【一二七《穏やかに流れて》】:二

 大学にも学園祭はある。だから、今俺が見ているものと同じような風景はこれから見る機会はある。

 でも、刻雨での文化祭は今日で最後だ。来年はない。


 学校は楽しくない。小学校の頃から、俺はずっとそう思っていた。でも、今は全然そんなことは思わない。


 今でも俺を良く思わない人は居る。でも、俺のことを良く思ってくれる人が増えて、俺の周りには沢山の友達が増えた。

 そして、みんなで協力して同じことをすることの楽しさを知った。


 俺は裏方で、舞台背景を作るのを手伝ったり作業している人達がやりやすいように材料や工具を持ってきたりした。

 やっていることは雑用で、でもこんなに楽しい雑用は今までなかったと思う。


 作業を手伝ったら「ありがとう」とお礼を言われ、材料や工具を持ってくれば「助かる」「気が利く」と褒められる。

 そんな些細なことが嬉しかった。

 露木先生と一緒にハンバーガーを買いに行って、戻って来たらみんなが歓声を上げて笑顔で寄って来て……それで……みんなの輪の中で凛恋と一緒にハンバーガーを食べた。


「凛恋、学校って良いな」

「うん。学校は楽しい」


 凛恋が握った手に力を込めて俺の体に自分の体を触れさせる。


「あ、萌夏だ」


 凛恋が窓の向こう側に居る萌夏さんの姿を見付けて手を振る。

 萌夏さんは俺と凛恋の方を見て手を振る。

 それに俺も手を振り返そうとするが、俺は萌夏さんの様子を見て戸惑う。


「凛恋、なんか萌夏さんが慌ててるぞ」

「えっ? ……言われてみればなんか慌ててるっぽい」


 振る手を止めた凛恋は、俺の手を引いて萌夏さんの居る校舎に向かうために歩き出す。

 校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下に出ると、向かい側から萌夏さんが慌てた様子で駆け寄ってくる。


「凡人くん大変ッ!」

「萌夏さん!? いったい何が!?」


 萌夏さんは真っ青な顔をして慌てた様子で俺に声を掛け、俺の目の前で動悸を激しくしながら声を絞り出すように言った。


「つ、露木先生が! 露木先生が倒れてッ!」

「どこだ!?」

「教室!」

「二人は保健室に走って先生を呼んできてッ!」


 俺はそれだけ言って一直線に教室へ走る。そして、自分の教室のドアを開けて、教室の端で人集りが出来ているのが見えた。


「退けッ! 露木先生ッ!? 大丈夫ですか!?」

「たの……くん……」


 意識はある。でも、顔色が悪い。


「ちょっ、多野くん!?」

「貧血かもしれない。服を緩めないと」


 俺が露木先生のベルトのバックルを外して緩めると、溝辺さんの戸惑った声が聞こえる。

 普通は男がそんなことをするものじゃないが、今はそんなことを考慮している暇はない。


「溝辺さん、そこの鞄取って」

「えっ!? うん!」


 誰のかは分からない鞄を受け取って、露木先生の足の下に置いて足を高くする。

 貧血で倒れた時は足を高くさせた方が良い。


 俺は教室に置いていた上着を持ってきて露木先生の体に掛ける。貧血で倒れたら血圧が下がって体温が下がる。だから体を冷やさないようにすることも必要。

 でも、俺が分かるのはここまでだ。あとは専門家の保健室の先生が来て対処してくれるのを待つしかない。


「みんな退いて!」


 教室に保健室の先生が駆け込んできて、人集りを掻き分けて露木先生の側に駆け寄る。手には折り畳み式の担架を持っていた。


「大丈夫。ベッドで安静にしていたらすぐ良くなるわ」

「良かった……」


 露木先生の様子を見た保健室の先生が笑顔でそう言ってくれて、俺は教室の床にお尻を付けて座り込んで息を吐く。

 しかし、すぐに立ち上がって担架を広げる保健室の先生を手伝い、露木先生を担架に乗せる。


「露木先生……」


 担架の横から凛恋が心配そうに露木先生を覗き込む。

 近くに萌夏さんと溝辺さんも居て、二人も不安そうな顔で露木先生を覗き込む。

 保健室まで露木先生を運び、俺は露木先生の体をベッドに寝かせる。そこからは、保健室の先生に任せた。


「ご迷惑をお掛けして、すみません……」

「大丈夫ですよ。ゆっくり休んでください」


 保健室の先生に謝る露木先生は、保健室の壁に掛かった時計に視線を向ける。


「みんな、私の出番になったら起こして」

「露木先生、無理しちゃダメです」


 凛恋が首を横に振って露木先生に言う。

 俺達のクラスの演劇は体育館で行われる出し物の中で最後だ。だが、その前に露木先生のピアノコンサートがある。露木先生はそれに出る気なのだ。


 時間だけ見れば、露木先生の出番までは一時間以上ある。だから、眠れれば一時間は休息がとれる。

 その一時間で体調が回復するかもしれないが、倒れるほど体調を崩しているのにステージに上げるのは躊躇われる。

 無理をさせて体調が悪化して取り返しのつかないことになるかもしれない。


「露木先生、無理は――」

「お願い……私の出番になったら起こして……絶対に弾きたいの……」


 露木先生は横になったまま、真っ青とした顔色のまま俺に言う。


「凡人?」


 露木先生に背中を向けて保健室の出入り口まで歩いた俺に、凛恋が後ろから声を掛ける。


「露木先生のことを頼んだ」

「……うん」


 振り返って凛恋に言うと、凛恋は真剣な表情で頷いてくれた。

 凛恋達に露木先生を任せて俺は保健室を出る。そして、露木先生の表情を思い出していた。


 露木先生は必死な様子で、どうしても演奏をしたいようだった。

 露木先生が演奏をしたい理由は分からない。

 分からないが、露木先生がコンサートに拘っているなら何とかしてあげたい。しかし、やっぱり倒れたことが気に掛かる。


 保健室から離れて廊下を歩いていた俺は、文化祭実行委員が運営本部として使っている教室まで向かう。

 そして、ドアを軽くノックした。


「はい。あ、多野くん?」

「あの、実行委員長は居ますか?」

「ちょっと待ってて。委員長! 多野くんが委員長に用事があるみたいです」


 名前も知らない女子に尋ねると、振り返って委員長を呼んでくれる。そして、文化祭実行委員長の女子が入り口近くまで走ってきてくれた。


「多野くん、何かあった?」

「はい。露木先生が少し体調を崩してしまって、今保健室で休んでいるんです」

「えっ!? 大丈夫なの!?」


 委員長は驚いて声を上げる。それに教室の中に居た他の実行委員達が俺達の方向に何事かと顔を向ける。


「保健室の先生はベッドで安静にしていたらすぐ良くなると言ってました。だから大丈夫だと思います」

「そっか。それじゃあ、露木先生のステージイベントを中止してほしいってこと?」


 聞き返す委員長に、俺は首を振った後に頭を下げた。


「いえ、露木先生の順番を最後に回して下さい」




 俺は保健室で腕を組んで窓際に立つ。

 露木先生はベッドの上で眠っていて、その露木先生の側には凛恋がずっと居る。

 露木先生はただ眠っているだけだが、それでも凛恋が側を離れたくないと言った。だから、俺は露木先生と凛恋を見守っている。


「う、う~ん……」

「露木先生、大丈夫ですか?」


 目を覚ました露木先生に凛恋が優しく声を掛ける。

 その凛恋に視線を向けた後、露木先生は時計に視線を向けて飛び起きた。


「出番になったら起こしてって頼んだのにっ!」

「露木先生! 落ち着いて下さい! まだ、露木先生の順番じゃありません!」


 慌ててベッドから下りようとする露木先生の両肩を押さえて、凛恋が落ち着かせるように言う。しかし、露木先生は凛恋の手を自分の肩から外しながら立ち上がろうとする。


「もう時間をとっくに過ぎて――」

「凡人が時間を変えてもらったんです!」

「えっ……」


 凛恋が声を張って言った言葉に、露木先生は立ち上がろうとした腰をベッドの上に下ろした。そして、俺に視線を向ける。


「多野くん……ありがとう」

「頭下げるのは慣れてるんで」


 露木先生に潤んだ目で見られ、俺は急に気恥ずかしくなって視線を露木先生から外して、棚に収められた救急箱を睨み付けながら言う。

 すると、凛恋と露木先生が小さく笑う声が聞こえた。


「凡人、露木先生が保健室を運んだ後に、運営本部に行って露木先生の出番を最後にしてもらうように頼んでくれたんですよ。それで、一人で出番が繰り上がる人達全員に頼みに行っちゃって」


 視線はまだ救急箱に向けている。でも、凛恋がニコニコとからかいの笑みを浮かべて話しているのが分かる。

 出番を最後に回すというのは単純な話じゃない。

 露木先生の出番が移動することで、時間が繰り上がる人が沢山居る。

 その人達には、出番が早まるというのは迷惑でしかないはずだった。だから、俺は謝って頭を下げて順番の繰り上がることを承諾してもらおうと思った。でも、実際は全くトラブルにならなかった。


 みんな、快く順番の繰り上がりを承諾してくれたのだ。

 理由が理由だったこともある。

 それにみんな露木先生のことを好きだったから、露木先生のためならと言ってくれた。

 そして……俺の頼みなら、とも言ってくれた。


 みんな、体調不良なら仕方ない、露木先生のためなら全く問題ない……俺の頼みなら聞かないわけにはいかない、そう言ってくれた。

 俺はみんなに何もやったつもりじゃない。でも、みんな、俺が居なかったら今年は文化祭が出来なかったかもしれない。そう言ってくれた。


 学校改善マネージャーの長久保が居た時、文化祭は『時間の無駄』だと開催の予定がなかった。でも、センシビリタ高校の分校になってから、文化祭は開催されることになった。


 今でも、俺は分校の話は俺のお陰なんて思っていない。

 頑張ったのは分校設立に関わった沢山の大人達だ。俺はただ分校案を理事長に話しただけでしかない。でも、みんな……凛恋が言ったように俺のお陰だと言ってくれた。


「私、みんな凡人への感謝が足りないって思ってたんですけど、みんな凡人のお陰だって分かってくれたんですね」

「俺のお陰じゃ――」

「多野くんのお陰だよ」


 聞こえる凛恋の声に否定しようとした俺の言葉を露木先生が遮る。


「多野くんが話さなかったら、理事長先生は絶対に動かなかった。理事長先生が動かなかったら、私達大人も動けなかった。だから、多野くんのお陰だよ。それに、今日も多野くんのお陰。ありがとう、多野くん」

「……露木先生がフラフラになりながら、絶対に弾きたいって言ったから。お世話になってる露木先生の力になれればと思って」

「ありがとう。体調もすっかり良くなった。多野くんと、みんなのお陰」


 視線を向けると、露木先生は手の甲でそっと目を拭った。


「みんなに助けてもらったんだから、良い演奏しなきゃね」


 スッと立ち上がった露木先生はいつも通りの元気な笑顔を浮かべる。


「もうすぐうちのクラスの演劇が始まる時間です」

「ありがとう。その前に楽譜を取ってこないと」

「私も一緒に行きます」


 凛恋が露木先生の側に寄り添って立ち上がり保健室の出入り口に向かう。

 俺も二人と一緒に行こうとすると、露木先生が振り返って微笑んだ。


「多野くんは先に行ってて」

「えっ?」

「私は大丈夫。それに、着替えないといけないから」

「あっ……」


 着替える、という言葉を聞いて俺が立ち止まると、露木先生はクスッと笑って俺に背中を向けて凛恋と廊下を小走りで駆けていった。




 体育館の中は熱気が籠もって少しムッとしていた。

 窓は閉め切られ、ありとあらゆる窓に暗幕が掛けられて外からの光を遮っている。そして、一つの場所以外の照明は全て消されている。


 真っ暗な体育館の中で、唯一光に照らされているステージの中央に、一台のグランドピアノがあった。


『最後のステージは、露木真弥先生によるピアノ演奏です』


 ステージ進行役の生徒の声がスピーカー越しに聞こえる。すると、ステージの中央に露木先生が歩いて来た。

 露木先生が出てきた瞬間、体育館に居る全員が息を飲むのが分かった。


 照明の光に照らされて光沢を放つ漆黒のロングドレス。

 派手なドレスではないが、黒薔薇のコサージュが落ち着いた華やかさを放つ。そして、そのドレスを身に纏う露木先生は、いつもよりずっと大人っぽく見えた。


「初めに、出演時間の変更でご迷惑をお掛けした皆さん、本当に申し訳ありませんでした」


 持っていたマイクを使いそう言った露木先生は、客席に向かって深々と頭を下げる。


「今回、私が演奏させていただく曲は、フレデリック・ショパン作曲、作品番号六〇、バルカローレです。このバルカローレは日本語では舟歌(ふなうた)という意味があり、ゴンドラの船頭が船を漕ぎながら口ずさむ歌だったとされています。舟歌はいくつか他の作曲家も作曲していますが、今回はショパンの舟歌を演奏させていただきます。どうか、小川を漂う小舟に乗っているようなリラックスした気持ちで聴いて下さい」


 そう言って露木先生はマイクを進行役に返してピアノ椅子に腰掛けた。そして、少し姿勢を確認してから、ゆったりとした動きで演奏を始めた。

 小川を漂う小舟に乗っているように聴いてほしい。

 その言葉通りの、ゆったりとして落ち着いた音色の曲だった。


 演奏する露木先生の手と足の動き、体の揺れが、小舟をゆっくり運ぶ水面のように穏やかで、奏でる音も耳に自然と入っていく川音のようだった。

 ついさっきまで気になっていた体育館の熱気が一気に感じなくなり、代わりに露木先生の奏でるピアノから清涼剤のように音が爽やかさを体育館いっぱいに広げる。


 ドレスアップした露木先生に見とれていた体育館に居る全ての人が、いつしか露木先生の奏でるピアノの音に魅了されていた。

 俺は自然と目を閉じて、耳だけに意識を集中させ露木先生の奏でる音に集中する。でも、すぐに意識を集中させるために体へ入れた力を抜かされる。


 露木先生のピアノはいつだってそうだ。真剣に集中して聴くことは出来るのに、絶対に緊張して聴かせてくれない。

 絶対にリラックスした自然体の自分で聴かされる。一音だって聴き漏らしたくない、そう思うのにそういう緊張感を持たせない。


 優しくて穏やかで、包み込むような温かさのある音色。

 俺は、その露木先生のピアノが好きだ。


 ゆったりと奏でられていたが、ほんの少しの、ささやかな盛り上がりでクライマックスを迎えて演奏が終わる。そして、そのピアノの余韻が完全に聞こえなくなってから、余韻の代わりに大きな拍手の音が響いた。


 立ち上がった露木先生は、ゆっくりステージ中央に戻って客席にお辞儀をした。それを見て、また一段と体育館の拍手は大きくなった。

 そして、ゆっくり顔を上げた露木先生と目が合った。


 露木先生は軽くウインクをして、いつも通りの笑顔を浮かべる。

 それを見て、俺は両手を上に持ち上げ、笑顔で露木先生に見えるように大きく拍手を返した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る