【一八五《裏目に祟り目》】:二

 次の日、レディーナリー編集部では会議が行われていた。その会議に俺は参加せず、黙々と頼まれていた仕事をこなす。

 新人の三人も俺と同じように仕事をしていて、俺は三人にコーヒーを淹れるために立ち上がる。

 コーヒーを淹れると言っても、マグカップにコーヒーメーカーから注ぐだけで、すぐに俺はコーヒーを用意し終える。


「平池さん、田畠さん、どうぞ」

「ありがとう!」

「多野くんありがとう」


 二人に出し終えると、すぐに俺はコーヒーメーカーに戻って自分の分と御堂さんの分を淹れて戻り御堂さんのデスクにコーヒーを置いた。


「どうぞ」

「…………」

「御堂、お礼くらい言ったら?」

「良いですよ。自分が飲みたかったついでに淹れただけですから」


 無言でコーヒーを飲もうとする御堂さんに鋭い言葉と視線を向けた平池さんへ、俺は笑顔で声を掛ける。平池さんは納得している様子ではなかったが仕事を再開させた。

 御堂さんに気を遣ったつもりだった。でも、それは大きなお世話にしかならなかったようだ。

 俺も仕事をしているという意味では、他の人と変わらないとは思っている。でもやはり、背負っている責任は軽い。それにプレッシャーも軽い。


 俺は合わなければ簡単に仕事を変えられる。それは正社員ではなくインターン生であるというのが大きな理由だ。

 俺は普通の給与の出ないインターンシップと違い有給のインターンシップを受けている。だから、実際には普通のインターンシップよりも仕事に近い。だけど、職業体験という意味でのインターンシップというのは変わらないから、合わなかったら次のインターン先を探すことが出来る。でも、御堂さんのように就職した人はそうはいかない。


 今の世の中、なんの経験も技術も持たない新社会人が転職するのは難しい。それどころか、すぐに仕事を辞めてしまう人間だと悪いイメージを持たれてしまう。

 合わない仕事を無理に続けていて精神的に病んでしまったら意味が無い。だから、そうなる前に仕事は変えるべきだと俺は思う。でも、現実にはそう簡単にいかないというのは分かっている。


 きっと、御堂さんはそういう現実の中で葛藤しながら毎日仕事をしている。だから、少しでも気持ちを楽に出来ればと思った。だけど、やっぱり俺から気を遣われることは御堂さんのプライドを傷付けるだけにしかならなかったらしい。

 コーヒーを飲みながら仕事を続けていると会議を終えたみんなが戻ってきて、古跡さんが俺達の近くへ来て軽く手を叩いた。


「ほら、休憩しなさい」

「はい」


 俺はパソコンのキーボードを叩いていた手を止める。すると、無言で席を立った御堂さんがマグカップを持っていき、通路の方に消えていく。


「御堂って多野くんに妬いてるのかもね」

「妬いてる? 俺にですか?」


 コーヒーを飲みながら御堂さんの消えた方向を見て、平池さんが小さく呟く。

 妬いてるということは、俺に劣等感を抱いて嫉妬しているということだ。だが、俺はイマイチ、その妬いてるということに納得出来なかった。


 御堂さんは月ノ輪出版という大きな出版社に入社している。勝ち組負け組なんて話はあまり好きではないが、企業のランクで言えば月ノ輪出版はかなり大きいし人生の勝ち組だと思う人も多いだろう。そんな人が、ただのインターン生である俺に、見下すことはあっても嫉妬なんてするとは思えない。


「御堂は学歴に自信持ってる感じだったからね。私と美優にも立国大出身だって自慢してたし。でも、多野くんは塔成大でしょ? 立国も私達からしたら十分ランクの高い大学だと思うけど、結構立国と塔成じゃ天と地の差があるし。塔成と張り合おうとするなら旺峰大くらいじゃないと日本の大学じゃ無理だしね」

「いや、大学なんて関係ないと思いますけど……」

「そこを普通より気にする御堂だから、自分より良い大学に通ってる多野くんが羨ましいのよ。いや、悔しいのかな? ちやほやされなくて」


 平池さんは御堂さんに良い印象がないのか、眉をひそめて苦々しい顔をした。


「それに多野くんは仕事が出来るし、そこも嫉妬する原因かもね」


 平池さんの話に田畠さんはそう付け加える。しかし、その田畠さんの話も、平池さんの話と同じように俺は納得出来なかった。


「仕事が出来るって……。俺がやってるのは社員さんよりも楽な雑務ですし、長くやってれば誰だって出来るようになることばかりですよ」


 俺のやってることはただの雑用だ。一度覚えてしまえばそれで終わりで、毎回違う仕事が振られて来るわけでもない。むしろ、俺がやっている仕事は毎日同じことだと言って良い。しかも、覚えることに大した技術は必要ない上に、そこまで複雑な仕事でもない。そんな仕事が出来るくらいで嫉妬していたら、御堂さんはこの編集部に働く全編集さん達に嫉妬しなければいけない。


「それにやっぱり、レディーナリー編集部で男の人が御堂と多野くんの二人だけってのも理由かな」

「あ~、美優のそれはあるわね。御堂みたいな男って他の男と張り合いたがるし。それこそ張り合っても無駄なんだけどさ。歳は私達より下でも編集部で長いのは多野くんなのに」


 平池さんと田畠さんが休憩中の雑談として話すその話を聞きながら、俺はまた御堂さんが消えた通路を見詰める。

 歩み寄ったつもりだった。でも、それは逆効果でしかなかったようだ。俺が歩み寄ったつもりでも御堂さんにとってはそれがかえって気に障る。だから、俺にずっと不快感を露わにしているのだ。


 優しさとか哀れんでやったわけではない、御堂さんにどう映ったかは分からないが、俺本人にはそのつもりは全くなかった。でも、凛恋が言ったように、無駄にされて、それでどちらも不快な思いをするならやらない方が良いのかもしれない。

 俺は椅子の背もたれに背中を付けながら、少し濃いめに淹れたコーヒーを一口飲んだ。




 新年度会。その言葉の存在を未だに自分の中で認められないまま、新年度会が開かれた。

 座敷席の下座に座る俺は目の前に置かれているウーロン茶の入ったグラスに視線を落とす。

 結露が出来たグラスの上を水滴が滑り、綺麗に磨き上げられた木目調のテーブルの上まで落ちる。それを見ていると、隣から空条さんに肩を叩かれる。


「多野くん、元気ないけどどうしたの?」

「いや、元気がない訳じゃないんだけどね」

「ううん、元気ないよ。何か悩んでる顔してる」

「まあ、悩みはあるけど」

「私、話聞くよ?」


 空条さんが取り分けたサラダの盛られた器を置きながら言ってくれた。


「ありがとう。まあ悩みって言うか、インターン先の新人社員と上手くいかなくて」

「揉めたの?」

「声を掛けたら年上に馴れ馴れしく話しかけ過ぎだって言われて」

「はぁ? 何そいつ。最低」

「でも、元々別の部署に行きたかったらしくて、それで気が立ってるみたいなんだ」

「でも、それって多野くんが悪いわけじゃないでしょ? ただの八つ当たりじゃない」


 全く持って空条さんの言う通りだと俺は思っている。しかし、それを正しいと頷くことはしなかった。


「多野くんは気にしすぎない方が良いよ。気にしすぎたら多野くんの気持ちが落ち込んだけだし。きっとそうなった方がその意地悪な人の思う壺だよ」

「凛恋にも同じことを言われた。分かった、気にしないようにする」

「うん。ほら、食べて食べて」

「ありがとう」


 空条さんが勧めてくれたサラダを食べていると、反対側に座る本蔵さんが目の前に唐揚げの載った皿を置いてくれた。


「多野は間違ってない」

「ありがとう」


 本蔵さんも気を遣って声を掛けてくれて、俺は感謝しながら唐揚げを頬張った。

 周囲では、飾磨が集めに集めた男女が親睦を深めようと楽しげに会話をしている。

 飾磨は会の中を縦横無尽に歩き回り、主に参加している女性にひっきりなしに話し掛けて回っている。


 飾磨を見ていると、お気楽なんて言葉よりも人生を楽しんでいるという言葉が浮かぶ。

 やってることはチャラいし、時には不誠実だって思うようなことをする。でも、少なくとも飾磨本人は人生を最大限に楽しんでいる。

 飾磨も悩みがない訳ではないだろうが、それをこういう場では見せない。俺も見せていないつもりになっていたが、実際は空条さんには見えてしまっていた。


「多野くん、飲み物いる?」

「あ、ありがとう。鷹島さん」


 鷹島さんに声を掛けられてから、手に持ったグラスのウーロン茶が無くなっていることに気付く。


「おーい多野」

「ん?」

「多野だけ美女四人を独占するなんてズルいぞ」

「俺はそんなことしてない」


 女性行脚を続けていた飾磨が俺達の近くに座った瞬間、そんなことを言いながら唐揚げを摘む。


「千紗ちゃんも奈央ちゃんも、由衣ちゃんも佳純ちゃんも多野以外とも話せば良いのに」


 唐揚げを頬張りながら話す飾磨に、ウーロン茶を一口飲んだ空条さんが目を細める。


「誰も話し掛けて来ないし」

「みんなが可愛いから気後れしちゃうんだよ。千紗ちゃんから話し掛――」

「話し掛けたい人が話し掛けてくるべきだと思うけど?」

「まあ、そりゃあ千紗ちゃんの言う通りだなー確かに」


 自分で言っておいてそう頷く飾磨は、俺に視線を向けて首を傾げる。


「多野、どうした?」

「え?」

「多野らしくないぞ。多野はもっとボーッとしてるだろ? 普通は」

「……飾磨の中で俺はどんなイメージなんだよ」

「多野はボーッとしてやる気が無さそうな風を装って、それでさらりと女の子に優しくして良いところを持っていくイメージだな」

「……さっきよりイメージ悪くなってるぞ。鷹島さんありがとう」


 鷹島さんが注文してくれたウーロン茶を貰いながら言うと、飾磨は俺に露骨に怪訝な目を向けた。


「まあそれはさて置き。今日はアンニュイな雰囲気を出し過ぎだ。これ以上モテてどうするつもりなんだ。凛恋ちゃんっていう可愛い彼女が居るのに」

「俺はそんなつもりはない。そもそも、半ば強引に参加させたのは飾磨の方だろ」

「俺は多野はどうでも良かったんだ。多野が来ないと千紗ちゃんも奈央ちゃんも、由衣ちゃんも佳純ちゃんも来ないから、仕方なく多野を呼ぶしかなかったんだ」

「呼んどいて散々な言い方だな」

「でも、本当に呼ばなきゃ良かったと思った。調子が悪いならなんで断らなかったんだよ。別に、多野は居なくても俺は困らなかったのに」


 俺の調子が悪いと心配してくれた飾磨は、何気なく次の唐揚げを頬張りながら言う。俺はそんな飾磨から視線を外し唐揚げを食べる。


「来ないってなると、雰囲気悪くなるだろ?」

「なるかなるか。こんだけ人が居るのに多野一人居なくたって問題ない。むしろ、多野が居ない方がライバルが減って助かる。今からでも帰って良いぞ」

「いや、せっかく来たし一次会はこのまま居る」

「そうか。あんまり張り切って凛恋ちゃんに怒られないようにな~」


 飾磨はそれだけ言うとまた立ち上がって別の女性の近くに歩いて行き自然に溶け込んでいく。


「まあ、ああいう優しいところがあるから憎めないんだよね、飾磨って」

「素直じゃないけどな」

「相手が多野くんだからでしょ? 飾磨って多野くんのこと大好きだけど、素直に好きって言わないもんね。いっつも多野くん周りでうろちょろしてるだけ」

「なんだか身の毛がよだつ話だな……」


 空条さんの気色の悪い話にコメントすると、本蔵さんを除いた三人がクスクスと笑う。

 飾磨は俺が体調が悪いのに新年度会に来たと思ったらしい。でも、主催者の飾磨に帰って良いと言われたのは気が楽だ。まあ、元々俺は一次会だけで帰るつもりだったが。


「多野くんも照れ屋だよね。鷹島さん、本蔵さん、高校の頃から多野くんってそうだったの?」

「多野くんは何でも褒められたがらない人だったかな」

「高校の頃、多野が学校を変えてみんなが多野に感謝したけど、多野は自分じゃなくてみんなが凄かったって言ってた」

「そうなんだ。多野くんと高校が同じだったら楽しかっただろうなー」


 ニヤニヤ笑いながら俺を見る空条さんは、焼きおにぎりを箸で挟んでかじる。


「別に俺と一緒でも楽しいことなんて何もないよ。特に目立たないようにしてたし」

「そう? 八戸さんと話してても多野くんとの楽しい話がいっぱい出てくるし、きっと楽しかったと思――」


 空条さんの言葉が途中で途切れる。その理由は、隣から聴こえてくる女性の大きな声だった。


『うそー! レディーナリーの編集部に居るの!? 凄い!』


 壁越しにもはっきり聞こえるその声の後、男性の声が聞こえる。


『大したことないって』

『立国大出身でレディーナリーの編集者ってマジ凄いじゃん!』

「多野くん。レディーナリーの編集部って多野くんが居るところでしょ?」

「ああ」


 壁の向こうで繰り広げられている会話を聞いて、空条さんが首を傾げて俺に尋ねる。

 壁の向こうから聞こえた声は御堂さんの声だった。恐らく、御堂さんも休みの日に飲みに来ているのだろう。その場所が、俺達が新年度会で使っている店と同じだったのだ。


『うちに塔成大のインターン生が居るんだけどさ。そいつがまー使えないやつで。口だけはデカイんだけど、仕事は出来なくてこっちまでしわ寄せが来て困ってるんだよ。やっぱり、通ってる大学なんて仕事には関係ない。大事なのは本人の能力だよ』


 酒が入っているであろう御堂さんは、えらく饒舌に大声で話をしている。それを聞いていた空条さんと本蔵さんが立ち上がった。


「二人共、座って」

「多野くん! 塔成大のインターン生って多野くんのことでしょ!? 隣の人、多野くんのことをバカにしたんだよ!?」

「お酒が入ってる人の話を真に受ける必要はないって」

「でも!」

「それに、女の子が男に怒鳴り込むなんて危ないことするもんじゃない。聞き流しておけばトラブルに巻き込まれる心配は――」

『御堂ッ! あんたふざけんじゃないわよッ!』


 個室の戸を激しく開ける音の直後、その女性の怒鳴り声が聞こえる。その瞬間、俺は個室を出て隣の個室に飛び込んだ。すると、視線の先には…………。

 御堂さんの胸倉を掴み上げた帆仮さんが立っていた。

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