【八二《伝統と仕来り》】:二

「凡人」

「うっ……ううん……」


 耳元で凛恋の声が聞こえて目を開くと、服を着た凛恋がベッドに腕を置いて俺の顔を眺めているのが見えた。


「ホント、チョー可愛い」

「…………」


 凛恋がうっとりした顔で言うのを聞いて返す言葉が見付からず、とりあえず見返してみる。


「凡人の寝顔と寝起きの顔を見られたら、全部どうでも良くなっちゃう」

「凛恋……今何時?」

「もうすぐ六時」

「ヤバい……部屋に戻らないと……」

「良いわよ。起きてから部屋に来たって言えば」


 俺は凛恋の香りが染み付いた幸せなベッドの上で起き上がる。今日はいつにも増して目覚めの体と頭が重たい。


「凡人ごめんね、疲れてるのに無理させちゃって」

「いや、大丈夫だ」


 シャツを着ると、濃い凛恋の匂いが香る。凛恋のベッドの中で一晩寝かせた結果、凛恋の匂いを染み込ませたようだ。


「やっぱり、凡人と一緒に寝たらぐっすり眠れた」

「俺は寝過ぎて頭が重い……」

「大丈夫?」


 凛恋が俺の顔を覗き込み、ベッドに座って俺の額に凛恋の額を合わせる。


「熱はないわね」


 額を合わせた凛恋が、チュっと唇にキスをして離れる。凛恋は、人さし指で自分の唇に触れるとニッと笑う。


「おはようのチュー」

「おはよう、凛恋」


 凛恋がベッドから下りて身支度をしている。俺はその後ろで服を着て、ベッドの中から出ると凛恋に手を掴まれる。


「一緒に居て」

「出て行かないって」


 凛恋は既に化粧も済ませていて、絨毯の上に座る俺の腕に自分の腕を絡める。


「凡人、今日何処かデート行かない?」

「デート? 良いけど、今日は天気どうだったっけ?」

「ちょっと待って! スマホで調べる!」


 凛恋が笑顔でスマートフォンを手に取って今日の天気を調べる。


「あー、今日午後から雨だってー」

「じゃあ、室内の場所が良いな」

「えっ?」


 凛恋が目を丸くして俺を見る。その「凡人が雨の日に外に出るなんてびっくり!」みたいな顔をされるのは心外だ。


「可愛い彼女がデートに行こうって言ってくれるんだから行くに決まってるだろ」

「凡人大好きっ! 何処に行こうかなー」


 凛恋がニコニコ笑いながら鼻歌まで歌ってデートの場所を考えている。

 その嬉しそうな凛恋の顔を横から眺めながら、つい顔が緩む。

 昨日は凛恋も突然のことで動揺した。でも、警察も事件性は無いと判断しているし、これ以上ことが悪化することはないだろう。


「映画かなー。あっ、水族館も良いかも!」

「水族館は良いかもな」

「じゃあ、水族館ね!」

「分かった」

「決まりっ!」


 水族館の開館時間を調べ終わると、スマートフォンをテーブルに置いてまたべったりとくっ付いてくる。

 昨日バイトで一万円稼いだし、今日はちょっと贅沢なデートをして凛恋に楽しんでもらおう。


 今、ただ凛恋と並んで座っていることが一番幸せだ。普通が一番という言葉を婆ちゃんがよく言うが、本当にその通りだ。

 凛恋がただ楽しそうに笑って居てくれれば、他には何も要らない。


「あれ? こんな時間に誰だろ?」


 下からインターホンの呼び出し音が鳴って、凛恋が顔を離して部屋のドアを見る。今の時間は丁度六時を回ったところ。人の家を尋ねるにはかなり非常識な時間だ。


「孫を傷物にした下衆を出せッ!」

「キャッ!」


 突然、下から聞こえたその怒鳴り声に凛恋が悲鳴を上げて体を震わせる。

 下から聞こえた声は男性。そして、孫を傷物にした下衆というのは、きっと俺のことだ。


「凛恋、凡人くん、優愛と一緒に部屋でジッとしていなさい」


 お父さんが優愛ちゃんを連れて部屋に入って来る。寝間着姿の優愛ちゃんはすぐに凛恋に駆け寄って、凛恋にしがみついた。


「あの、お父さん……」

「絶対に出て来ないでくれ」

「分かりました」


 お父さんの表情は険しかった。それに、俺が踏み込むべき問題ではない。お父さんお母さんも踏み込んでほしくないはずだ。


「パパ……すぐ帰る?」

「分からない」


 凛恋の言葉にお父さんは首を振って答える。それを見て、凛恋は唇を噛んで立ち上がった。


「「凛恋ッ!」」「お姉ちゃん!」


 立ち上がり部屋を飛び出した凛恋を俺はすぐに追い掛ける。階段を駆け下りる凛恋の後ろ姿が見え、その凛恋を追い掛けた先に土間に立つ三人の男性が見えた。


 三人のうち一歩後ろに控える二人は、中年くらいの男性で地味なスーツを着ている。そして、三人の先頭に立つのは、老年の男性が高そうなスーツを着ていて、右手には杖を持ち、頭にシルクハットを被っている。

 紳士的な服装だが、雰囲気からは全く紳士さは感じられなかった。


「帰ってください!」

「凛恋、部屋に戻っていなさい」


 廊下に下りた凛恋が、体をガクガクと震わせながら、土間に立つ男性三人に怒鳴り付ける。

 俺は階段を下りて凛恋に近付こうとする。しかし、その前に老年男性がそれを止めようと声を荒らげた。


「孫に近付くなッ!」

「…………初めまして、私は多野凡人と言います」


 俺は老年男性の顔から視線を逸らさず、凛恋の腕を掴んで後ろに引っ張り、お母さんの側に押す。


「お前のような人間に名乗る名などない。この場から消えろ」

「凛恋のお母さんのお父さん、凛恋のお爺さんですね?」

「聞こえなかったのか? 消えろ」

「私は凛恋と凛恋のお父さんお母さんからも認めてもらって、凛恋と交際させてもらっています。だから、凛恋のお爺さんが誤解されているようなことはありません」


 凛恋は良い人だし、その凛恋のお母さんももちろん良い人だ。だからきっと、お爺さんもきちんと話せば分かってくれるはず。きっと、何か誤解をしているだけだ。


「お前のことはよく知っている。探偵に調べさせたからな」


 凛恋のお爺さんがそう言うと、後ろに控えている中年男性の一人がビジネスバッグから書類ケースを取り出し、書類ケースから数枚の書類を抜き取った。そして、それを老年男性が受け取り、書類を見てフンッと鼻を鳴らして眉をひそめる。


「両親に捨てられ母方の祖父母に育てられている。母親は長い間音信不通だったが、昨年詐欺罪で逮捕起訴され懲役四年の実刑判決を受けて服役中。父親は認知されていないため不明。母親には性風俗で働いていた過去もある。犯罪者の上に売女(ばいた)の子供が石上家の人間と交際? 笑わせるな」


 手に持っていた書類を放り投げる。俺の足元に一枚の書類が落ちてきて、俺はそれを拾い上げた。

 拾い上げた書類には爺ちゃんや婆ちゃんのことも書いてある。

 それに、田丸先輩のことも書かれていた。


「お前の家にはお前に似合いの女が居るだろう」

「田丸先輩はそういう相手ではありません」

「犯罪者で売女の息子の言葉など信用出来るか。どうせ、そのうち親無し女が親になるだろうな」

「石上さん……お久しぶりです」

「私は娘を籠絡した間男には興味がない」


 お父さんが下りてきて、凛恋のお爺さんに挨拶をする。しかし、返された言葉は挨拶と呼べるものではなかった。


「裕子は私が選んだ男と結婚するはずだった。それをお前が台無しにした」

「私は貴方の決めた結婚はきっぱり断ったはずです。それに、私は貴方の所有物じゃありません」


 お母さんが会話に割って入る。凛恋のお爺さんは、視線をお母さんに向けて鼻で笑った。


「裕子、お前が大学まで行った学費生活費は誰の金だ?」

「それは……」

「私の金だろう。私の金で育てた娘をどうしようと私の勝手だ。それにお前は石上家の娘だ。家のために生きる義務がある」


 ロンドンで、お母さんの実家は良い家だと聞いた。

 もしその良い家というのが、旧家という意味なら、お爺さんの異常な考え方が理解出来る。


 旧い家と書く旧家には、公家の家格の一つとしてのキュウケと、古くから何かの商売を続けて来た家系のキュウカという読み方がある。

 お母さんの実家はそれで言うところのキュウカなのだ。


 旧家は伝統や仕来りを重視する考え方の人が多いらしい。もちろん、そうではない旧家の人達も居るのだろうが、凛恋のお爺さんは伝統や仕来りを重視する考え方の人のようだ。だが、それが分かっても、分からないことがある。


「もう一〇何年も顔を合わせるどころか連絡もしていなかったのに今更なんですか」


 俺が疑問に思っていたことを、お母さんが尋ねてくれた。

 凛恋のお爺さんが旧家の人だとしても、一〇年以上も連絡を取っていない娘家族の八戸家の前に、何故今になって現れたのか。

 そして、孫娘である凛恋と付き合っている俺と凛恋を引き離そうとしている。


「凛恋……優愛ちゃんの側に居てあげてくれ」

「かず、と?」

「お父さんとお母さんはここを動けないだろ? それにお姉ちゃんの凛恋が側に居る方が安心する」


 俺は後ろに居る凛恋に近付き、階段の上へ押し上げる。そして、凛恋が上に上がったのを確認すると、俺は凛恋のお爺さん……いや、石上さんに視線を向けた。


「家督に何か問題が起きたんですね」


 俺の言葉を聞いて、中年男性二人は動揺した顔をする。しかし、石上さんは動揺した顔は見せない。

 それどころか、余裕に溢れた笑みを浮かべる。


「流石、詐欺師の息子だな。頭の回転は速いようだ」


 俺を嘲って言う石上さんは、土間を杖で一度軽く叩く。


「長女の日菜子(ひなこ)には子供が出来ないそうだ。それに、私も新しく子供を作る精力もない」


 石上家にはおそらく長女の日菜子さんという人と、凛恋のお母さんしか姉妹が居ないのだ。だから、長女の日菜子さんに婿養子を取らせた。

 それで日菜子さんの子供に石上家を継がせるつもりだったのだろう。しかし、日菜子さんは何かしらの理由で子供が出来なかった。


 長女なのだから、日菜子さんは当然凛恋のお母さんよりも年上。

 いつ日菜子さんが結婚したかは分からないが、今はそれなりの年齢になっているだろう。


「子供が出来なかったから、血縁者の凛恋ですか」

「凛恋の後は優愛も婿を取らせる」

「…………優愛ちゃんまで」


 石上さんの冷たい言葉に拳を握り締めて必死に怒りを抑える。

 伝統や仕来りを重視する旧家は血縁も重視する。

 石上家の家系を代々繋いでいくために、石上家の血が入っている凛恋と優愛ちゃんに婿を取らせる気なのだ。


「どちらかには子供が出来るだろう。凛恋に出来れば凛恋の息子に、優愛に出来れば優愛の息子に継がせる。もう相手も決まっている。凛恋は物流会社の社長息子だ。次男ではあるが、婿に長男を貰うわけにも行くまい。優愛の相手はあの旺峰(おうほう)大学の大学院生だ」


 俺が犯罪者だと警察に相談したのは、俺と凛恋を別れさせるため。そして、それは子供が出来ず持ち上がった石上家の家督問題を解決するため。

 全て、何もかも……自分のことしか、家のことしか考えていない。

 凛恋と優愛ちゃんの気持ちなんて、一ミリも気にする素振りもない。


「凛恋と優愛ちゃんの気持ちは考えないんですかっ!」


 踏み込んではいけない。でも、堪え切れなかった。でも、よく似た顔で笑う凛恋と優愛ちゃんが悲しむ姿が頭に浮かんで焼き付いた。その瞬間、もうダメだった。


「赤の他人が石上家の問題に口出しするな」

「じゃあ、血の繋がった凛恋や優愛ちゃんの話は聞いてあげてください! 二人がそんなことを望まないことくらい――」

「望む望まないの問題ではない。親の不始末の責任を子供に取らせるだけだ」

「ふざ――」「石上吾郎(いしがみごろう)さん、貴方を訴えます」


 後ろからお母さんが俺の隣に踏み出し、芯の通った凛とした声でそう言う。

 俺は、その言葉に驚いた。そして初めて、石上さんの表情が驚愕に変わった。


「裕子……実の父親を訴える気か」

「私は、私の大切な娘達を道具のように扱う父を持った覚えはありません」


 その言葉に、今度は憤怒の表情を浮かべる石上さんが怒鳴り声を上げる。


「この親不孝者が! せっかく家に戻してやる機会を与えてやったというのに! その温情を無にする気か!」

「石上のことなんて私には関係ありません。お引き取りください。石上さん」


 お母さんの言葉に石上さんは燃える炎のように顔を真っ赤にして杖を振り上げた。


「キャッ!」「裕子ッ!」「危ないッ!」


 一瞬の出来事だった。

 悲鳴を上げるお母さん、お母さんの腕を後ろに引っ張るお父さん。

 その姿がスローモーションで動いて、俺はその光景を見ながら反射的に体を動かしていた。


 そして、視界が砕けた。

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