【六二《悪い意味で大人》】:一

【悪い意味で大人】


 目を開けて、すぐに目を閉じたくなった。目の前に、ベッドで横になっている凛恋の寝顔が見えたからだ。

 凛恋の手は、ずっと俺の手を握っている。


 あの日から、一度クズ人間に堕ちた日から、俺は毎日凛恋の求めにズルズルと応え続けてきた。

 俺と凛恋が何をしているかを、知っているのか知らないのかは分からない。でも、凛恋のお母さんからは、凛恋がちゃんと睡眠を取れるようになったと感謝された。

 でも、感謝されても少しも嬉しくなかった。


 凛恋に握られている手を、振り解きたかった。

 凛恋の温かさを感じるに連れて、どんどん心を締め付けられて追い詰められている。

 一度落ちたところから這い上がるのが難しくて、結局その場に止まり続けるしかない。


「……かず、と」


 目を覚ました凛恋が、一滴の涙を流して俺の名前を呼ぶ。


「凛恋? どうした?」

「怖い夢を見て……」

「そうか。でも夢だから大丈夫だ」

「凡人が居なくなる夢だった……」


 その凛恋の言葉にまた心を締め付けられる。


「凛恋……明日からは時々しか来られないから……」


 少しずつ会う機会を減らしてフェードアウトすれば逃げられる。

 そんな卑怯で浅はかな考えが浮かんだ。

 毎日、凛恋とエッチをする度に辛くなって、毎日こうして隣に居るのが苦しくなる。そんな辛さから、苦しさから、俺は逃げようとした。


「えっ……凡人……どうして?」


 目の前から凛恋の悲しそうな声が聞こえる。俺は視線を凛恋の顔に向けられず、布団の柄に向けていた。


「やっぱりダメだ。俺達は付き合ってな――」

「髪の色、金髪の方が好きだった? 」

「凛恋、そうじゃな――」

「最近ちょっとお腹にお肉が付いちゃったかも、今日からダイエットする!」

「そんなことする必要ないだろ」


 凛恋は元々十分に細かった。それでストーカー事件の後から食が細くなり、前よりも細くなっている。

 そんな状態でダイエットなんて死のうとしているようなものだ。


「じゃあ、もっとエッチの時、凡人に喜んでもらえるように頑張る」

「だから……俺達は付き合ってないから、もうこんなことは止め――」


 凛恋から目を背けていた俺は、正面から裸の凛恋に抱き締められ、唇を塞がれる。


「怖い夢を見たって言われても困るよね。ごめんね。でも……何でもするからっ! 凡人がしてほしいこと何でもするッ! だからっ! だから……お願い…………側に、居て……」


 無責任な行動は、どんどん人を苦しめていく。

 俺の無責任な行動が凛恋を苦しめて、俺の無責任な行動が自分自身も苦しめる。そして、やっぱり後戻りが出来ないところに来ていた。


 凛恋は必死に俺の体にしがみつき、俺を離さないようにしている。

 体は震えて声も震えて、凛恋はまるで俺が居なくなると死の淵に落とされるかのように、懸命に俺を引き留めようとする。


 凛恋を傷付けた俺は、凛恋の側に居るべき人間じゃない。

 今、凛恋が俺のことを必要にしていても、この先必ず、また俺は凛恋を傷付ける。

 凛恋に必要なのはそういう人間じゃない。

 凛恋に必要なのは、凛恋に優しくて凛恋を傷付けなくて、そして……凛恋のことを信じてくれる人間。


「お願い……凡人……」


 凛恋は俺の上に覆い被さって、上からギュッと俺を抱き締める。

 凛恋の頬と触れている俺の頬に、凛恋の頬を伝った涙が触れる。頬に触れる凛恋の涙は熱く、でも冷たく寂しく感じた。

 凛恋のその涙は、俺の頬を伝って布団の上に落ちているのに、まるで体の中にその冷たさと寂しさを染み込ませているように感じた。


 凛恋の感じる冷たさも寂しさも、全部俺のせいだ。

 それなのに、凛恋はそれを紛らわすために俺を求める。


「凛恋……そろそろ帰らないと」

「凡人……行かないで……」


 凛恋の体を押し退けて、俺は服を着ながらベッドを這い出る。

 俺は、曖昧な感情で行動して状況を悪くした。だから、もう曖昧な覚悟のない感情で動いてはいけない。

 そんなもの、誰のためにもならない。俺は、心の中でそう言い聞かせて自分を肯定する。俺は間違っていないと。


「凡人ッ! お願いッ! 私っ、凡人が居ないとダメなのッ!」


 後ろから凛恋に抱き締められ、胸の前で凛恋の手が交差する。


「凡人が居ないと……私……」

「凛恋には良い人が絶対見付かるから」


 凛恋の手を解いて、俺は振り返らずに凛恋の部屋を出る。そして、凛恋の声を聞かないように耳を塞いで階段を下りた。


「凡人くん?」

「……お邪魔しました」


 階段を下りてすぐ、凛恋のお母さんと顔を合わせた。でも、俺はすぐに視線を逸らすために頭を下げて玄関に早歩きで向かって凛恋の家を出た。

 凛恋の家を出てすぐ、俺は自分を八つ裂きにしたかった。


「本当に最低だ……」


 必死に俺を頼ってくる凛恋を、俺は見捨てたんだ。

 俺の無責任な行動で苦しんで更に傷付いている凛恋を見ていられなかった。

 そんな理由があっても、結局は俺が凛恋を信じ切れずに、凛恋と別れた時と何も変わっていない。


 間違いを正すために、またやり直すつもりだった。でも、その矢先、状況は取り返しの付かないことになってしまった。

 もう少し早く自分の間違いに気付いていれば、もう少し早く冷静に物事を見られていれば、結果は変わったかも知れない。


 俺は背中をブロック塀に付けて体を預ける。

 今すぐに歩き出す気力はなかった。

 無責任なことを止めようと決意してやったことが、今俺の体を鈍らせている。


「多野くん?」

「……露木、先生」

「大丈夫!? 凄く顔色が悪いけど」


 道を通りがかった露木先生が俺の前に立ち、下から心配そうに俺の顔を覗き上げる。

 俺は、その露木先生の心配そうな顔から顔を背けた。俺は心配してもらえるような人間じゃない。


「先生は……凛恋に会いに行くんですよね。俺はこれで」


 俺はそう言って、歩きの鈍い足を動かし立ち去ろうとする。でも、露木先生に後ろから肩を掴まれ引き止められる。


「多野くん、八戸さんに会って来たんだね」

「はい」

「それでどうしてそんな顔をしてるの?」


 露木先生の質問に、正直に答えられるわけがなかった。

 俺のやったことは最低だ。それに、男の俺から考えても最低なのだ、女性の露木先生からしたら心底胸糞悪いに決まっている。


「何でもないです」

「今日は八戸さんに会うの、取り止めにしようかな」


 露木先生が俺の隣に並び、優しく微笑んだ。


「今から、多野くんの家庭訪問をするから」




 座布団の上に正座する露木先生は、俺の部屋で婆ちゃんが出したお茶を飲んでいた。

 それを俺はテーブルを挟んだ向かい側から見て、視線をテーブルの天板に落とした。


「私には相談出来ないこと?」

「そうです」


 露木先生は、何か確信を持って俺に尋ねた。だから、隠しても意味がない。


「確かに、男の子が年上の女の人に恋愛相談っていうのはし辛いかもね」

「露木先生、とりあえず足を崩して下さい」

「ありがとう」


 上品なブラウスとフレアスカート姿の露木先生は、座布団の上で足を崩して横座りになる。


「そういえば、国際音楽コンクールのガラコンサート、揉めてるらしいよ」

「国際音楽コンクールってステラが金賞を取ったコンクールですよね?」

「そう。その国際音楽コンクールのガラコンサートを神之木さんが出演辞退して揉めてるらしいの」

「辞退?」

「金賞受賞者の出ないガラコンサートは前代未聞だって運営が騒いでるって友達が言ってたの。多野くん、神之木さんが出ない理由を知ってる?」

「いや、俺は全く」


 あのコンクールの日からステラと会っていない。

 それに、そもそもステラの大抵の行動は全く読めない。だから、今回のこともステラから直接理由を聞かない限り分からない。

 まあ、俺が聞いても理解出来ない可能性もあるが。


「多野くんなら何か知ってると思ったんだけどなー」

「ガラコンサートって辞退出来るものなんですね」

「うん、プロの演奏家で、別のコンサートと被るからとかの理由で辞退することはあるよ。ただ、普通、金賞受賞者は辞退しないものだね。コンクールのガラコンサートだと金賞受賞者はメインだからね。大きなコンクールで金賞を貰ってのガラコンサート出演って普通は嬉しいものだし」


 テーブルに置いた湯呑みを持ち上げた露木先生は、小さく息を吐いてまた口を開き始める。


「その話、音大時代の友達で集まった時に話したんだけど、その時に言われたんだよ。真弥は結婚しないの? って」


 そう言った後、露木先生は大きくため息を吐く。


「私の周りはみんな結婚してて、結婚してないのは私だけなの」

「は、はあ……」


 いきなり全く別の話になって困惑する。しかし、その困惑する俺に構わず露木先生は話を続ける。


「音大卒って結構社会に出て苦労するの。そりゃあ、プロの演奏家になれてものすごく評価してもらえる人達は充実してると思うけど、私の周りはそんな天才達じゃないから」

「でも、先生は音楽の先生になってるじゃないですか」

「それは私が早々に自分の実力じゃ上に行けないって諦めて教員免許を取ったから。他の子はそうじゃない子も居るから」


 露木先生はテーブルの上に両腕を置いて視線をテーブルの天板に落とす。


「大学にもよるんだけど、音大を卒業して取れる資格って教員免許か学芸員くらいなの」

「学芸員っていうのは、どういう資格ですか?」

「学芸員は博物館に務めるために必要な国家資格。古い楽譜とかレコードを展示する博物館とか、楽器自体を展示する博物館が主な就職先」

「でも、何か音楽が好きなら楽しい仕事じゃ?」

「うーん、音大も学部があってね。私の友達はみんな、ピアノ専攻学部だったんだけど、学芸員は演奏の技術よりも音楽の文化や歴史の知識の方が必要なの。つまりは、演奏家からしたら少し専門外の資格かな」


 まあ、音楽が好きだから多少の音楽に関する知識は持っているだろう。

 現に露木先生は音楽に関して詳しい。でも、それを仕事としてやっていくには、更に専門的な知識が必要なようだ。


「それに、学芸員は就職先が限られてるしそもそも募集が全然ないから、資格を取れても卒業してすぐに正社員っていうのは無理なの」

「そうなんですか」

「私の周りはみんな資格なんて取ってなくて、それで社会に出た途端に厳しい現実を知るの。音大出身は、社会からしたら全く価値が無いってことを」


 露木先生の話はなんとなくだが理解出来る。


 どんなにピアノが上手くても、看護師免許が無ければ看護師として働けないし、事務職も簿記資格や表計算ソフトを扱う知識が無ければ採用されるのは難しい。

 だから、どんなにすごい音楽大学を卒業出来たとしても、音楽の道に進めなかったら、音楽大学で得た知識を仕事に活かすことは難しい。


「卒業後に就職先が無くて、アルバイトをしながら別の資格を取って就職した子も居るし、アルバイトをずっと続けてた子も居た。そんな周りの子達は結構結婚が早かったの。苦労してる時に、やっぱり頭に浮かんじゃうらしいの。早く結婚しようって」

「なんでそこで結婚なんですか?」


 音大出身の人が苦労するという話は理解出来たが、そこから何故結婚の話になるのかはよく分からない。

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