【一八五《裏目に祟り目》】:一

【裏目に祟り目】


 レディーナリー編集部に行くと、編集部の一画に人集りが出来ていて俺はその人集りに近付いて少し背伸びをしてみる。

 編集さん達が作った壁の奥には、なにやら真新しいデスクが四席出来ていた。


「おはようございます。みんなで人集りを作ってどうしたんですか?」

「おはよう多野くん! 新人さん用のデスクが来たの」


 隣に居る帆仮さんに話し掛けると、帆仮さんはニコニコ笑って視線で真新しいデスク達を指す。


「でも、うちの新人さんって三人でしょ? もう一人増えたんですか?」

「何言ってるのよ。長い間、スツール一脚でやってた新人がここに居るでしょ?」

「お、俺ですか!?」


 ニヤッと笑った家基さんに額を人さし指で突かれ、俺は目を丸くして聞き返す。すると、家基さんの後ろから古跡さんが小さく笑って俺の肩に手を置いた。


「経理課にずっと申請を出してたんだけど、やっと許可が下りたの。全員分のデスクとパソコンを用意したわ。特に、多野には今まで窮屈な思いをさせてしまっていたし本当にやっとよ」

「いや、窮屈なんて。今まで普通に仕事出来てましたし」


 俺がやっている仕事は雑用でしかない。確かに、パソコンが必要な時は他の編集さんが使っていない時に借りるしかなかったが、それでもなんとか今まで問題なく仕事をやることは出来ていた。


「ちゃんと環境を整えることは重要なことなの。でも、社員じゃないと上が購入を渋って面倒だったの。だから、新入社員の必要備品と一緒に申請させてもらったの。もちろん、多野が帆仮と出したあの企画の成功があったのも許可が下りた一因でもあるけれど」

「そうなんですか。すみません、気を遣ってもらって」

「多野の仕事効率が上がれば他も助かるんだから重要なことよ。これからも頑張って」

「ありがとうございます」


 古跡さんが離れて自分のデスクに戻ると、他の編集さん達も仕事に戻り人集りが解けていく。すると、帆仮さんが自分の隣にある新しいデスクの天板を叩いて俺を見た。


「多野くんは私の隣ね」

「はい。これからもよろしくお願いします」


 俺は一人で仕事が出来るようになってすぐに、帆仮さんの隣で仕事をすることが常になっていた。帆仮さんは編集部で最年少だったということもあり、一番年齢が近い帆仮さんの近くがやりやすいだろうと古跡さんが気を回してくれた結果そうなった。

 スツールから昇格して柔らかいクッション付きのパソコンチェアに腰掛け、俺はいつも通り仕事を開始しようとする。すると、横から帆仮さんが覗き込んでパソコンのデスクトップ下に表示されたアイコンを指さす。


「ここ、新着のメールが着てるってことだから、これをクリックして開いて」

「はい」


 帆仮さんの指示通りにクリックすると、メールソフトが立ち上がっていくつかの新着メールが表示されていた。


「ここのパソコンはうちのイントラネットに繋がってて、このメールソフトに色々とメールが来るの。会社からのお知らせも来るけど、うちの編集部では仕事の指示とかも来る。もちろん、口頭で説明した後の補助的な使い方が主だけど。それで、こっちはToDoリストのソフト。これに指示された仕事の内容と期限をメモして終了した仕事に終了を入れていくと仕事の管理がしやすくなるから。まあ、多野くんはスマホのToDoリストを今まで通り使うと思うけど」

「いや、これは助かりますよ。パソコンで作業しながら確認出来ますし」


 今まで個人用のパソコンがなかった俺に帆仮さんが丁寧に説明をしてくれて、その説明が終わると俺は早速新しいパソコンを使って仕事を始める。

 仕事を始めて少ししてから、俺は古跡さんの言った「ちゃんと環境を整えることは重要」という言葉の意味を痛いほど理解出来た。一番大きいのは、自分用のパソコンがあれば空いてるパソコンを探したり、パソコンを使って良いか確認したりする時間が省かれることだ。


「最初の頃は全然おぼつかなかったのに、今は使いこなしてるね」

「毎日使ってますし、最初の頃に皆さんに教えてもらったお陰ですよ。帆仮さん、会議の資料作ったのでメールで送りますね。確認御願いします」

「はーい」


 今まで、会議の資料のような作成物の確認も全部一度印刷してから持って行っていた。でも、パソコンで資料のファイルを送ればすぐに確認してもらえるし、確認後の修正も簡単に出来る。そういうことを認識すると、やっぱり仕事をする環境の大切さが痛いほど分かった。そして、自分が今までどれだけやりづらい環境で仕事をしていたのかが分かった。


「帆仮さん、ここ教えてもらえませんか?」

「はーい」


 平池さんが困った様子で帆仮さんの隣に来て頼むと、帆仮さんは笑顔で立ち上がって平池さんの席まで行って仕事を教えていた。

 俺は平池さんと帆仮さんを見ていると、平池さんの隣に座る田畠さんが視界に入る。視線はパソコンに向いているが、手は止まっていて仕事が進んでいるようすはない。そして、パソコンに向いていた視線を隣の帆仮さんへ向けた。

 俺はその田畠さんの視線の動きを見て立ち上がり、田畠さんの隣に立って声を掛けた。


「田畠さん、何か困ってるんじゃないですか?」

「え? ちょっとDTPソフトの操作で分からないところがあって」

「俺に分かることなら教えられますけど、どこが分からないんですか?」

「ここにこの画像を貼り付けたいんだけど」

「それならここのボタンを押して貼り付けたい画像のファイルを指定すれば出来ますよ」

「あ、本当だ」

「また分からないことがあったら聞いて下さい。俺も分からないことの方が多いですけど」

「多野くんありがとう」


 俺は田畠さんに教え終わると自分の席に戻って仕事を再開する。すると、俺のデスクの横にコーヒーが入ったマグカップが置かれた。


「ありがとうございます」


 コーヒーを持ってきてくれた帆仮さんにお礼を言うと、自分の分のコーヒーを飲む帆仮さんが微笑む。


「私一人だと限界があるから、助かる」

「いえ、分からないところを教えただけですし」

「ううん。多野くんは聞かれる前に田畠さんが困ってるのを見付けて教えてくれてた。優しくて気が利く多野くんらしい」

「あ、ありがとうございます」


 褒められて照れ臭くなりながら顔を隠すようにコーヒーを飲むと、視界の端で平池さんと田畠さんが背伸びをするのが見えた。

 帆仮さんと反対側の俺の隣には御堂さんが座り、御堂さんは家基さんに仕事について教わっている。


 御堂さんについては、古跡さんのちょっとしたてこ入れがあった。

 本来、御堂さんの教育係は帆仮さんだったがそれを家基さんへ変更になった。ただそれは、帆仮さんが御堂さんの教育係に相応しくないというわけではなく、単に相性の問題だった。


 御堂さんは変にプライドが高い人で、自分と年齢が変わらない帆仮さんの教育を素直に受けようとしない。俺なんか完全に見下されていて言いたい放題される始末だ。

 古跡さんは御堂さんの俺に対する言動は知らないものの、帆仮さんとの摩擦を考え、御堂さんよりも年上で編集者としてのキャリアも長い家基さんを教育係に当てた。


 家基さんは飲み会の幹事をよくやるという以外にも、編集部では古跡さんに次いで気の強い人である。今でこそ気軽に話してからかわれるようになったが、働き始めの頃は若干話し掛けづらい人だった。


「御堂。分からないなら聞きなさい。分からないままやってるからこういうことになるのよ」

「はい……」


 流石に家基さんから注意されれば素直に聞くしかないようで、御堂さんは家基さんの指示に従ってパソコンを操作している。


「多野、もう帰る時間じゃない?」


 御堂さんに仕事を教えていた家基さんがチラッと俺に視線を向けながら言う。それを聞いて時計を確認した俺は立ち上がった。


「本当だ。ありがとうございます」

「自分の席が出来て居心地が良くなった?」

「まあそれはありますね。仕事がやりやすくなった気がしますし」

「気がするだけじゃなくて実際に仕事はやりやすくなったはずよ。私に資料が上がってくるのが早くなった。明日からはもう少し仕事を振ってもいけそうね」

「お手柔らかにお願いします」


 俺が頭を下げると、後ろから両肩に手を置かれて軽く揉まれる。振り返ると、真顔で古跡さんが俺の肩を揉んでいた。


「家基、いくら多野が仕事出来るからってあまり負担を掛けないでよ」

「分かってますよ」

「平池達も帰り支度をしなさい」

「「「はい」」」


 俺がパソコンをシャットダウンして帰り支度を済ませて立ち上がると、隣に座る帆仮さんがニコッと笑って手を振る。


「お疲れ」

「お疲れ様でした。お先に失礼します」


 帆仮さんや他の編集さん達に挨拶をして編集部を出ると、両サイドを平池さんと田畠さんに挟まれた。


「多野く~ん、駅まで一緒に帰ろ~」

「はい。平池さんも田畠さんもお疲れ様です」

「お疲れ様。多野くん、仕事中はありがとう」

「いえ」


 田畠さんに軽く頭を下げられてお礼を言われると、平池さんがうーんと背伸びをしてカードキーでセキュリティを抜ける。


「美優はこの後どうするの?」

「帰って復習。それに、企画書を書く練習もしたいし」

「だよね~。ほんと、編集部のみんな見てると凄い格好良いし、私も早くみんなみたいに自分の企画の記事を書きたい」


 俺を挟んでそんな会話をする二人を交互に見た後、俺は周囲を見渡して見る。当然だが、御堂さんの姿はない。


「多野くんは今から同棲してる彼女が待ってる家に直行?」

「はい。今日は彼女と買い物に行く予定があるので、帰ってから一緒に買い物ですね」

「いいな~。私も彼氏欲しい~」

「平池さんってモテそうですけど、彼氏居ないんですか?」

「居ない居ない。大学の頃は居たけど、今は彼氏作る余裕無いからね。レディーナリーの編集になれたんだから、彼氏よりもまずは仕事を覚えないと」

「二人ともレディーナリーの編集を志望したんですか?」

「そうよ」「そう」


 平池さんは明るい笑顔で、田畠さんは柔らかい笑顔で同時に頷く。


「出版社の就職ってめちゃくちゃ競争率が高くて。それで、月ノ輪出版の内定貰って、しかもレディーナリー編集部に配属ってすっごいラッキーだって思ったの。こんなラッキーって絶対に人生で二度も起きないから、私は絶対にこのチャンスを無駄になんてしたくない」

「私もレディーナリーの編集に携われるのは、同じ月ノ輪出版に採用された女性社員の中で幸運だと思ってる。今は、先輩達の後を追いかけるだけで精一杯だけど、絶対に一人の編集者として結果を出してみせる」


 平池さんも田畠さんも強く固い意志を持っている。それは言葉からも、二人のしっかりと見据えられた目からも分かった。


「ただ、御堂は嫌みたいだけどね」

「御堂さんですか?」

「そう。御堂は元々文芸編集部志望だったらしいの。そしたら、レディーナリー編集部の配属になって不満みたい」

「実際に聞いたんですか?」

「この前、新入社員だけで飲み会があったんだけど、そこで愚痴ってた。俺は文芸志望だったのに女が読む雑誌の編集に飛ばされたって」


 平池さんの話を聞いて、多分よくある話ではあるのだと思った。

 俺は就職活動はしたことが無いが、就職して必ずしも自分のやりたいことが出来る訳ではないというのは分かる。本来ならそういうことはあってはならないことなのだと思う。でもやはり、席が限られているとそういう訳にはいかない。


 月ノ輪出版がどんな採用基準で採用し、どんな配属基準で配属先を決めたかは分からない。でもそれで、御堂さんは自分の希望した文芸編集部ではなくレディーナリー編集部へ配属になった。

 俺は平池さんの話を聞いて納得したことがあった。それは、仕事に対する姿勢の話だ。


 積極的に編集の仕事をする平池さんと田畠さんとは違い、御堂さんは終始だらけているというか積極性が無いように見えていた。それが、平池さんの話を聞いて納得出来た。

 仕事に対するモチベーションはきっと御堂さん本人だけのせいじゃない。多分、周りももっと御堂さんがやる気を出せるように考える必要があるんだと思う。

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