【六一《人は繰り返す》】:一

【人は繰り返す】


 凛恋は次の日から学校に来るようになった。でも、凛恋は別人のように学校生活が変わった。


 ずっと希さんと一緒に居て、必要最低限の人と、必要最低限の会話しか交わさなくなった。それで、凛恋は男子を避けるようになった。

 その雰囲気を察してか、周りの男子も凛恋へ近付こうとはしていなかった。


 担任の露木先生も凛恋のことを凄く気に掛けてくれていて、昼休みは凛恋と希さんを連れて音楽準備室で一緒に昼食を食べているようだった。


「凡人、どうかしたの?」


 昼休み、自分の席でソーセージパンを手に持ちながら座る俺に、真正面に座る小鳥が首を傾げながら声を掛けてきた。


「えっ?」

「えって、パンの袋を開けてから、全然口を付けてないから」

「あ、ああ……」


 手に持ったパンに視線を向けて、まだ少しも口を付けていないソーセージパンが見えて、俺はただそう声を発することしか出来なかった。


 昨日からずっと、罪悪感に苛まれていた。

 俺がやってしまったことは、求められたからなんて、そんな言い訳が通じるようなことじゃなかった。

 俺は本当に最低のクズ野郎だ。


 付き合っていない女の子とエッチをした。それは、最低最悪の行いだった。

 こうなることは分かっていた。

 あの時、凛恋の求めに応えたら、自分が最低最悪のクズ人間になることくらい。でも、他にどうすれば良いのか、あの時の俺には分からなかった。


 目の前で震えてどんどん傷付いていく凛恋の姿を見て、ああするしか無いと思った。でも結局、凛恋のためにはならなかった。

 自分の罪を軽くするために罪滅ぼしをしようとして、それで罪をただ増やしただけだった。


 でも、凛恋はエッチをした後、しばらく添い寝をしていたら、穏やかな寝顔でぐっすりと寝ていた。

 そして、今日学校に来た凛恋には目の隈は無くなっていた。それだけは、たった一つ良かったことだった。


 昨日、俺が会った時の凛恋は、まともに寝られていなかった様子だった。

 それに、ケーキを食べた凛恋を見た、凛恋のお母さんの反応からは、凛恋が本当に食べ物を食べられていなくて、やっと食べ物を口に出来たことが分かった。

 それも良かったことだったのかもしれない。

 でも、どんなに良かったことが増えても、罪悪感は拭うことは出来なかった。


「やっぱり八戸さんのことが心配?」

「凛恋? なんでだ?」


 平静を装ってそう返す。目の前に居る小鳥は、いつも通り人の居ない教室を見渡し、人が居ないのに顔を近付け、口の横に手を当てひそひそ声で話す。


「ストーカーの話。校長先生は誰がって言わなかったけど、八戸さんが三日間休んでたし、みんなストーカーに遭ったのは八戸さんだって話してるし」


 学校側も個人名は出さなかったが、それも気休めでしかない。

 小鳥の言う通り、凛恋がストーカーの被害に遭っていたことは、もう刻雨生全員の周知の事実になっていた。


「凡人、一年の頃に八戸さんと付き合ってたんでしょ? だから、心配なのは当然だと思う」


 小鳥はそう言うが、俺は凛恋のことを心配なんてしていない。結局、自分の罪悪感のことしか考えてないのだ。

 凛恋を傷付けたのは自分のせいだなんて思っても、結局は自分の中に溜まった後悔を消し去ろうとするために、罪悪感を抱いて自分を責めているだけにしか過ぎない。


「イヤァアアッ!」


 その悲鳴を聞いて、俺は無意識に廊下へ飛び出していた。

 視界の先には廊下にペタンと座り込む凛恋と、凛恋の側にしゃがみ込む希さんの姿が見えた。


「凛恋ッ!」

「凡人っ!」


 凛恋の側に駆け寄った瞬間、凛恋は俺の腕にしがみついて来た。そして、体を小刻みに震わせてもいた。

 何かに怯えるように、唇も震わせている凛恋の肩に手を置きながら、俺は周囲を見渡す。そして、俺の視線は廊下の壁際に立っている男子二名に止まった。

 溝辺さんの彼氏の有馬と、凛恋が好きだった男子の入江だった。


「お前ら、何した」

「いや……俺は八戸に声を掛けただけで……」


 入江は困った表情をしながら両手を振る。

 その入江から視線を希さんに向けると、希さんが小さく頷く。


「入江くんに肩を叩かれて、後ろから声を掛けられた瞬間に、凛恋が悲鳴を上げて座り込んじゃって……」


 希さんも戸惑った様子で凛恋の背中をずっと擦っている。


「多野くん!?」


 凛恋の悲鳴を聞き付けてきた露木先生が焦った様子で駆け寄ってくる。


「露木先生、凛恋を保健室までお願いします」

「分かった。八戸さん、立てる?」


 露木先生が優しく声を掛けながら、凛恋の両肩を持って立たせようとする。しかし、凛恋は俺にしがみついたまま離れようとしない。


「いや……イヤ、イヤッ! もう来ないで! 私に付きまとわないでよッ! 凡人っ、凡人助けてッ!」

「凛恋っ! 落ち着け!」

「イヤ……イヤイヤイヤイヤ! 来ないでッ! 私のことは放っておいてよッ!」


 凛恋は叫びながら必死に俺にしがみつく。

 しがみつく手を緩めることなく、更に強く俺の体を引き寄せて涙を流した。


「多野くんも一緒に来て」

「……はい」


 怯えて、痛いくらいに俺の腕を掴む凛恋を引き剥がすことは出来ない。だから、このまま俺も一緒に行くしかなかった。


「私も一緒に行きます」


 赤城さんも一緒に立ち上がり、凛恋の側に寄り添う。


「ありがとう赤城さん。八戸さんのご両親に連絡するから、二人は八戸さんと保健室に行ってもらえる?」

「はい。凛恋、行こう」


 希さんが凛恋の顔を覗き込みながら手を引き歩き出す。

 廊下に出来た人だかりから離れて、三人でゆっくりと階段を下り始める。でも、凛恋の手はまだ、俺の腕をガッチリ掴んだままだった。




 保健室に行った後、すぐに凛恋のお父さんが凛恋を迎えに来てくれた。しかし、凛恋は俺から掴んだ手を離そうとせず、結局、俺は一緒に凛恋と病院へ行くことになった。

 それで今は、凛恋が抗不安薬を打ってもらい、病院のベッドで眠っている。

 その間、俺は病院内にあったラウンジで凛恋のお父さんと向かい合って座っていた。


「凡人くん、凡人くんにも迷惑を掛けて申し訳ない」

「頭を上げてください! 私は、ただ付いて来ただけなので」


 そう答えると、凛恋のお父さんは首を横に振って視線をテーブルの上に落とす。


「いや……付いて来てもらえるだけでどんなに助かったか……」

「あの、冷たいコーヒーで良いですか?」

「いや……私が――」

「大丈夫です。座って休んでいて下さい」


 凛恋のお父さんはかなり疲れている様子だった。

 俺は凛恋のお父さんを椅子に座らせたまま、近くにあった自販機に向かう。

 そこで缶コーヒーを買って戻ると、凛恋のお父さんはテーブルの上で両手を組み、うな垂れて深くため息を吐いていた。


「どうぞ」

「あ、ああ。ありがとう、凡人くん」


 凛恋のお父さんの前に缶コーヒーを置くと、凛恋のお父さんは缶を開けて一口コーヒーを飲んだ。そして、また大きなため息を吐く。

 俺は凛恋のお父さんの正面に戻り、自分の分の缶コーヒーを開け、一口飲む。


 凛恋のお父さんに「話したいことがある」そう言われてラウンジに来たが、凛恋のお父さんは話し出そうとしない。でも、話し出そうとしないことを俺から聞くわけにもいかない。


「ストーカーの件、凡人くんに怪我をさせてしまって申し訳ない」

「いえ、軽い怪我だったので気にしないで下さい」

「本当にありがとう。凡人くんが居なかったら、今頃凛恋がどうなっていたか分からない。本当にありがとう」


 深々と頭を下げた凛恋のお父さんは、ゆっくりと頭を上げて、またうな垂れた。


「凛恋はストーカーに遭っていた。…………情けない話だが、私がそれに気付いたのは、家にあの男が物を送り付けてきてからだった」

「物を?」

「ああ……あの男は凛恋へのプレゼントと称していたが、そんな楽しい物ではなかった」


 凛恋のお父さんは両手の拳をギリギリと握り締める。


「毎日のように、パソコンで書かれた手紙と一緒に物が入っていた。凛恋を盗撮した写真が何一〇枚何一〇〇枚と同封されていることが多かった」

「…………」


 自分が知らないところで自分の写真が撮影されて、その撮影された写真を送り付けられる。

 そんなことをされたら、常に監視されているということで、安心して外は出歩けない。


「それで警察には?」

「もちろん、警察に通報した。それで警告もしてもらったから安心していた。でも……あの男は諦めずに別の物を送り付けてきた」

「別の物?」

「……男の……汚物が送り付けられてきた」

「それ……凛恋には?」

「もちろん、凛恋には隠して処分した。でも……手紙の投函もエスカレートして、数も警告前より増えてしまった……」

「警察は?」

「もちろん、再三対応してもらえるように言っていた。その矢先だ。凡人くんが巻き込まれた事件が起きたのは……」


 凛恋のお父さんは頭を両手で抱えて唇を噛み締める。


「凛恋は……男性恐怖症だそうだ。今日取り乱したのも、男性恐怖症からくるパニック障害だそうだ」

「男性……恐怖症……」


 言葉だけは聞いたことはあるし、言葉で大体どういう病気か判断も出来る。

 それに、男性恐怖症と聞けば、学校での凛恋の変化や、入江に声を掛けられて取り乱した理由も分かる。


「凛恋はあの男のせいで男を怖がるようになった。凛恋は……私ともまともに話してくれなくなったんだ」


 辛そうな表情で辛そうな声を絞り出した凛恋のお父さんに、俺は何も言えなかった。

 実の娘に怖がられる。それは凄くショックで、凄く辛いと思う。

 もちろん、そういう反応をしてしまう凛恋も同じくらい辛いはずだ。


「でも、凛恋はずっと凡人くん、君のことは怖がっていない。それどころか、周りの人間の中で最も君を信頼している。今の凛恋を支えられるのは凡人くんだけなんだ」


 凛恋のお父さんは、椅子から立ち上がり、硬い床の上に膝を突いて頭を下げた。


「この通りだ! お願いだ凡人くん! 凛恋の、凛恋の側に居てやってくれ! 今の凛恋には凡人くんが必要なんだ! 身勝手な話だというのは分かっている! だが、凛恋は凡人くんが側に居れば安心して過ごせる! 私は……父親として凛恋に何もしてやれない。でも……凛恋には幸せに生きてほしいんだ!」

「八戸さん! 止めてください!」


 八戸さんを無理矢理立たせて椅子に座らせる。


 必死になる気持ちは分からない。それは、俺が自分の娘を持ったことがないからだ。

 自分の娘が、男のプライドを捨てて、自分の娘と同い年の男に頭を下げられる程の存在なのか、俺には想像さえも出来ない。

 でも、そこまでしてもらえる凛恋を、単純に羨ましく思った。


「私は……凛恋さんのことを傷付けました。そういう人間では、八戸さんの期待には応えられません」

「凛恋は凡人くんのことを信頼している。眠るまで凛恋は凡人くんの手を離さなかった」


 そう言った凛恋のお父さんは、両手を膝に置いて小さく息を吐いた。


「凛恋は凡人くんと何があったかは、自分が悪いことをしたとしか話さなかった。それに、男女交際というのは、当然別れることもある。それに凡人くんの気持ちを強制することが出来ないのも分かっている。でも……凛恋を……娘を助けるには、頼むことしか出来ないんだ……」

「八戸さん……」


 どう答えたらいいかも全く分からなかった。

 分かりましたと断言することは出来ない。それはやっぱり、俺が凛恋の信頼を裏切ったからだ。でも、出来ませんとも断言出来なかった。


「すみません! 八戸凛恋さんのお父様ですよね?」

「は、はい! 凛恋に何かあったんですか!?」


 俺が答えを何も出せないでいると、ラウンジに看護師さんが駆け込んで来て、凛恋のお父さんは焦って立ち上がる。


「凡人さんという方をご存知ですか!? 目を覚まされた凛恋さんが、凡人さんという方の名前を叫ばれていて」

「凡人は、私の名前です」


 凛恋のお父さんと目が合い、俺は看護師さんに名乗り出る。すると、看護師さんがすぐに振り返って駆け出した。


「付いて来てください!」


 病院の中は走ってはいけない。そういう考えは浮かばなかった。


 凛恋が寝ていた病室に行くと、部屋の外で白衣を着た若い男性の肩に手を置いて慰める白衣を着た中年男性が居た。


「凡人ッ! 凡人助けてッ!」

「凛恋ッ!」


 病室のドアを開けると、自分の体を抱いて真っ青な顔をした凛恋が視界に入った。


「凡人ッ!」


 凛恋はベッドから下りて、裸足のまま俺に抱き付く。俺は凛恋の背中を擦りながら、ゆっくりと凛恋をベッドの上に座らせた。


「申し訳ございません。凛恋さんが目を覚ました時、丁度男性医師が居まして」

「いえ、こちらこそご迷惑をお掛けして申し訳ありません」


 病室の入り口近くで看護師さんが凛恋のお父さんに頭を下げて話していた。


「凡人……側に居て……」

「……分かった」


 結局また、俺は大した決意もなく、ただ押し流されるように凛恋の求めに応える。凛恋が繋ぐ手を握り返すと、凛恋は俺の胸に顔を埋めた。

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