【九三《頑張りの源》】:二

 高校生の体育大会になると、短距離走が一年は一〇〇メートル、二年は二〇〇メートル、そして三年は四〇〇メートルになる。

 一〇〇、二〇〇、四〇〇の刻みは陸上競技としての短距離に間違いはない。しかし、俺個人としては一〇〇メートルを短い距離だとは思わない。

 短い距離というのは、せいぜい五〇メートルくらいだろう。


 そう短距離という言葉に不満を持ちながら、俺は短距離走の順番待ちのために座っている。

 少し前に走った人達の中に陸上部の男子が居たらしく、その凄まじい速さに周りから歓声が沸いていた。

 しかし、陸上競技の短距離走は陸上用のスパイクを履いて走るが、体育大会では学校指定の運動靴を履いている。


 スパイクよりも踏ん張りが利かない運動靴では、練習で鍛えた脚力は十分に活かせないだろう。でも、それでも周りが湧くほど速いのだから凄い。

 もしスパイクを履いていたらどれだけ速いのだろう。


「ぜってー負けない」


 隣からその声が聞こえるが、俺はその方向を見ない。

 組み合わせの運が悪かった。俺の隣には、赤組の一員である石川が居る。短距離走の走る順番が被ったのだ。


 走る順番は一組六人。まあ、俺はこの中で下から数えて一番だろう。だから、石川が気合いを入れたところであまり意味はない。


 凛恋に下から数えて一番になる姿を見せることに、情けなさを感じないわけではない。

 しかし、日頃全く運動をしていない俺のような人間が、体育大会の時だけ運動能力が劇的に強化されるわけがない。だから、諦めるしかない。

 それに、凛恋は俺が運動が苦手なのを知っているし、それでも俺を好きで居てくれる。そもそも、凛恋は運動能力の高さで彼氏を選ぶような人ではない。


 そう考えていると、やっと俺の順番が来る。同じ組の男子達がクラウチングスタートの体勢を取る。しかし、名前は知らんが陸上でよく見る、あの足を踏ん張る設備がないのにクラウチングスタートをする意味が分からない。

 そのままスタンディングスタートでも良い気がする。


「凡人っ! 頑張れーッ!」


 クラウチングスタートの体勢を取っている俺の耳に、その声が聞こえる。


「よーい!」


 スターターがピストルを鳴らした瞬間、俺は一心不乱に腕を振って足を動かした。

 運動なんて嫌いだ。運動好きには申し訳ないが、俺は運動するとただ疲れるだけで、運動好きが言うような達成感や爽快感は全く覚えない。

 それは、俺と運動好きの感性が違うからだ。でも、運動好きでも運動嫌いでも、運動に対して好みが普通の人間でも同じことがある。

 それは、彼女の前では良いところを見せたくなることだ。


 他の人は知らん。でも、凛恋はきっと俺が頑張れば分かってくれる。

 俺が頑張れば、その頑張りを認めてくれる。たとえ結果が伴わなくても。


 正直、運動を頑張るのは性に合わない。しかし、凛恋のために頑張ることなら、何だって頑張れる。

 嫌いなことだって、凛恋に頑張ってと言われたら頑張らないわけにはいかない。

 彼女に頑張ってと言われたらやる気も出てしまう。やっぱり、男は単純な生き物だ。


「あれ?」


 一心不乱に走り出していたら、腹で白いゴールテープ……まあ、実際は細長い布だが、を切った感触を受ける。

 久しぶりに全力疾走したせいで息は上がり、体の中に酸素を取り込もうと横隔膜が肺を何度も押し潰し、心臓は激しく何度も脈打つ。


「凡人っ!」

「凛恋!?」

「凡人! 一番じゃん! 凄い!」

「一番?」


 前から駆け寄って来た凛恋に右手を手で包まれながら言われ、俺はついさっき自分の腹に受けた感触を思い出す。

 ゴールテープは最初にゴールに到達したやつが切るものだ。

 それを切ったということは、俺は短距離走で一番だったらしい。


「凛恋が大きな声で応援したからだね」


 凛恋の後ろからひょこっと顔を出した希さんがニコッと笑って言う。すると、凛恋が真っ赤な顔をして俺をチラッと見た。その凛恋の頭に手を置いて優しく撫でる。


「凛恋の声が聞こえて、凛恋のために、柄にもなくやる気を出してみた」

「ありがとう、凡人。チョー格好良かった!」


 下から見上げる凛恋が明るい笑顔を向けて言ってくれる。

 こんな顔を見せられると、苦手なことも頑張る価値があると思う。それに、こんな可愛い笑顔が見られるなら、また柄にもなく頑張ってみようと思う。




 午前の部が終わり、午後の部までの昼休憩。俺は凛恋の友達達と昼食を取っている。

 いつもなら音楽準備室で昼食を食べるところだが、体育大会の今日は教室で食べることになった。


「多野くんは、凛恋の本気愛妻弁当か~」


 凛恋が俺の前に弁当包みに包まれた弁当箱を置くのを見て、溝辺さんがニヤニヤとした顔を凛恋に向ける。それを凛恋がすました顔で受け流し、小さく鼻を鳴らした。


「毎日本気の愛情弁当だし」

「フュー、羨ましい羨ましい」


 口笛を鳴らして溝辺さんが言うと、希さんがクスクスと笑う。それに萌夏さんもニッコリ笑う。しかし、萌夏さんの笑顔は少し硬い。


 あの内笠の一件が尾を引いているのは間違いない。

 それに、萌夏さんを少し堅いと思っている俺も、きっと萌夏さんに対して堅くなっている。


 自分のことを好きだと思ってくれている相手というだけでも気を遣ってしまうのに、俺は通常なら俺が知り得ることのない萌夏さんのプライベートのことまで知ってしまった。

 それは、お互いが気を遣って仕舞うほどデリケートなことだった。


「あの、赤城希先輩はいらっしゃいますか?」


 その声が教室内に響いて、全員がその声の聞こえた教室の出入り口に視線を向ける。出入り口には、運動着姿の男子が四人立っていた。


 希さんの客だから俺はもちろん面識はない。しかし、希さんを先輩と呼んだということは一年の男子ということだ。

 いったい、一年の男子が何の用だろう。


 希さんは自分の席から立ち上がり、希さんを呼んだ一年男子の方に歩いて行く。

 俺はあまり見るのは良くないと思ったが、つい視線をその方向に向けてしまう。


 希さんを尋ねて来た一年男子は、なにやら希さんに封筒を手渡している。

 それは茶封筒ではなく、レターセットにあるようなお洒落な封筒だった。


 希さんを尋ねて来た一年男子は、希さんに頭を下げて一緒に来ていた三人の友達らしき男子と一緒に去って行く。

 そして、右手にお洒落な封筒を持った希さんが席に戻ってきた。


「希、それは?」

「うん、一年生の子が読んで下さいって」

「へぇ~」


 困った表情でそう言った希さんに、溝辺さんがニヤッと笑ってそう言うと、他の女子からも感嘆の声が漏れる。


「手紙とか可愛いことする男子も居るのね~。あ~、私も一年の男の子から手紙とか貰ってみたいわ~」


 明らかに希さんをからかう体勢の溝辺さんの言葉に、希さんは困った笑みを返す。

 まあ、十中八九、ラブレターだろう。

 希さんはさっきの一年男子と知り合いっぽくはなかったから、いきなりラブレターで告白なんてことはあり得ないだろう。しかし、あの一年男子が希さんに好意があるのは明らかだ。


「でもまあ、希には喜川くんが居るしね~。あの一年じゃ、喜川くんに勝つのは無理ね」


 自分でからかい始めた溝辺さんが、そう言ってからかいを締めくくる。

 まあ、容姿だけ見れば、希さんに手紙を渡した一年男子は、確かに栄次に勝てる容姿をしていたわけじゃない。

 希さんは容姿で人を判断する人じゃないが、そうだとしても今の二人の間にあの一年男子が割って入るのは難しいだろう。


 凛恋の作ってくれた弁当を食べながらチラッと廊下側に視線を向けると、今度は入江がこっちの方に手を振っていた。


「佳奈子~」

「裕也!」

「……佳奈子? 裕也?」


 入江が手を振りながら平田さんを呼び、平田さんはニコニコ笑って入江の元に駆けていく。お互いに、下の名前を呼び合っていた。

 俺が首を傾げて二人を見ると、溝辺さんが小さくため息を吐いて苦笑いを浮かべ俺を見た。


「佳奈子、昨日から入江くんと付き合い始めたんだってさ」

「入江と平田さんが?」

「お互いに彼氏彼女が居ないからだって」

「な――そ、そうなのか」


 一瞬、なんて理由で付き合ってるんだ、という呆れの言葉が出そうになる。しかし、他人のことだし、特に俺に悪影響があるわけでもないから言葉を飲み込んだ。


「まあ本人達の問題だし、不干渉不干渉」

「それが俺も正しいと思う」


 他人の色恋沙汰にあれこれと口を出しても良いことはない。

 口を出そうとするのは野暮なことだ。こういう場合は静観するというのが正しい。


 俺はチラッと視線を凛恋に向けると、俺の視線に気が付いた凛恋が弁当を食べる手を止めて小さくため息を吐いた。


「凡人? 前にも言ったと思うけど、私は入江くんのことはなんとも思ってないわよ。その入江くんが友達の佳奈子と付き合っても、佳奈子に彼氏が出来て良かった、佳奈子おめでとうって思うだけ。私は凡人以外の男子になんてもう興味ないしどうでもいい」

「まあ、凛恋は多野くん以上の彼氏は居ないわよね。てか、もうこの学校で多野くんと凛恋の間に割って入ろうなんて考える身の程知らずは居ないんじゃない?」


 溝辺さんが笑いながら言う。俺は、溝辺さんが身の程知らずと言った後に石川の存在が浮かんだが、すぐにそれを頭から消した。

 いくら石川が頑張ろうとも凛恋の落ち切った石川に対する印象を拭うことは出来ない。


「凛恋、ご馳走さま。今日もめちゃくちゃ美味しかった。ありがとう」


 弁当を食べ終わり片付けを済ませると、俺は隣に居る凛恋を見る。


「凛恋、ちょっと良いか?」

「うん」


 凛恋と一緒に教室を出て、凛恋と手を繋いで人けの少ない非常階段の裏側に連れて行く。

 若干薄暗いその場所に連れて来られた凛恋は、周囲を見渡した後に俺の顔を見る。凛恋の顔は真っ赤だった。

 ゆっくりと凛恋の髪を両耳に掛けた後、そっと唇を重ねる。


「凡人?」

「凛恋……」


 唇を離した後、俺は凛恋を抱き締めて凛恋のうなじに鼻を付ける。


「ちょっ、凡人!? 汗掻いてるから!」


 凛恋の押し殺し焦った声が聞こえる。しかし、俺は構わず凛恋の体を抱き寄せて凛恋の匂いを嗅ぐ。甘い香りがして、その隙間から汗の匂いがする。でも、その凛恋の匂いは俺に安心感をくれた。


「もう…………私も嗅ごっ!」


 凛恋も俺のうなじに鼻を付けてスゥーっと息を吸い込む。


「はぁ~、やっぱり凡人の匂いは最高。チョー落ち着く! 後は午後の部だけだからさ。もうちょっとの我慢よ」

「こんな地獄、凛恋が居なかったらボイコットしてるところだ」

「今日頑張ったからご褒美あげないとね」

「えっ?」


 ご褒美。その言葉に期待が膨らむ。いったいどんなご褒美を貰えるのだろうと想像してしまう。

 目の前に居る凛恋がニタァーっと笑って、右手の人さし指で俺の鼻先をつつく。


「エッチなことはしないからね」

「えっ!?」

「えっ!? じゃないわよ、まったく……」


 ぷくぅっと両頬を膨らませた凛恋が、フッと笑って俺に抱き付く。


「頻繁にしてることはご褒美にならないでしょ? 凡人が私のためにあんなに頑張って格好良いところ見せてくれたんだから、特別なことにしないと」

「ちなみにご褒美は何を?」

「今から考える!」

「そっか。楽しみにしてて良いか?」

「凡人の期待に応えられるように頑張る」


 凛恋がそう言ってくれて、俺は心が温まるのを感じた。この分なら、午後の部も乗り越えられるだろう。




 午後の部が始まって、もう午後の部も終わりというところ。今は、一年女子の団体競技が行われている。

 一年女子の団体競技は小綱奪い。単純に言うと、大縄より短い縄が何本か置かれ、それを赤組と白組で奪い合うというもの。


「凡人……」

「ん?」

「女子って怖いね」


 隣で小綱奪いを見ている運動着姿の小鳥が引きつった笑顔を浮かべる。


「女子は怖いぞ。凛恋も希さんも怒ると怖いからな」


 俺はそう言い、背筋に寒気を感じながら視線を小綱奪いに向け続ける。


「引っ張れぇッ!」

「敵に渡すなッ!」

「引きずってでも持ってこいッ!」


 女子とは思えない怒号の応酬で、グラウンドは大変殺伐とした光景が広がっている。

 希さんは引っ張り方も女の子らしい。凛恋は歯を食いしばり、かなり勇ましく見える。


「八戸さん凄いね」


 小鳥がそう言うと、女子一人を引きずりながら白組の陣地まで綱を持っていた凛恋が満面の笑みで俺に手を振る。

 俺はそれに笑顔で手を振り返しながら、凛恋の逆鱗に触れないようにしようと思った。

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