【一四四《ひび割れ》】:一

【ひび割れ】


 俺は、警察署のロビーにあるベンチに座り、両腕を組んで正面にある交通安全啓発用のポスターに視線を向ける。でも、そのポスターを読んでいるわけではなかった。

 ただ、視線の先にそのポスターがあっただけで、頭では全く違うことを考えている。


 ついさっき、俺と希さんはインテリアショップで盗撮未遂騒動に巻き込まれた。その盗撮未遂騒動の被害者は希さん。


 盗撮をしようとしたとされた男は、盗撮しようとしたのを目撃したという男性が取り押さえてくれた。

 それで、俺は事情を聞かれている希さんに付き添うために警察署に来ている。


 地元の警察署よりも広く大きい警察署のロビーには、制服を着た警察官以外にも沢山の人が行き交い、街中の雑踏のようになっている。その雑踏の中で、俺はずっと考えていた。


 どうして、盗撮未遂犯を取り押さえられた男性は、盗撮未遂犯を取り押さえられたのだろう。

 俺の持っている疑問は、字面だけ見れば意味が分からない。でも、本当にそういう疑問なのだ。


 エスカレーターで、希さんはエスカレーターの左側に立ち、俺はその希さんの一段後ろで右側に立っていた。それで、頭を右斜め後ろに向けた希さんは、俺を見上げて俺と話をしていた。


 問題の盗撮未遂犯の男は、一人でエスカレーターの中央に立っていた。そして、スマートフォンを取り出して希さんのスカートの中を盗撮しようとしたところを、俺の後ろの段の中央に立っていた男性に大声を上げられて防がれた。

 それで、逃走しようとした盗撮未遂犯の男を、俺の後ろに立っていた男性が取り押さえるためにエスカレーターから飛び降りて追い掛け、インテリアショップの出入り口前で取り押さえた。


 それが一連の流れだが、俺はたまたま盗撮未遂犯の男の動きを見ていた。でも、その見ていて理解出来ないことがある。


 盗撮未遂犯は右手でスマートフォンを取り出した。しかし、あの状態で盗撮未遂犯が希さんのスカートの中を盗撮するのは不可能だ。


 希さんは盗撮未遂犯の左後ろに立っていた。だから、盗撮未遂犯が盗撮に使おうとした右手に持っているスマートフォンとは逆になる。

 それに、取り出したばかりの盗撮未遂犯の持っていたスマートフォンの背面は男の右側を向いていた。

 つまり、スマートフォン背面のカメラは希さんと反対側を向いていたのだ。それでは、希さんのスカートの中を盗撮するなんて不可能だ。


 そうだから、希さんは盗撮されることなく、騒動は未遂になっている。でも、俺はそれで気になることがある。


 どうして、取り押さえた男性は、盗撮未遂犯が盗撮をしようとしたのが分かったのか。


 盗撮未遂犯が盗撮を咎められたのは、スマートフォンを取り出した直後だった。その状況では、まだ盗撮未遂犯が盗撮しようとしたなんて判断出来るとは思えない。俺からは、スマートフォンをただ使おうと取り出した直後にしか見えなかった。


 ただ、取り押さえられた盗撮未遂犯は、取り押さえられて警察が来た瞬間に、自分が盗撮しようとしたと白状した。


 希さんが男の卑劣な行為の被害者にならずに済んだ。それを未然に防いでくれた男性には感謝をするべきだ。

 俺は見ていながら、盗撮未遂犯が盗撮をしようとしたなんて全く分からなかった。

 でも、なぜか胸の中に何かが支えてスッキリとしない。


「凡人!」

「凛恋……」


 警察署に駆け込んで来た凛恋が俺を見付けて駆け寄って来る。俺が、凛恋に連絡したのだ。

 未遂だとしても盗撮ということから、凛恋には希さんが事件に巻き込まれたことを黙っておこうかと思った。でも、凛恋は黙っておかれた方が辛い思いをする。だから、全て知らせることにした。


「希は!?」

「今、警察に事情を聞かれてる」

「凡人、今日希を泊めるから」

「ああ。もちろんだ」


 凛恋が俺の隣に座りながら、俺の手を握って言う。

 希さんは高校の時にも盗撮被害に遭ってる。それに、過去に被害があろうが無かろうが、女性としては怖いに決まっている。

 そういう時に、希さんを一人にするわけにはいかない。


「凡人? どうかした?」

「いや……俺が付いてたのに、こんなことになって……」


 俺からは全く盗撮しようとしたことに気付かなかった。でも、実際に自白したということは、もし取り押さえてくれた男性が気付いてくれなかったら、希さんは盗撮の被害に遭っていたということになる。


「凡人は何も悪くないじゃん」

「もし男を取り押さえてくれた人が気付いてなかったら、希さんが被害に遭ってた……」

「凡人はヒーローみたいに格好良いし頼りになるけど、凡人も普通の男の人でしょ? 分からないことがあって当然よ。それに、自分のせいとか思ったら希は悲しむわよ。希は凡人にそんなこと考えてほしくない」


 凛恋の言う通りだと思う。希さんは優しい人だから、きっと俺が責任を感じることに責任を感じてしまうような人だ。


「あれ? 凛恋? どうしたの?」

「希っ!」


 事情聴取を終えて戻って来た希さんが、ロビーで待っていた俺の隣に座る凛恋を見てキョトンとした顔を凛恋に向ける。その希さんに、凛恋が駆け寄って抱き締めた。


「希、大丈夫。今日はずっと一緒に居るから」

「ありがとう、凛恋」


 希さんは凛恋に抱き締められながらニッコリと笑って凛恋の体を抱き返す。その希さんの表情を見れば、酷く落ち込んでいる様子は見えない。


「ご協力ありがとうございました」

「いえ、大したことは……」

「いえ! 流石、永江(ながえ)検事長のご子息です。男の挙動を見て盗撮犯だと見破るとは」


 ロビーと通路の境で、年配の男性が若い男性へ何度も頭を下げながら話しているのが見えた。年配の男性から頭を下げられている男性は、盗撮未遂犯を取り押さえてくれた男性だった。


「では、私はこれで」

「はっ! ご協力、ありがとうございました」


 綺麗な敬礼を向けられた若い男性はこちらに向かって歩いてくる。そして、希さんを見て微笑みながら近付いて来た。


「赤城さん、大丈夫でしたか?」

「えっ?」


 希さんは男性に話し掛けられて戸惑った声を出す。


「そっか。私のことは知りませんよね。初めまして、私は永江公一(ながえこういち)と言います。赤城さんと同じ、旺峰大学法学部で学年は三年です」

「えっ!? す、すみません。入学したばかりで!」

「いえいえ、気にしないで下さい。普通はいくら同じ学部と言っても、他の学年のことなんて知らなくて当然ですから。でも、赤城さんはとても優秀な方だとうちの学年でも評判ですよ。まあ、赤城さんは旺峰大全体で有名ですが」


 爽やかな笑顔で希さんを褒めていた永江さんは、ふと俺と凛恋を見て少しだけ目を見開いて首を傾げた。


「そっちの男性は赤城さんと一緒に居た人ですよね? そちらの女性は?」

「二人共、私の親しい友人です」

「初めまして。多野凡人です。それと、こっちは恋人の八戸凛恋と言います」

「初めまして……」


 希さんに紹介され、俺は自分と、男性が怖い凛恋の代わりに凛恋の名前も名乗る。その後に、凛恋がさり気なく俺の後ろで永江さんに挨拶した。


「二人共、初めまして」

「あの、この度はありがとうございました」


 希さんは永江さんに頭を下げる。しかし、永江さんは困ったように笑って両手の平を希さんに向けて軽く振る。


「赤城さん、頭を上げてください。私は大したことはしていないですから」


 そう言った永江さんは、腕時計を確認してからまた爽やかな笑顔を俺達に向けた。


「すみません。この後に予定があるのでこれで失礼します。赤城さんは、大学で顔を合わせることがあればまた」

「はい」


 永江さんはそう言うと、警察署の出入り口へ向かって歩いて行く。


「あの人、旺峰大の人だったんだな」

「それに、お父さんが検事長みたいだね。凄いエリートだよ」


 検事長と言えば、高等検察庁のトップだ。

 高等検察庁は、高等裁判所で扱われる事件に対応する検察庁で、そのトップの息子というのだから、希さんの言う通り凄いエリートではある。もちろん、父親が凄い人だから息子が凄いとは言えないが、旺峰大学の法学部に居る時点で、地頭が国内トップクラスなのは間違いない。


「希、今日はうちに泊まりに来て」

「良いの?」


 凛恋が希さんの手を握って言うと、希さんは首を傾げて凛恋に聞き返す。


「私が泊まってほしいの。大丈夫、凡人にはさっき言ったから」

「ありがとう。じゃあ、今日もお世話になります」


 希さんはそう言って、俺にニッコリと微笑み掛けた。




 希さんの家に寄って希さんの着替え等の荷物を取ってから俺達の家に帰って来て、俺は洋室の窓際でスマートフォンを耳に当てながら窓の外の住宅街を眺める。


「栄次すまん。……俺が居たのに」

『カズ、謝るなよ。希も言ってた。カズが一緒に警察署まで来てくれて心強かったって。ありがとな』


 電話の向こうから、栄次の明るく落ち着いた声が聞こえる。

 希さんは栄次に今日あったことを話した。希さん本人は全く今日のことを気にしていないようで、変に黙っているのは嫌だからと栄次に話したのだ。


『それにしても、俺の希と二人っきりでデートするなんてな~』

「デートって言うか、凛恋が居なくて暇同士、時間を潰してただけだ」

『でも、希が言ってた。凡人くんとのデート楽しかったよーって』

「本当は栄次と行きたかったんだよ」

『俺も、希とカフェで話ししてインテリアショップでウィンドウショッピングしたかった』

「夏休みになったら、目一杯楽しめよ」

『そうだな。じゃあカズ、今日も希のことをよろしく頼んだ』

「分かった。じゃあな」


 電話を切ってスマートフォンをポケットに仕舞う。でも、視線は窓際に向け続けていた。

 やっぱり、何となく引っ掛かってしまう。

 俺は盗撮なんてやったことはないし、やろうとも思わない。でも、それにしても、あの盗撮未遂犯はビックリするくらい間抜けだった。


 盗撮しようとしていたのに、立ち位置は希さんの正面という盗撮しづらい位置だった。盗撮しようとするなら、希さんの視界に入らない後ろからやる方がバレづらいと思う。だが、そもそもの話、盗撮未遂犯がスマートフォンを取り出した時点で、スマートフォンのカメラの位置は盗撮しようとする希さんと逆方向だった。

 そうなると、スマートフォンを反対側の後ろに居る希さんのスカートへ向けなければいけない。そんな行動、周囲の誰から見ても不自然だ。


 俺は盗撮ではないが、家で時々凛恋の胸やお尻、それから本当に時々、凛恋のスカートの中を覗こうとする時は、凛恋にバレないようにする。

 そもそも凛恋にバレていて凛恋もからかって笑うだけで怒らないという前提があるが、それでも凛恋にバレないように気を遣う。


 気心が知れていて、たとえ見付かってもからかわれるだけの彼女相手にそうなのだから、赤の他人相手にしかも犯罪行為をしようと言うのに、あんなに間抜けな行動を取るだろうか。


 あの盗撮未遂犯が、慎重になり過ぎた結果、結局、全く盗撮出来ずに終わったということも考えられる。でもやっぱり、ただスマートフォンを取り出した時点で、永江さんが盗撮だと判断出来たことが、やっぱり不思議だ。


 警察官でもベテランの警察官なら、目線や動きで怪しい人間を判断出来る目を持っていると聞いたことがある。でもそれは、何人もの犯罪者を見て来た多くの経験があるからだ。いくら永江さんが頭が良いからと言って、大学三年生で犯罪者を見破れる目が持てるものだろうか。


 ただ、本物の天才は、凡人(ぼんじん)には理解出来ない感覚や思考回路を持っている。だから、永江さんがその本物の天才だとしたら、俺なんかに理解出来なくても仕方がない。


「俺の気にし過ぎなのか?」

「凡人」


 ふわりと優しい風が吹いて、そっと温かさが体を包み込む。

 視線を下げると、正面から抱き付いたエプロン姿の凛恋が俺の顔を見上げている。その凛恋の瞳は少し潤んでいた。


「凛恋? どうした?」

「チュー」

「えっ?」

「チューして」


 凛恋はそう言って、ツンと唇を尖らせ俺に突き出す。俺はその凛恋の唇にそっとキスをした。


「ダメ……本気チューが良い……」


 唇を離すと、凛恋が駄々をこねる子供のように頭を横に振ってせがむ。

 ダイニングキッチンには希さんが居る。だから、流石にたしなめようと思った。


「私のこと……嫌――んっ……」


 凛恋の言葉が言い終わる前に、凛恋の唇を激しく塞ぐ。

 凛恋が本気で言うわけがない。だから、俺を焚き付けるためだけの言葉というくらい分かりきっている。でも、凛恋にそんなことを言われて俺が躊躇うわけがなかった。


 キスをしながら凛恋と体を入れ替えて、凛恋の体を押し付け、凛恋の穿いているレギンスの上から太腿を撫でた。

 凛恋は俺の首に手を回して体を支えながら、ねっとりと甘えたようにキスを返す。


「美鈴達と居る時に凡人が希とデートって聞いて、チョー気になってた」

「デートって言っても、友達とコーヒー飲んでウィンドウショッピングしただけだぞ」

「そう。希だから安心してたんだけど……私が凡人とカフェ行ってウィンドウショッピングしたかったなって……」


 何だかテンションが下がった様子の凛恋は、今度は不満そうに唇を尖らせる。


「いつも行くだろ? カフェもウィンドウショッピングも」


 今日の希さんと色々見て回ったのも希さんとだから珍しいことだが、凛恋とは珍しいことじゃない。もっと凛恋とは色んなところに行っている。


「でもさ……凡人との貴重なデートの機会を無くしちゃったなって思ったら、気になって寂しくなって……凡人が恋しかった」


 凛恋が弱々しい声で俺の胸に顔を埋める。その凛恋の頭を撫でながら、太腿に添えていた手を凛恋の腰に回して凛恋の体を支えた。


「今度は二人で行こう」

「うん」


 俺の背中に手を回しながら、凛恋は背伸びをして優しくキスをする。

 俺は凛恋のシャツの裾からそっと手を入れて、すべすべとした凛恋の腰を撫で、凛恋の感触を確かめる。


「凛恋、次は――ひゃっ! ご、ごめんっ!」


 凛恋の腰から手を上にずらした瞬間、洋室の出入り口から希さんのその悲鳴が聞こえる。

 俺は凛恋とキスをしたまま出入り口の方に視線を向けると、そこには既に希さんの姿がなかった。


「ちょっとラブラブし過ぎちゃったね」

「この後、一緒に夕飯食うの気まずいぞ……」


 ニコニコ笑う凛恋に俺は目を細めて言うが、盛り上がって希さんの存在を失念していた俺に非がある。

 凛恋と一緒にダイニングに戻ると、希さんがキッチンでジッと食器を見ていた。


「希~ごめんごめん。仕上げやろー」


 凛恋が希さんの隣に並んで料理の続きを始める。

 凛恋と希さんは楽しそうに笑い合う。その笑顔をテーブルに肘をついて眺めながら、俺は膝の上でテーブルの陰で拳を握る。

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