【七八《思い出の保存先》】:一
【思い出の保存先】
目を開いた瞬間、俺はこの状態なら人生が終わっても良いと思った。
凛恋が俺の体に寄り添い目の前で寝ている。これ以上の目覚めた瞬間で最高の景色はあるだろうか。いや、ない。
まだ日は昇っていないのか、外は暗い。ふと視線を枕元にある時計に向けると、まだ五時前だった。
「くっそ……飛行機の中で寝とけば良かった……」
せっかくの機会だったのに、俺はすぐに眠ってしまった。それは間違いなく、飛行機の中で寝ていなかったせいだ。
「こんなに可愛い彼女が居るのに……しかも可愛い下着まで着てくれたのに……」
思わず呟き、そして自分の不甲斐なさに凹む。眠気くらい我慢しろよ俺。
昨日の夜はめちゃくちゃ幸せな夜だった。その夜を眠気に負けてふいにしたのは正直悔やまれる。しかし、凛恋の姿を見ると、すぐに幸せで後悔が塗り潰される。
「はぁ……エッチしたい」
だが、後悔は塗り潰せても欲は高まる。抑えたいと思うのにままならないのが男の性というものだ。
「良いよ」
「…………」
「エッチする?」
「…………凛恋、いつから起きてた?」
「寝とけば良かったって凡人が言ったところから」
目を瞑ったままの凛恋が、口だけを動かしてそう言う。寝た真似をした凛恋に独り言を聞かれるパターンはままある。
そして俺は大抵、凛恋が喋り出すまで聞かれていることを気付かない。
「力尽きて寝てる凡人、可愛かったよ」
目を開いた凛恋が微笑む。
「ずっと私の手を握ってるの。だから寝てる間にいっぱいチューしちゃった」
「うわぁ……気付かなかったのが悔しい……」
彼女にキスをしてもらったのに、一回も気付かないなんて最悪だ……。
「まだ時間あるし……する?」
俺は凛恋の挑発するような笑顔に、寝起き早々、理性をぶっ飛ばされた。
ホテルの一回にあるレストランで朝食を食べる。
イングリッシュマフィンというパンと、ソーセージと目玉焼きを食べながら凛恋の横顔を見る。目が合った凛恋は真っ赤な顔をして俺を見た。
「お姉ちゃんと凡人さんが遅れるって珍しいね」
「まあ、時差ボケもあっただろうし、一〇分程度だから何も問題ない」
俺と凛恋はちゃんと起きていた。ただ色々とその……物事の切りが悪くてすぐに身支度を始められなかったのだ。
「すみません。次は気を付けます」
「いや遅れても気にしなくていい。学校の行事でもないんだから」
「でも、節度を守ってね。凡人くんも凛恋も」
「分かりました」「はい」
凛恋のお母さんがニッコリと言い、俺と凛恋は素直に短く答える。
お母さんの言った『節度』が遅れてもいいけど、度を超した大遅刻はするな、という意味なのか。休みだからと言って羽目を外し過ぎるな、という意味なのか。……いや、この場合はどちらもだろう。
「イングリッシュマフィン美味しい!」
「ホント、ロンドンの朝ごはんっておしゃれね」
イングリッシュマフィンにジャムを塗って食べる凛恋は、美味しそうに顔を綻ばせる。
外はサクッとなかはフワッと、そんな食感のイングリッシュマフィンは単体でも十分美味しい。でも、ソーセージや目玉焼きと言った塩辛い食べ物にも合うし、凛恋のようにジャムを付けても美味しい。万能なパンだ。
「今日は凡人くんご要望のビッグベンに行こう。それと、凛恋と優愛がご要望のロンドン・アイも行こう」
「ロンドン・アイ?」
俺は凛恋のお父さんの言葉に首を傾げる。俺はロンドンの情報を来る前に入れて来なかったから、知らない単語が出てくると全く分からない。
ロンドン・アイと言われれば、ロンドンの目と考えるしかない。でも、ロンドンの目と考えても全くピンと来ない。
「パパ、凡人には言わないでね」
「分かった分かった」
凛恋のお父さんはニコニコ笑い、お母さんと優愛ちゃんはクスクス笑う。
どうやら、ロンドン・アイが何か分からないのは俺だけらしい。
「なあ凛恋」
「秘密」
「り――」
「だーめっ!」
凛恋は全く教えてくれる気配がない。凛恋のことだから悪意のある意地悪ではない。
凛恋はニコニコしながら俺の方を見て、それからクシャッと笑ってイングリッシュマフィンにかじり付いた。
朝食を終え、一旦部屋に戻った俺はベッドに寝転ぼうとして凛恋に腕を掴まれた。
「こら、ご飯食べてすぐに横になったらダメよ」
「分かった」
こっちではスマートフォンも使えないし、忘れて困るものはない。
一応、乗り物に乗れるだけのイギリスポンドはあるが、これも凛恋のお父さんが出してくれたものだ。
「凡人、意地悪してるんじゃないからね」
「ん?」
「ロンドン・アイのことを秘密にしてるの」
「分かってるよ。俺をビックリさせてくれるんだろ? 凛恋が悪意のあることを俺にするわけな――」
横から凛恋が飛び付いて来て、ベッドの上でバランスを崩しそうになる。
「決めた!」
「ん?」
「今日は絶対に凡人から手は離さない! 寝るまでずっと」
ニコニコ笑いながらそう宣言する。しかし、俺はガッチリと俺の手を握った凛恋をたしなめる。
「飯を食べる時はどうするんだ?」
「二人で協力すれば食べさせ合えるし!」
「行儀が悪いだろうが。それにトイレはどうするつもりだ」
「あっ……」
俺に指摘された凛恋は頬を赤くして悩む。そして、絞り出すような声で答えた。
「ドアの隙間から繋げ――」
「却下だ。それに宣言しなくてもいつも自然に繋いでるだろ」
「そーだけどさー。繋いでることを宣言したくなったっていうか」
「ありがとう凛恋。でも、お母さんにも言われただろ? 節度を守れって」
「それは遅れたことでしょ? 凡人がもう一回ってねだったせいで」
「そ、それもあるけど、場をわきまえろってことだよ」
凛恋の不意打ちに動揺してしまうと、目の前で凛恋がニヤーっと笑いながら、俺の頬を指で突く。
「もー、純情振っちゃってー」
「笑うな、突くな、からかうな」
一頻り俺をもて遊んだ凛恋は満足したのか、パッと俺から離れて身支度を始める。
俺は、凛恋の準備が終わるまで窓際に立って窓の外を眺める。
旅費も何もかもお世話になりっぱなしで、買い物や食事の会話も全てお父さんのお世話になっている。
俺はただ付いて来ているだけでしかない。せっかく一緒に連れて来てもらったのに、俺はまだ何も連れて来た意味を示せていない。何の役にも立ってない。
「凛恋」
「んー?」
「ごめんな。何にも役に立ててなくて」
「……まーたいつもの? そういうの気にするところが凡人の良いところだけど、悲しい顔してる凡人は見たくない」
凛恋が窓際に近寄って来て俺の頭を撫でる。
「凡人が居るだけでいいの! 凡人が一緒に居ることに意味があるんだから。私はそれ以上のことなんて何もいらない。凡人が居るだけで、私はチョー幸せ」
「でも、旅費もこっちに来てからのことも全部お父さんに任せっきりで……」
「息子はパパに甘えて良いのよ。まあ、凡人にはすぐには無理だろうけど」
クスクス笑う凛恋は、腕を組んで考えて指を立てた。
「次に暗い顔をしたら、ペケ一〇ずつ追加ね」
「……罪が重いな」
「そーよ。凡人が楽しそうじゃないとさ……私も楽しくないじゃん」
正面から俺の腰に手を回して抱き付く凛恋が唇を尖らせる。それを見て、凛恋に嫌な思いをさせてしまったと気付いた。俺が変なことを考えたせいだ。
「ペケ一〇」
「えっ!?」
「暗い顔したからよ。でも、私のせいだからペケ、マイナス一〇ね。凡人に変な気を遣わせちゃった。ごめん」
「凛恋……」
「私は凡人と楽しい思い出が出来れば良いからさ」
「分かった」
「そろそろ行かないと」
「そうだな。出るか」
部屋にある時計がロビーへの集合時間に迫っている。
凛恋と手を繋いで部屋を出て戸締まりを確認してエレベーターに乗る。
エレベーターで一階まで着くと、丁度隣のエレベーターから優愛ちゃんが下りてきた。
「相変わらずラブラブだねー、お姉ちゃんと凡人さんは」
「羨ましいでしょ」
「ううん、全然」
「何をぉーっ!」
優愛ちゃんとじゃれ合う凛恋を引っ張ってロビーに進むと、ソファーに座るお父さんとお母さんの姿が見えた。
「お待たせしました」
「いや、時間前だから大丈夫だ。そうだ、これを配っておかないと」
そう言ってお父さんがバッグの中を漁って三枚の紙切れを取り出した。
「これは」
「ロンドン・トラベルカード。いわゆる乗り物の乗り放題券。市内全ての乗り物がそれさえあれば一週間乗り放題。インターネットじゃないと買えなかったから、買っておいたんだ」
「すみません。ありがとうございます」
「毎回乗る度に払うより安いからね。さて、バスの時間があるから行こう」
お父さんの後をついて行くと、凛恋が両手を俺の腕に絡めて寄り添う。そして、俺と視線を合わせて嬉しそうにはにかんだ。
ホテルの玄関を出て少し歩いた後、視線の先にある大きなバスが見える。クリーム色のボディーに茶色のおしゃれな英字でバスの名前が書かれている。
「オープン、トップ、バス?」
「観光用の二階建てバスなんだよ。こういうのは――」
「私、二階に行く!」
真っ先に優愛ちゃんがバスに走り出して行く。それを見ながらお父さんが嬉しそうに微笑んだ。
「こういうのは優愛が好きだからね」
「流石、お父さんですね」
「もう、優愛の父親歴も長いからね」
ニッと笑いながらバスに近付いていくと、チケットを見せてバスに乗り込んだ優愛ちゃんが二階に上るのが見えた。
バスの外観もおしゃれだし、何より二階の座席には屋根がない。だから、ロンドンの街並みが良く見えて観光にピッタリだ。
「すごー!」
凛恋と一緒に二階に上ると、綺麗な青空を見上げ周囲をグルリと見渡した凛恋がそう声を漏らした。
「めちゃくちゃ景色良いなー」
「うん! 周りに人も居ないし、それにバスの二階だと高いから見晴らしが良いね!」
凛恋が手を引っ張って二人掛けの座席に座ると、ギュッと腕を抱き締めてもたれ掛かる。
「私……今、凡人とロンドンをデート出来てる。凄いっ! チョー凄過ぎる!」
「まだデートは始まったばかりだけどな」
「嬉し過ぎて楽し過ぎて心臓がバクバクしてる! どうしよう、心臓が弾けそう!」
凛恋が嬉しそうにしている。そして、俺も嬉しいに決まっていた。
日本の高二で、彼女とイギリス旅行に行ってロンドン観光が出来る男はどれだけ居るだろうか? それに隣に居る彼女が世界一可愛い凛恋なのは確実に俺だけだ。
「凡人、顔ニヤけてるよ」
「凛恋だってニヤけてるだろ」
「じゃあ、一緒ね」
「そうだな。一緒だ」
ニヤける顔を向け合って、同時にはにかむ。
俺と凛恋がはにかんでいると、ゆっくりとバスが動き始める。昨日は窓越しにしか見えなかった流れる景色が、今は何にも遮られることなく直接目に焼き付いてくる。
歩道を歩く人達を尻目に、スイスイとバスは道路を走っていく。
「やっぱり、国が違うと街の雰囲気とか全然違うわよね」
「そうだな。俺達の住んでるところはもっと機能的だけど、ロンドンの街は芸術的かな」
「芸術的かー、確かに見えてる風景全部が絵になるし、建物も彫刻品みたいに綺麗だし。なんか、ロンドンの空気は違う気がする」
クスクスと笑いながら凛恋がそんなことを言う。
大通りを進んでいくと、視線の先にテレビで見慣れた光景が現実に見えてくる。
西洋ファンタジーで、王様やお姫様が住んでいる宮殿として出てきそうな建物。外観が黄色くくすんでいるが、そのくすみ方が建物の歴史を感じさせて味がある。
ビッグベンはウェストミンスター宮殿に併設された時計塔の通称だ。つまり、ここは本当に王様やお姫様が住んでいた場所なのだ。今はイギリス議会が議事堂として使っている。
「この橋からの眺め、テレビでよく見るよね」
バスはテムズ川に架かるウェストミンスター橋を渡る。そこから見る眺めは、凛恋の言う通りテレビで見慣れた風景だ。でも、実際に見るとその迫力は桁違いだった。小さな画面では分からないスケールのデカさがある。
バスは橋を渡って停車すると、立ち上がった凛恋のお父さんに続いてバスを降りる。
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