【九〇《個人の管理》】:一
【個人の管理】
八戸家のベッドで眠る凛恋を、俺はベッドの脇に膝をついて見詰める。
学校中の生徒教師のもとに、同じ茶封筒が届けられた。その中身は、学校裏サイトに書き込まれたその人物に対するコメント全てが書き出されたコピー用紙と、女子には盗撮画像サイトにアップロードされた画像をプリントアウトした物。
それが凛恋の机にも入っていて、それで凛恋はストーカー被害のことを思い出してしまった。
その茶封筒が何者かによって配られたことでパニックが起き、収拾が付かなくなった学校は臨時休校になった。
そして俺は、希さんと一緒に酷くショックを受けた凛恋に付き添って八戸家まで来た。
「凛恋……」
「希さんは大丈夫か?」
「…………ちょっと怖いけど、大丈夫」
希さんにも凛恋と同じものが届けられていて、中には盗撮された画像の写真も入っていた。
凛恋と同じように希さんも辛いし怖いはずだ。
「凡人くんにも来てたんだよね?」
「ああ」
俺は鞄から茶封筒を取り出し、膝の上に置く。そして、中からコピー用紙の束を取り出した。
コピー用紙には好意的なコメントも反感的なコメントも書かれていて、正直、見るのも面倒くさく感じる量だった。
ただ、俺は女子じゃないから、盗撮された画像はなかった。
「一体、何の目的でこんなことを」
たった一日で、学校中の生徒と教師についての書き込みをまとめ、女子には盗撮画像の写真まで付けて、全員の手に渡るようにする。
それは想像しただけで、うんざりするくらい手間の掛かることだ。でも、そんな手間の掛かることをして、それをやった人間は何が得られるのだろう。
「凡人くん、書き込みをまとめた紙を見て」
「えっ? これは……」
俺の好意的、反感的なコメントの後に、そのコメントを書き込んだ人のクラスとフルネームが書かれている。だが、どうしてそんなことが分かったのだろう。
どうやったかは分からないが、匿名だったはずの書き込みが実名になってる。だとしたら、反感的なコメントを書き込んだ人達は今頃、顔を真っ青にしているだろう。
「露木先生は……」
俺は昨日の、落ち込んでいる露木先生の姿を思い出し、露木先生に電話を掛ける。しかし、まだ学校で今回の騒動の対応をしているのか、電話に出る気配はなかった。
「露木先生は?」
「忙しくて出られないみたいだ」
「……そっか。昨日、凄く落ち込んでたから、心配だよね。自分に対して良くないことを言ってた人が誰か分かるなんて、凄くショックだから。それに……」
「希さん、警察が絶対に犯人を捕まえてくれる」
「うん……」
裏サイトの書き込みと、アップロードされた盗撮画像をプリントアウトして当事者の机に入れた。ということは、机に入れた人物はどちらのデータも持っていることになる。
それは、盗撮された凛恋と露木先生、そして希さんには辛過ぎる。
情報技術用語、いわゆるIT用語に『デジタルタトゥー』という言葉がある。
これはインターネットの書き込みや登録した個人情報は、一生消えることはないことを入れ墨にたとえた言葉だ。
裏サイトの書き込みは刻雨高校関係者という限定的な範囲だった。でも、盗撮画像のサイトは刻雨高校関係者以外でも閲覧出来る状態にあった。
それは、すぐに閲覧出来なくなったとしても、もし画像を保存した誰かが、サイトを作った誰かが、持っているデータを再びインターネット上に公開したら、もう完全に消し去ることなんて出来なくなる。
「……希さん、家にお母さんは?」
「今日は昼間出掛けるって言ってた」
「じゃあ、お母さんが帰ってくるまで、凛恋の側に居てくれ。凛恋のお母さんに話せば喜んで居させてもらえるから」
「凡人くん、ダメだよ。凛恋の側には凡人くんが居ないと」
俺は鞄を置いたまま立ち上がる。その俺を見上げて、希さんは首を振って俺の手首を掴む。
「それに、素人の凡人くんが関わったら危険なだけだよ」
「分かってる。でも、首を突っ込むわけじゃなくて、露木先生の様子を確認してくるだけだから。荷物もここに置いておくし、様子だけ見たら戻ってくる」
露木先生と連絡がつかないのは学校に居るからに決まっている。しかし、やっぱりこの目で見るまでは安心出来ない。
それに……希さんが言った通り、露木先生は昨日かなり落ち込んでいた。一度は立ち直ったにしても、今朝のことを気にしている可能性は高い。
「帰りにケーキでも買ってくるから」
「ダメ」
「希さん……」
「凡人くんが優しい人だってことは分かってる。でも、凡人くんは凛恋の彼氏でしょ? 凛恋のことを守らないと――」
「凛恋がこの家に居て、親友の希さんがその凛恋の側に居てくれたら安心だ」
家の中に居て希さんが側に居てくれたら、凛恋は安心して眠れる。
俺は希さんに凛恋を任せ、お母さんに一声掛けてから八戸家を出る。少し様子を見てくるだけだから、そんなに時間が掛かるわけじゃない。
俺についてのコメントを書いていた人の名前を少し見たが、俺は名前を見ても全く誰が誰だか分からなかった。それは、俺が交友関係が狭い人間だからだ。でも、露木先生は違う。
露木先生は音楽教師で、色んなクラスの授業をしている。それに、露木先生の話しやすい雰囲気から、俺達のように気軽に話し掛けてくる生徒も多い。
だから、露木先生は教師という職業柄もあって、沢山の生徒の顔と名前を覚えているはずだ。だから、自分に対する書き込みを書いた人の名前を見れば、誰が誰だか分かる。
そんな露木先生に、反感的な意見を書いた人の名前が分かったら、受けるショックは昨日の段じゃない。
学校までの道を歩いていると、交差点の反対側で信号待ちをしている萌夏さんの姿を見た。
制服姿の萌夏さんは、スポーツバッグだけを持って横断歩道を渡っていく。
その様子を見て、俺はとっさに学校への道ではなく、萌夏さんが歩いて行った道に足を進める。
萌夏さんは町外れにある空き地に入っていく。そこには売り地であることを示す不動産屋の看板があるが、特にフェンス等は無く、地面には背の低い雑草が生えていた。
「萌夏さん!」
俺は、空き地の中央辺りで立っている萌夏さんの背中に声を掛ける。すると、振り返った萌夏さんは目を見開いて俺を見た。
「凡人くん!? どうしてこんなところに?」
「ごめん。一人で歩いてる萌夏さんを見てたら嫌な予感がして」
俺が、交差点の向こう側に見た萌夏さんの顔は酷く青ざめていた。そして、萌夏さんの顔は今も酷く青ざめている。
それを見れば、今の萌夏さんが楽しい状況ではないのは分かる。
「何かあったんだな」
「何もないよ」
「何もなかったら、真っ青な顔してこんな場所に居ない」
萌夏さんは俯いて俺から視線を逸らす。その反応で、やっぱり何か良くないことが萌夏さんに起こっているのが分かる。
「おい、女一人のはずだろ? 男が居るぞ」
その声が聞こえて振り向くと、そこには目出し帽を被った二人の男が立っていた。そして、男達の後ろ、空き地の入り口には、さっきは停まっていなかった黒いワゴン車が停まっている。
窓ガラス越しに、運転席に男が座って居るのが見えた。
「ここの持ち主ってわけではなさそうだな」
目出し帽を被っている時点で、不動産屋じゃないのは明らか。だから、俺は萌夏さんを背中に隠して男を睨み付ける。
男達は目出し帽を被っているが、手にはスマートフォンを持っているだけで、ナイフのような人を脅すための凶器は持っていない。
「俺達はその女を送るのが仕事だ」
「目出し帽被ったタクシー運転手は居ないだろ」
日本では、街中で目出し帽を寒いからと言って被る人間は珍しい。
目出し帽と言えば、刑事ドラマで誘拐犯が顔を隠すために被るためのものというイメージがある。そんな否定的なイメージの付いた目出し帽を街中で被るなんて、よっぽど精神が図太い人間くらいだ。
一般人が目出し帽を被るのは、冬山登山と言った極寒に晒される場所くらい。
今日は目出し帽を被るほど寒い日ではない。だから、この男達はドラマの誘拐犯と同じように、顔を隠すために被っているのだろう。
そんな怪しいやつらに、萌夏さんを連れて行かせるわけがない。
「どうすんだよ」
「とりあえず、あいつに電話掛けろ」
男の一人がスマートフォンを操作して電話を掛ける。
「おい、話が違うぞ。女一人連れて来るだけで良いはずだろ! 何で男が居るんだ! しかも、男が女を守ってる。これじゃ誘拐みたいじゃないか!」
電話をする男が取り乱している様子を見ながら、俺は空き地の前に停められたワゴン車の方を見る。
ワゴン車のエンジンは切られている。だからすぐに発車することは出来ない。それに、ワゴン車の後ろに走れば、更に追い掛けづらくなる。逃げるなら電話に男が気を取られているうちがいい。
電話をしていない男は、苛立ったように右足のつま先で地面をトントンと踏みつけ、ズボンのポケットを右手の人さし指で同じく苛立ったように叩く。
俺は後ろに居る萌夏さんに視線を向け手を差し出す。走って逃げようという合図だ。しかし、萌夏さんは黙って横に首を振る。俺はその行動に戸惑った。
状況は明らかに、目の前に居る男達が萌夏さんを何処かに連れて行こうとしている。
それなのに、萌夏さんは逃げようとしない。
「お前も来い」
電話を終えた男が俺にそう言う。
「何が目的だ」
「凡人くん、私はただ人に会いに行くだけなの。この人達は、その人の所に送ってくれるだけ」
警戒心を持って男に尋ねた俺に、後ろから萌夏さんがそう答える。俺は振り返って萌夏さんの両肩を掴んだ。
「萌夏さん、誰かに脅されてるのか?」
俺の問いかけに、萌夏さんは首を横に振って否定する。しかし、それ以外にこの状況を説明出来ることがない。
明らかに怪しい男達に自らの意思で付いて行く。しかし、その付いて行く萌夏さんの表情は辛そう。
ということは“付いて行きたくないが、付いて行かなければいけない理由がある”ということだ。
「凡人くんは帰って。凛恋の側に居てあげないといけな――」
「分かった。俺も一緒に行く」
「凡人くんッ!」
「こんな怪しいやつらと一緒に、萌夏さんを一人で行かせるわけないだろ! 萌夏さんに何かあったらどうするんだ!」
萌夏さんの言葉を信じれば、目の前に居る男達は誰かに依頼されただけの人間になる。
萌夏さんの言葉が全て事実とは言い切れない。俺を巻き込まないために嘘を言っている可能性だってある。
「話は纏まったな。車に乗れ」
「分かった」
俺と萌夏さんは前後を男に挟まれた状態で車の近くまで歩いて行き、男が開けた後部座席のドアを抜けて車内に乗り込んだ。
後部座席に座りながら、窓の景色を見て唇を噛む。
車は高速道路に乗ってどんどん市街地から離れて行く。
俺達が連れて行かれるところはかなり遠いらしい。スマートフォンは取り上げられて時間を確認する術がないが、もうかなりの時間、高速を走っている。
「本当にこれで大丈夫なんだよな?」
「あいつが約束を守ればな」
「何だと? 俺は依頼をこなせば大丈夫だって聞いたからやったんだぞ!」
「どっちにしろ、証拠握られてる時点でこっちには拒否権なんて無かったんだ!」
前の方では、運転していない男二人が口げんかを始めている。
証拠を握られている。その言葉が気になるが、二人の会話だけでは状況が見えてこない。
隣に座る萌夏さんは、顔を両手で覆ったまま俯いている。車に乗ってからその状態で一言も声を発そうとしない。
インターチェンジの料金所を通って車は高速を降りる。
その時に見えた標識には、高級別荘地として有名な避暑地の地名が書かれていた。
俺達が住む街からだと、二時間以上掛かる場所だ。ということは、車に乗せられてから二時間以上経過しているらしい。
車は曲がりくねった道を進み、周囲に高そうな一軒家が建っている住宅街に入った。いや、地名から考えるとここは別荘街なのかもしれない。
「降りろ」
車が停まって、前から目出し帽の男が指示を出す。そして車から降りると、目出し帽の男達は降りてこず、車の横にある別荘を指さす。
「俺達が頼まれたのはここに連れてくるまでだ」
そう言って男は俺にスマートフォンを渡す。
「悪いことは言わない。あいつと関わり合いになるな。このまま逃げた方が良い」
「えっ?」
目出し帽の男がその言葉を残して、黒のワゴン車は走り去ってしまう。
俺は受け取ったスマートフォンを握りながら、走り去るワゴン車の後ろを目で追った。
「凡人くんはこのまま帰って」
戸惑っている俺に、横に立っていた萌夏さんがそういう。そして、目の前にある別荘の門を開けて敷地内に入っていく。
「萌夏さん、どうして」
「お願い! このまま、帰って……お願い」
萌夏さんは両目に涙をいっぱい浮かべてそう言う。
さっきの男達といい、萌夏さんといい、色々と不自然だ。
ここまで俺達を連れてきたのに、逃げた方が良いという男。ここまで誘拐と言える状況で連れて来られたのに、逃げようとしない萌夏さん。
俺は別荘の玄関に向かって行く萌夏さんの後を追い掛けた。このまま一人で行かせるわけにはいかない。
萌夏さんは別荘の玄関にあったインターホンを押して、玄関前で両手を前に組んで立つ。そして、すぐにインターホンのスピーカーから声が聞こえた。
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