【一七三《幸せ中毒者》】:一

【幸せ中毒者】


 キュっと口を結んで今にも泣き出しそうな顔をしている女の子。見た感じ、まだ小学生ではないと思う。俺はその子の前にしゃがんで座り、首を傾げて尋ねてみた。


「お名前言える?」

「亜弓奈(あゆな)」

「亜弓奈ちゃんか、可愛い名前だね」


 広いショッピングモールの通路で一人ポツンと立っていた亜弓奈ちゃん。ショッピングモールに幼い女の子が一人で来るわけがないから、亜弓奈ちゃんは保護者の人とはぐれてしまったのだ。


「凡人、とりあえず迷子センターに連れて行こ」

「そうだな。亜弓奈ちゃんの両親も来てるかもしれないし」


 隣で俺と一緒にしゃがんでいる凛恋と話をして、亜弓奈ちゃんに視線を向ける。


「亜弓奈ちゃん、亜弓奈ちゃんのお父さんとお母さんを探しに行こう。すぐ見付かるから大丈夫だよ」


 俺が声を掛けると、お父さんとお母さんという言葉で両親のことを思い出させてしまったのか、亜弓奈ちゃんは目をうるうると潤ませながら頷く。しかし、ワンワンと泣き出していないし、ちゃんと自分の名前を知らない人に言える亜弓奈ちゃんは、かなりしっかりした子だ。


 亜弓奈ちゃんは心細いのか、俺の手をギュッと握る。その亜弓奈ちゃんの身長に合わせて、俺は少し体を前屈みにして手の位置を低くした。


「あっ……」


 亜弓奈ちゃんが俺の手を握った瞬間、凛恋がそう声を漏らす。そして、亜弓奈ちゃんに握られていない方の手をギュッと握った。その凛恋の横顔は真っ赤で、その真っ赤な顔の凛恋は唇を尖らせた。


「それにしても、都会の人って冷たくない? こんな小さな子が一人で突っ立ってるのに、みんな無視するとかあり得ないし」

「最近は、心配して声を掛けただけで警察を呼ばれるなんて話があるからな。みんな、トラブルに巻き込まれたくなくて声を掛けたくないんだろ」

「そうだとしてもさ。こんなちっちゃい子が一人で居るのに」

「まあ、俺と凛恋が居て良かった。迷子センターに連れて行けば、すぐに館内放送で亜弓奈ちゃんの両親を見付けてくれるだろ」


 凛恋と亜弓奈ちゃんの間に挟まれながら迷子センターへ行き、女性の店員さんへ亜弓奈ちゃんを任せようとすると、亜弓奈ちゃんが俺の手から手を離さずに引っ張る。


「お父さんとお母さんが迎えに来るまで一緒に待ってようか」

「ありがとう!」


 俺がしゃがんで言うと、亜弓奈ちゃんはニコッと笑って頷く。最初は泣いていて悲しく辛そうな顔をしていたが、今は表情が明るくなってホッと安心した。


「お兄ちゃん、格好良い!」

「ありがとう」「えっ!?」


 ベンチに座ってニコニコ笑った亜弓奈ちゃんに褒められて、俺が笑顔を返してお礼を言う。すると、俺の隣に座った凛恋が声を上げた。


「凛恋?」


 凛恋の方を見ると凛恋は俺の方は見ておらず、通路の床に視線を落としていた。


「相手は子供……相手は子供……」


 ブツブツと念仏のように呟く凛恋を見て、俺は小さく笑う。こんな小さな女の子相手でも嫉妬してくれるなんて可愛い。


「亜弓奈っ!」


 ベンチに座って待っていると、亜弓奈ちゃんの目の前に女性が駆け寄って来てギュッと亜弓奈ちゃんを抱きしめる。


「亜弓奈っ! 良かったっ……」


 何度も何度も亜弓奈ちゃんの背中を擦るその女性の横顔を見て、俺は口から自然と言葉が出た。


「こ、古跡さん?」

「えっ? 多野!?」


 俺に名前を呼ばれた古跡さんは、俺と目が合った瞬間、目をまん丸にして驚いた声を上げた。




 喫茶店のソファーに凛恋と並んで座っていると、目の前に座った古跡さんが深々と頭を下げた。


「多野、八戸さん。本当にありがとう。二人が居なかったら、亜弓奈はどうなってたか」

「古跡さん、頭を上げて下さい」

「そうですよ。気にしないで下さい」


 頭を下げる古跡さんに困惑しながら俺と凛恋が声を掛けると、古跡さんは頭を上げて小さく息を吐いた。


「たまの休みだから、娘と遊びに出て来たんだけど。本当に私の不注意よ。ごめんね、亜弓奈」


 古跡さんはそう謝りながら、美味しそうにケーキを食べる亜弓奈ちゃんの頭を撫でる。


「本当にごめんなさい。せっかくのデートなのに」

「気にしないで下さい。俺達は大丈夫ですから。それにしても、まさか休みの日に古跡さんに会うとは思ってませんでした」

「私もよ。でも、亜弓奈を保護してくれたのが多野で良かったわ」


 古跡さんは自分の目の前にあるコーヒーを飲む。


「それにしても、多野の彼女がこんなに美人なんてね。どうやって引っ掛けたの?」

「引っ掛けたって人聞きが悪いですね」


 やっと謝るのを止めてくれた古跡さんだが、すぐに俺をからかい始める。そのからかう古跡さんに苦笑いを返すと、古跡さんはニコッと笑って凛恋に視線を向けた。


「多野にはいつも助けてもらってるの。ボーッとした顔をしてるのに、かなり優秀なのよ」

「そ、そうなんですか! 良かったね、凡人!」


 凛恋は少し頬を赤くして嬉しそうに微笑んでくれる。


「お世話になったお礼に何でも好きな物を食べて。多野、遠慮はしないで」

「ありがとうございます。お言葉に甘えてご馳走になります」

「ありがとうございます」


 凛恋と一緒に俺はケーキを注文し、古跡さんも自分の分のケーキを注文する。


「それで? 多野はどうやって八戸さんにアピールしたの? 自分からガツガツ行くようなタイプには見えないけど」

「私が高校の時に一目惚れして、アタックしたんです」

「そうなの? 八戸さんは男を見る目があるわね。でも、八戸さんくらいならかなりモテるでしょ? 多野のどんなところが良かったの?」

「凡人は顔も格好良いし身長も高くて見た目も凄く良かったんですけど、やっぱり性格です。初めて会った時に凄く優しくて、女子に気遣いが出来て。気付いたら好きになってました」

「良いわね。私も旦那とは一目惚れだったから分かる。見た瞬間に、雷に打たれたみたいな衝撃が走って、絶対にこの人だって思うのよね」

「そうなんです! 私も凡人以外あり得ないって思って!」


 女性同士楽しそうに盛り上がる二人から目を離すと、俺は正面でニコニコと嬉しそうにケーキを食べる亜弓奈ちゃんを見る。

 仕事場でもきっちりしている古跡さんの娘と考えれば、亜弓奈ちゃんのしっかり加減も納得がいく。仕事と子育てを両立しているなんて、古跡さんはやっぱり凄い人だった。


「二人とも、本当にありがとう」

「いえ。亜弓奈ちゃん、またね」


 喫茶店の前で古跡さんと亜弓奈ちゃんと別れようとする。すると、俺の前に歩いて来た亜弓奈ちゃんが俺の手を握って引っ張った。


「お兄ちゃんも一緒に行こう」

「亜弓奈、お兄ちゃんはお姉ちゃんと用事があるのよ。困らせちゃダメでしょ」

「お兄ちゃんと一緒が良い!」


 古跡さんにキッと鋭い目を向けて反論する亜弓奈ちゃんは、俺の腕にしがみついて力一杯引っ張る。


「亜弓奈ちゃん、ごめんね。今日は用事があるんだ。それに、亜弓奈ちゃんも今日はお母さんと一緒にいっぱい遊ぶんだよね?」

「うん。でも、お兄ちゃんも一緒に遊びたい」

「じゃあ、今度一緒に遊ぼう」

「本当に?」

「うん。だから、今日はお母さんといっぱい遊んで来て。今度会った時に、今日のお話を聞かせてよ」


 俺がそう言うと、亜弓奈ちゃんは小さい手を差し出して小指を立てる。


「指切りげんまん!」

「良いよ。指切りげんまんしよう」


 小さな亜弓奈ちゃんの小指に俺の小指を引っ掛けて軽く振る。


「指切りげんまん、嘘吐いたら針千本飲~――……ん?」

「指切りげんまん、ウソついたら針せ――……」


 指切りげんまんをしている途中、亜弓奈ちゃんは黙ってジーッと俺を見る。その視線に指切りげんまんを中断して首を傾げると、亜弓奈ちゃんは真剣な表情で言った。


「お兄ちゃんに針千本飲ませたら可哀想だから、ウソついたら撫で撫でにする! 指切りげんまん、ウソついたらお兄ちゃんに撫で撫でするっ! 指切ったっ!」


 満面の笑みで指を切った亜弓奈ちゃんの後ろから、クスクス笑った古跡さんが俺の肩に手を置く。


「亜弓奈に気に入られちゃったわね」

「好かれるようなことは何もしてないんですけどね」

「ということは、うちの娘にも男を見る目があるってことね。今日は本当にありがとう。また会社で」

「はい。お疲れ様です」


 亜弓奈ちゃんの手を引く古跡さんに頭を下げると、手を引かれる亜弓奈ちゃんが「お兄ちゃん、またね!」と言って元気良く手を振っていた。

 亜弓奈ちゃんに手を振り返しながら横を見ると、凛恋が亜弓奈ちゃんに笑顔で手を振っていた。しかし、手を振り終えると、凛恋が俺の手を引っ張って歩き出す。その手の引っ張る力が、少し強引だった。


「凛恋、どうした?」

「どうもしてないわよ」


 どうもしてないと言う割りに、早歩きで歩いて行く凛恋は一軒の店に入ろうとする。しかし、俺は立ち止まって凛恋の手を引っ張る。


「凡人? どうしたの?」

「どうしたの? じゃないだろ。店を考えろ店を」


 俺がさり気なく視線を入ろうとした店に向ける。その視線の先には、女性物の下着店があった。


「凡人に私の下着を選んでもらおうと思って」

「今日は優愛ちゃんの合格祝いを探しに来たんだろ。いつそんな話になったんだ」

「ついでによ」

「ついででも入れるわけないだろ。他の人の迷惑だ。凛恋だって下着を買ってる時に、知らない男が居たら嫌だろ?」

「……それはそうだけど」


 シュンとする凛恋の手を引っ張って、俺は下着店から離れながら凛恋の体を抱き寄せる。


「帰ってからネット見て選ぼう。それなら大歓迎だ」

「うん。分かった」


 頷く凛恋の横顔を見ながら、凛恋の強引な行動の元を考える。そして、ついさっき別れた亜弓奈ちゃんの顔が浮かんだ。

 幼い子相手にここまで嫉妬してくれるのは嬉しい。大人げないなんて言う人も居るのかもしれないが、嫉妬というのは大なり小なり、相手のことを大切に思っていないと出てこない感情だ。他の男は知らないが、俺は彼女から……いや、凛恋から嫉妬されることに嬉しさを感じる。


「にしても、嫉妬した結果、下着を一緒に選ばせるって斜め上の選択肢だな」

「だ、だって、下着選びとか恋人同士じゃないと出来ないじゃん。それに、凡人はエロいからそういうの好きでしょ?」

「俺は下着が好きなわけじゃないんだけどな」


 凛恋の中での俺像が心配になってくる言葉に、俺は苦笑いを返す。

 パンツとかブラジャーとか、そういう単体の布製品にはそこまで執着はない。女性が着ける下着という意味では、直視が出来ない気恥ずかしさと性的に見てしまうことはある。しかし、それ以上は思うことはない。それ以上の感情を思うとしたら、凛恋の下着であるかどうかだ。


「またライバルが増えた」

「ライバルなんて居ないだろ? 俺は凛恋しか好きじゃないし」

「若さでは負けてるし」

「……何もかも勝ってるって」


 気合いを入れるようにグッと拳を握った凛恋を見ていると、俺に顔を向けた凛恋が俺に視線を向けてニコッと笑った。


「でもさ、古跡さんに凡人がべた褒めされてて、チョー鼻が高かった! めちゃくちゃ嬉し過ぎてニヤけちゃったし」

「リップサービスだよ、リップサービス」

「それでもさ。凡人が優秀って言われると嬉しくて」


 機嫌が良くなった凛恋は、俺の腕を抱きしめてピッタリと体をくっつける。


「優愛の合格祝い何にしようかな~」

「やっぱり、実用品が良いだろうな。大学生になったら使えそうな物とか」


 街を歩きながら、嫉妬心の消えた凛恋にそう意見を出す。そして、真剣に優愛ちゃんのために悩んでいる凛恋の顔を見て、俺は思わず柔らかい笑みが溢れた。

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