き飛ばした。


「次、凛恋に触ろうとしたらただじゃ済まないぞ」

「痛いな。言っておくけど、君なんかよりも俺の方が会社に重宝されている。役員に言えばすぐに君の首なんて飛ばせるんだ」

「飛ばせば良いさ。俺がやってるのはインターンシップだからな。またインターン先を探せば良いだけだ」

「状況が分かってないようだな。首を飛ばすだけじゃなくて、俺が本気を出せば出版業界に君の居場所が無くなるって言ってるんだが?」

「もう少し信じ込みそうなはったりを言ったらどうだ? 一出版社の一編集者に業界全体を牛耳る権力なんてあるわけないだろ。あんたの立場は俺と同じだよ。上から必要ないと言われればいつでも首を切られる立場だ。もし仮に、出版業界が人を権力で切り捨てようとする一編集者が牛耳れる業界だったとしたら、出版業界の未来は終わってる」

「……そうか、分かった」


 俺から離れた羽村さんは鞄から紐付きの茶封筒を取り出し、その中から数枚の写真を撮りだして俺と凛恋に見せた。

 それは俺が、空条さん、帆仮さん、そして希さんとそれぞれ二人で一緒に居る時を撮影した写真。俺はそんな写真を誰かに撮られた覚えもないし、撮って良いと言った覚えも無い。つまり、羽村さんが見せた写真は盗撮された写真だ。


「彼が浮気してる証拠だ。これを見ても、君は彼のことを信じて後ろに隠れ続け――」

「バッカじゃないの?」


 後ろに隠れていた凛恋は、少し震えた声でそう言った。そして、俺の腕を掴みながら俺の隣に歩み出る。


「浮気の証拠? 学食で同級生と話してるだけじゃない。最低な新入社員に怒鳴ってくれた会社の先輩を落ち着かせようと付き添ってただけじゃない。それに、その並んで笑ってるの私と凡人の親友だから」


 写真を見せている羽村さんに、凛恋は心底軽蔑した冷たい目を向けて言う。

 俺も、羽村さんが写真を持ち出した時「そこまでするか」という気持ちになった。


「探偵か何か雇ったか知らないけど気持ち悪い。最初に話し掛けて無視された時に察しなさいよ。あんたなんて顔も見たくないし話もしたくないの。それなのに何? 押せば何とかなるとか勘違いしちゃった感じ? 可哀想ね、押せばホイホイ付いてくるような軽い女としか付き合ったことがないみたいで。残念だけど、私はあんたみたいな、人を小馬鹿にしてるような男には興味ないの。むしろ、あんたみたいな男は一人残らずこの世から消え去って欲しいと思ってるの。だから、今すぐ消えて」

「…………」


 羽村さんは目を見開いて、散々に羽村さんを貶した凛恋をただただ黙って見詰めている。

 羽村さんは凛恋とまともに言葉を交わしたことは無い。ただ一度逃げられて、それからは遠目から話し掛ける機会を窺おうとしていただけだ。だから、羽村さんの持っている凛恋への印象はほぼ外見的印象しか無い。そんな羽村さんが知るはずが無い。


 黒髪でピンクゴールドの眼鏡を掛けナチュラルメイクの凛恋が、見た目の大人しさに反して物事をはっきり言う性格で……切れると言葉遣いがゾッとするほど荒くなることなんて。


「さっきからうちの大切な彼氏を散々バカにしてくれて、正直これで楽になるわ。今まで黙って見てるだけだから警察は何もしてくれなかったけど、そんな物まで持ち出して私達に付きまとってくるなら十分警察は動いてくれる。これであんたは社会的にも抹殺されるし私の前からも消えてくれる。私と凡人は平和にラブラブ出来る。だから、ありが――」

「へえ、君はそれが素の表情なんだね。やっぱり俺の目は狂ってなかった」


 凛恋が言葉を言い終える前に、羽村さんは一瞬俺に視線を向けた後、凛恋に向かってニッコリと笑いかけた。


「どうやら君の彼氏のお陰で俺の印象は君の中で最悪みたいだ。でも、良かったよ。最悪だったら、もう後は良くなる方向にしか印象が動かないからね」


 それだけ言い残して、羽村さんはスーパーの敷地を出て行く。

 今まで、大抵の男が凛恋に徹底的な拒絶を受けたら諦めてきた。凛恋の愛嬌があって社交的な雰囲気から他人を拒絶する性格を普通は感じない。それが露見した時、自分の頭の中で思い描いた凛恋像と、現実の凛恋にギャップが出来る。そして、理想から外れた凛恋を見て気持ちが冷めていく、はずだった。

 でも……羽村さんは笑って凛恋が拒絶したことを好意的に捉えて帰って行った。


「凡人……あいつ気持ち悪い……」

「凛恋……すぐに帰ろう」


 俺は凛恋の手を引いて足早にスーパーから離れる。繋いだ凛恋の手は、羽村さんが近付いて来た時よりも震えが大きくなっていた。

 羽村さんに対してずっと思っていたことがある。それは、羽村さんが高校時代に凛恋へ付きまとっていた石川と重なることだ。


 自分に対して絶対的な自信を持っていて、自分が凛恋に嫌われるなんてことを考えてもいない。そして、自分が下だと思った人間は徹底的に見下して排除しようとする。


 石川は二年の時の修学旅行以降は俺達に自ら関わってくることはなかった。でも、俺と凛恋はその修学旅行で石川に崖から突き落とされて遭難し、運が悪ければ命を落としていた。そう考えると、石川は俺達の命に関わるようなことがなかったら、今でも凛恋のことを諦めなかったかもしれないということだ。


 もし羽村さんも石川と同じように、俺達の命に関わるような出来事が起きないと凛恋のことを諦めないとしたら……。


「凡人……ホテル行きたい……」

「凛恋、家に帰るまで――」

「無理……今すぐ凡人に安心させてほしい……おねがいっ……」


 スーパーの駐車場で、俺は左手に買い物袋を提げたまま右手で凛恋の腰を抱き寄せる。俺に抱き寄せられた凛恋は、俺の背中に手を回しシャツの背中を握って、必死に俺へしがみついた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る