【七一《誓い》】:二

 ベッドに寝転び、俺はスマートフォンの向こう側の声を待った。


『それで? 凛恋さんのお父さんとお母さんはなんて?』

「これはプロポーズの予約だから、大学卒業して就職が決まったらもう一度来なさいって言われた」

『それって認めてくれたってことだろ。おめでとう』

「ああ、うん……ありがとう」


 俺は素直に祝福してくれる栄次にありがたいとは思うものの、全く真剣に考えてくれていないのかと思って不安になる。

 凛恋の両親に凛恋との結婚を認めてほしいと頼んだ件について話したのだが、全く栄次は驚いた様子がない。


「あんまり驚かないんだな」

『そりゃ、さっき希に聞いたし』

「…………情報、早いな」

『希、凛恋さんのことを心配してて、凛恋さんから電話が掛かって来たら、カズと結婚しますって言われて気を失いかけたって』

「うん、まあ……それが普通の反応だ。この後電話して謝っておく」

『それにしてもカズが結婚か~』

「予約だぞ」

『でも、予約だけにするつもりはないんだろ?』

「もちろん。俺は凛恋を一生幸せにする」

『俺も凛恋さんを幸せに出来るのはカズしか居ないと思うよ。それで、凛恋さんは?』

「凛恋は優愛ちゃんともう寝てるよ。色々あって疲れただろうからな」


 俺はスマートフォンを持ちながらドアを見詰める。

 優愛ちゃんが「お姉ちゃんと一緒に寝る!」と言って凛恋に甘えていて、今は凛恋は優愛ちゃんと夢の中だ。でも、凛恋も優愛ちゃんが一緒に寝てくれて安心しているだろう。


『ニュースで取り上げられてたぞ。結構大きく』

「……そうか」

『でも大半は加害者の教師に対する批判ばかりで凛恋さんの名前は出なかった』

「栄次」

『なんだ?』

「俺は一生掛けて凛恋を幸せにする。今回のことがあったからじゃなくて、俺は凛恋に人生を変えてもらったから――」

『そうか。分かってるよ。カズが中途半端な気持ちで結婚なんて言わないことくらい』


 栄次はそう言うと、明るく声を出した。


『希に電話するんだろ?』

「ああ、じゃあまた」

『またな』


 栄次が電話を切って、俺はすぐに希さんに電話する。すると、ほぼ待たずに電話が繋がった。


「希さ――」

『凡人くん! 結婚おめでとう!』

「希さん、まだしてないから……」


 電話の向こう側へそう話すと、クスクスという希さんの笑い声が聞こえた。


『ごめんね、ちょっとからかいたくなって』

「酷いな」

『でも、凛恋が凄く嬉しそうに話してたよ。最初聞いた時は本当にビックリしたけど』

「ごめん」

『ううん。……凛恋の明るい声が聞こえたから……良かった』


 希さんは電話口で鼻をすすり、声を震わせる。


『凛恋が池水に乱暴されたって聞いた時、頭が真っ白になったの。でも……実際は凡人くんが池水が凛恋に乱暴する前に止めてくれたって聞いて……やっぱり凡人くんだって思った』


 希さんの安心した声を聞き、俺もホッと息を吐く。そして、希さんに電話した本題を切り出す。


「希さん、希さんに頼みがあるんだ」

『頼み?』

「ああ、希さんじゃないと出来ないことなんだ」




 希さんとの電話を終えて寝ようと思っても、目が冴えて眠れなかった。

 池水は捕まり、もう凛恋を怖がらせる存在は無くなった。でもどうしても頭の中に焼き付いて離れない光景がある。


 下着を下げられ押し倒された凛恋と、その前でズボンを下ろして馬乗りになろうとしていた池水。

 その光景が目にも脳裏にも焼き付いて離れなかった。


 寸前だった。

 もう少し遅かったら、凛恋が一生抱え込まなくちゃいけない重荷が、心の傷が増えるところだった。

 また、凛恋を、悲しませて怖がらせて、辛い思いをさせるところだった。

 でも……結果は未遂になったとしても、それを池水がやろうとした事実は消えない。


 凛恋はその恐怖を受けた。それは、未遂だったから良かったなんて言える話じゃない。

 未遂だろうが既遂だろうが、凛恋の受けた様々な負のもの達は消えない。


 あの時、俺が放課後寝なければ、凛恋と一緒に学校へ行けた。いや、そんな呼び出し無視させられた。俺が寝なければ、凛恋が傷付くことはなかった。


 こんなことを考えても凛恋が喜ばないことくらい分かる。むしろ、俺がこういうことを考えている方が凛恋を悲しませることくらい分かる。

 でも……あの時ああすれば良かったとか、こうすれば良かったとか、そんな後悔がどうしても頭に浮かぶ。


 後悔したって仕方ない。

 後悔よりも、これからのことを、凛恋のことを考えなきゃいけない。

 そんな当然のことは分かっている。

 でも…………俺の頭はそんな合理的に働かなかった。


「クソッ……クソッ……」


 ベッドを拳を作って殴る。

 マットレスと布団の弾力に跳ね返される拳は、全く痛くなかった。でも何も痛くないことが、より心を締め付けて痛め付ける。


 池水に呼び出されて怖かったはずだ。

 一人で外を歩いて何人もの男とすれ違って怖かったはずだ。

 生徒指導室で池水に押し倒されて怖かったはずだ。


 どれだけ怖かったか、心細かったか……それを考えると、堪らなかった。


 今回のことを、不幸中の幸いなんて喜べなかった。


「凡人?」

「凛恋……寝たんじゃ……」

「優愛は寝た。でも、私はちょっと眠れなくて」


 ドアを開けて入って来た凛恋は、今日は長袖長ズボンのルームウェアを着ている。

 昨日までは半袖短パンだった。


「凡人、隣……いい?」

「彼女が彼氏に遠慮するなよ」

「ありがと」


 隣に座った凛恋は俺の方を見てニッコリ笑った。


「本当にビックリした。お風呂から上がってダイニングのドア開けたら、凡人がパパとママに、私と結婚させてって言ってるんだもん。頭真っ白よ」

「ごめん、凛恋に何も言わずに勝手に……」

「でも、私に言う時はちゃんと本番の時に言ってね。それまでは聞かないようにするから」


 クスッと笑って両耳を両手で押さえた凛恋は、耳から手を離してベッドに手をつき体重を後ろに傾ける。


「希に電話して、凡人と結婚するって言ったら希がさ、しばらく何も答えなくて、それで大学卒業したらって言ったら怒られちゃった」

「そりゃそうだろ」


 ペロッと舌を出す凛恋にそう答えると、凛恋はクスクス笑った後に俺の腕を抱き締める。


「予約のキャンセルは出来ないからね」

「絶対にしない。凛恋だってキャンセル出来ないからな」

「私も絶対にしないし!」


 そう言った凛恋は、もぞもぞとベッドの中に入り込み、自分の前にあるスペースをポンポンと叩く。


「あなた、一緒に寝ましょ?」

「凛恋もそうやってからかうのか」

「パパにもママにも優愛にもからかわれてたね。でも、みんなちゃんと凡人が本気だって認めてるから。何より私が一番、凡人が本気で言ってくれたって分かってる」


 俺は凛恋の正面に横になりながら、凛恋の手を握る。


「ありがとう凛恋。まずは大学受験だな。絶対に頑張るから」

「うん! 私も頑張る!」


 凛恋はズイっと俺に近付き、俺の腰に手を回す。そして、俺の顔を真っ直ぐ見詰めた。


「凡人に今日あったこと、全部話したい」

「凛恋……もう今日のことは忘れよう」

「うん……忘れるために、凡人に聞いてほしい」

「…………分かった」


 忘れるために俺に聞いてほしい。

 凛恋がそう真っ直ぐに見詰めて、真剣に俺へ求めている。それなら、俺も凛恋のために聞くしかない。


「凡人が寝た後に、しばらく凡人の寝顔を見てたの。そしたらそのまま寝ちゃって、それで起きたら凡人はまだ寝てた」


 凛恋は柔らかい表情で、自分が見た景色を俺に伝える。


「それで、電話が掛かってきたの。電話の相手は池水だった。池水に、凡人がうちに住んでるのは知ってる。一人で生徒指導室に来いって言われた。来ないと、不純異性交遊で凡人を退学にするって言われて……」

「どうして一人で」

「凡人を守りたかった。やっと、やっと刻季から転校して安心して勉強出来る環境が出来たのに、それなのに凡人の将来を壊すようなことなんてしたくなかったの」


 凛恋は俺のシャツの胸元を握り、首を長くして横に振って言う。

 やっぱり、凛恋は俺のために恐怖を押し曲げて学校に行ったんだ。


「学校に行って、生徒指導室に入るのが怖かった。池水に怒鳴られることを想像したら、足がすくんだ。でも、私が謝れば凡人が退学にならなくて済むって思って中に入ったの。そしたら……池水に押し倒された」

「凛恋っ……もういいから。言わなくていい」


 耐えきれずに、俺は凛恋を止める。でも凛恋は横に首を振った。


「ダメ……お願い……凡人っ……一緒に、抱え込んで……」


 凛恋が顔を歪めて涙を流し、握った俺のシャツにしがみつく。


「怖くて悲鳴も上げられなくて、目の前で笑ってる池水の顔が見えて、もっと怖くなった。俺の言うことを聞け、俺の女になって毎日俺とエッチしろ、そしたら多野は退学にならない。そう言いながら、池水は私に手を伸ばしてきたの……」


 凛恋は自分の体を抱いてガタガタと体を震わせる。


「髪を撫でられて、ブラウスの上から胸を揉まれて……太腿を触られながら手がスカートの中に入って来て……パンツを下ろされて」

「凛恋っ、言わなくていいって言ってるだろ! もう言うな! 思い出すなよっ!」


 俺は凛恋の両肩を掴んで揺すりながら、必死に凛恋の言葉を止めようとする。でも、凛恋は言葉を止めなかった。


「パンツを下ろしたら、池水がまた笑ったの。それで、池水がベルトを外してズボンを下ろして……私に言ったの。触れっ――」


 凛恋の言葉を止めるために俺は凛恋の唇を塞いで、俺は凛恋の髪を撫でた。

 指に凛恋の柔らかい髪の一本一本を絡めるように撫でながら、俺は凛恋のルームウェアに手を伸ばし、両手でボタンを外す。


 ルームウェアのボタンを外し終えると、すぐに前を開かせて、凛恋の背中に手を回す。そして、白く大人しめのブラのホックを外し、直接柔らかい凛恋の胸に触れる。

 でもそれで留まらず、俺は凛恋のズボンを引き下ろし、ブラとお揃いのパンツを脱がした。そして、凛恋の腰を抱き寄せて太腿に触れる。


「凛恋、凛恋も触って」


 俺は、凛恋の手を掴んで自分の胸に当てる。

 凛恋が池水にされたことを、俺が全部消し去る。

 池水がただ撫でることしか出来なかった髪に、俺は指を絡めて感触を確かめた。

 池水がブラウスの上からしか触れられなかった胸に、俺は直接触れて直に温かさを感じた。

 池水が膝下までしか下げられなかったパンツを、俺は全部脱がせた。池水がパンツを脱がすついでにしか触れられなかった太腿も、俺は太腿に触れるために触れて感触も温度もしっかり感じた。

 そして、凛恋に自分の体を触れさせることを強制でしか出来なかった池水とは違って、俺は凛恋に頼んで、凛恋は強制されることなく触ってくれた。


「凡人……」

「池水のことなんて忘れさせる。全部何もかも、俺が凛恋の中から消し去る」


 そんなことが出来る保証なんてなかった。でも、やらなきゃいけなかった。


 凛恋は一緒に抱え込んでほしいと言った。でも、俺は凛恋にそんな辛い思いを抱え込ませたくなかった。

 抱え込めるなら俺だけにしたかった。でも、それは無理だから、消し去るしかなかった。


 凛恋の体に触れて、凛恋の体の隅々に触れて、凛恋の体に池水の感触が絶対に残らないように、俺の感触しか残らないように強く触れた。


 そして、池水が達せなかった凛恋の体の、心の一番深いところまで俺は手を伸ばす。でもそれは手を伸ばす必要はなかった。凛恋から俺に近付いてくれた。


 池水ではどうしたって到達出来ない高みへ、俺と凛恋は一緒に上る。

 俺と凛恋の二人でしか行けないその場所に気持ちが到達した時、凛恋の細い声が聞こえた。


「凡人……ありがとう」




 目を覚まして、目の前に凛恋が居て、俺は思わず凛恋を抱き締めた。

 すると、寝ていた凛恋はビクッと体を跳ね上げさせた。


「ビッ、ビックリした~」

「ごめん! つい凛恋の顔を見たら抱き締めたくなって」

「抱き締めてくれるのは良いけど、先に起こしてよ」

「本当にごめん……」


 凛恋に謝ると、凛恋は俺の体を抱き寄せて、耳元で「あ~あっ」と声を出した。


「寝ちゃうなんて勿体無いことした……」

「勿体無いってどういうことだよ」

「昨日、凡人とエッチしてる時の私、絶対に世界で一番幸せだった」


 凛恋は嬉しそうに笑って、俺に体を寄せる。

 その凛恋の体に手を回す俺は、その凛恋の言葉を否定した。


「昨日、世界で一番幸せだったのは俺だから凛恋は二番目だ」

「はあ? 何言ってんのよ、私に決まってるじゃん! こんな格好良い彼氏に、可愛い綺麗大好きって言われながら抱き締められてた私が世界一幸せだったに決まってるし!」

「いいや。俺だな。こんな可愛くて綺麗で魅力的な彼女に、格好良い大好き、私は全部凡人のだから好きにしてって抱き締められてた俺に決まってるだろう」

「そういえば、本当に好き勝手にやってたわね。声を抑えるの大変だったんだから。優愛が起きたらどうするつもりだったのよ」

「凛恋が好きにしてって言ったんだろ。あんなことを凛恋に言われて理性保持出来る奴が居るわけないだろ」

「…………あのさ凡人」

「…………なんだよ凛恋」

「チョー恥ずかしくない? 私達の会話」

「凛恋が始めたんだろ!」


 凛恋が真っ赤な顔をして笑うのを見て、俺はホッと安心した。凛恋の笑顔は自然だった。だから、きっととりあえずは消しされたんだと思う。


「今、二時か~」


 凛恋は俺のスマートフォンで時間を確認してベッドの上に体をダラリと横たえる。そしてベッドの上でパタパタと足を動かす。


「凡人、ママが起きるまでまだ時間あるね」

「そうだな」

「だから……ね?」


 そう言われて凛恋に視線を向けると、凛恋は俺に優しくキスをした。

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