【六〇《最低のクズ人間》】:一
【最低のクズ人間】
『凡人……助けて……』
その言葉を聞いた瞬間、俺は駆け出した。今、凛恋が何処に居るのかも聞かず、俺は必死に足を動かす。
後ろから恐怖に追い立てられ、胃がせり上がりそうな吐き気をもよおす。
凛恋を傷付けた俺が、凛恋を助けるとか凛恋を守るなんて言っていいわけがない。でも、走り出した足と意志は止められなかった。
一度だけ行った凛恋がアルバイトしているコンビニ。
そこへ辿り着いた時、コンビニのレジカウンターの前に立つ男の姿が見えた。
「凛恋を出せッ!」
ラフな格好の背が高く細身の二〇代後半くらいの青年男性は、レジカウンターを挟んで向かい側にいる店員に怒鳴り付けた。
レジカウンターにいる店員は、凛恋ではなく、俺をボコボコにした男でもない。中年の男性店員だった。
「お客様、申し訳ございません。八戸さんは既に帰宅して――」
「嘘を吐くな! 僕は凛恋がこの店に来てからずっと見てるんだ! 凛恋がこのカウンターを離れたのは、外にあるゴミ箱の片付けと、お菓子の商品整理、それからトイレに行った時、そしてバイトが終わった今の四回だけだ!」
男性店員の言葉に激高した青年男性は、カウンターの上にあったポイントカード案内用の冊子や募金箱を手でカウンターの向こう側へはじき飛ばす。
それに対して、男性店員は一瞬怯んだ様子を見せるが、カウンターを挟んでいる安心感からか、姿勢を正し視線を青年男性に戻す。
「お客様、ですが――ッ!?」
男性店員は青年男性に向けた言葉を途中で止め、身をギリギリまで後退りして青年男性から離れる。
青年男性は、ポケットからバタフライナイフを取り出し、ナイフの刃を男性店員に突き付けていた。
「お前も僕と凛恋の邪魔をするのか? あのいけ好かない警察と同じように。凛恋は僕の物だ! さっさと凛恋を出せ」
青年男性は刃をチラつかせながら、薄ら笑いを浮かべる。
その表情は狂気を感じて、気色悪かった。
「凛恋は僕のことが好きなんだ。恥ずかしがってるだけなんだよ。僕らは結婚の約束をしてるんだ! 一緒に風呂に入って一緒に寝て、毎日毎日毎日毎日愛し合うんだ! 子供は多ければ多いほど良いなぁ! 僕と凛恋の子供は可愛いぞ! ああっ……凛恋……凛恋っ! 一緒に幸せになろうッ!」
青年男性は完全に萎縮した男性店員に背を向けて、店の奥にあるバックヤードの方にゆっくりと進んでいく。
手に、ナイフを持ったまま。
「知ってるよ、凛恋。もうバイトは終わりの時間だもんね? 裏に居るんだろ? 裏で着替えてるんだよね? ああっ! 早く凛恋の下着姿が見たいよっ! いや……フフフッ、僕と愛し合えば、凛恋の裸が見放題だ! 凛恋の体は僕だけのものになるんだ! 凛恋……凛恋……凛恋凛恋凛恋ッ!!」
「待てッ!」
俺は歩いている青年男性の腕を掴んで止める。しかし、青年男性は視線を俺に向けると乱暴にナイフを振り回した。
「退けッ!」
「――ッ! クッソ!」
青年男性が、振り回したナイフで俺の左腕を斬り付ける。
左の二の腕に鋭い痛みを感じながら、俺は歯を食いしばって男を突き飛ばした。そして、斬られた二の腕を右手で押さえながら、バックヤードに走る。
コンビニのバックヤードに入り、細長い通路を駆けて行くと、通路の一番奥に凛恋が居た。
事務机の影にペタンと座り込み、耳にスマートフォンを当てたまま小刻みに体を震わせていた。
「凡人……助けて……。凡人……お願い……助けて……」
「凛恋ッ! 今すぐここから逃げるんだ。立てるか!?」
右手で左手の二の腕を押さえながら、左手で凛恋の腕を掴んで揺する。しかし、凛恋は体をガタガタと震わせ、恐怖で全く動けずにいた。
「迎えに来たよ……凛恋」
振り返ると、俺の血で赤く染まったナイフを向けて青年男性が歩いて来ていた。
「帰ろう、僕と凛恋の家に。大丈夫、痛いことは絶対にしないから。優しくするよ。今日は僕と凛恋の結婚初夜だね。楽しみだな、やっと、やっと凛恋と一つになれるんだっ!」
嬉しそうに笑い声を上げる青年男性は、視線を俺に下ろす。
「でも、僕らの愛を邪魔する奴らは全員殺さなきゃ。凛恋を僕から奪い去ろうなんて無駄なのにね。僕と凛恋は愛し合ってるんだから」
カツカツと青年男性の靴底が床を打つ。俺は青年男性から凛恋を庇うように、凛恋に背を向けて座り込む。そして、死を決意した。
「死ねェッ! ――ガハッ!」
「大人しくしろ」
「離せッ! 離せェッ!」
「傷害と建造物侵入の現行犯だ!」
制服を着た警察官二人が、後ろから青年男性を押さえ付ける。
後ろ手に手錠を掛けられながら、青年男性は暴れて凛恋に視線を向ける。
「凛恋ッ! 凛恋ッ! 離せッ! 僕は凛恋と結婚するんだッ! 絶対にお前らなんかに凛恋は渡すものかッ! 凛恋は僕のものだ! 僕のものなんだァァァアッ!!」
警察官が青年男性を拘束した後、俺は救急車に押し込まれて病院へ運ばれた。
凛恋は救急車が来るまでの間、ずっと俺の服の背を掴んで、ずっと俺の後ろに隠れていた。
救急車とほぼ同時に女性警察官が二人来て、凛恋を俺から引き離して連れて行った。
それが、今から三日前の話だ。それっきり、俺は凛恋に会っていない。
休み明けの今日、刻雨高校では授業終わりに緊急の全校集会が行われた。
集会の内容は、休み中に刻雨生が巻き込まれたストーカー傷害事件について。
犯人は既に逮捕されているが、ストーカー被害に遭っていた女子生徒は自宅療養中。
自宅療養している女子生徒は、凛恋のことだ。
今日、凛恋は当然学校には来ていない。でも凛恋だけではなく希さんも学校に来てはいなかった。
全校集会が終わって教室に戻ると、周りの生徒が帰り支度を始める。
その中で、俺はずっと自分の席にボーッと座り続けた。いつの間にか教室に居るのは俺だけになっていた。
「俺の……せいだ……」
机の上に両手の拳を叩き付ける。
栄次や希さん、切山さんが俺に凛恋と仲直りを執拗に何度も迫って来た理由は、これだったんだ。
何で教えなかったんだ。そういう八つ当たりも浮かばない。
俺は聞かなかった。違和感を抱きながらも聞こうとしなかった。関係ないと目を逸らした。
その結果がこれだ。
「多野くん」
「…………露木先生」
「八戸さん、怪我はしてないそうだよ」
「…………」
俺がちゃんとみんなの話を聞いてれば、こんなことにはならなかった。
凛恋の怪我を心配するようなことにはならなかった。
「全部……俺のせいなんです」
「多野くんのせい?」
露木先生は小鳥の席に座り、俺と視線を合わせて尋ねる。
「希さんや切山さんに凛恋ともう一度話をするように言われてたんです。…………でも、俺は、話をまともに聞こうとしなかった……。あの時、ちゃんと話を聞いていたら、こんなことにはならなかったんです」
「でも、多野くんは八戸さんを守ったじゃない。多野くんが居なかったら、最悪の事態になっていたかもしれない」
最悪の事態にならなかった。いや、最悪の事態になっている。
凛恋はストーカーの被害に遭ったんだ。
俺があの時、みんなの話を聞いていたら、凛恋はストーカーに遭わなかった。
「俺は自分が悪いのにも関わらず、何もかもを凛恋の、周りのせいにして、話も聞かずに自分は被害者面したんです」
言葉にすればするほど、自分が黒ずんでいく。
ステラに押してもらった背中が、挫けるように折れ曲がる。俺は、一体何をやっていたんだ。
逃げて、逃げて逃げて、逃げまくって、背中を強く押してもらえなければ向き合うことも出来なくて、そして結局、挫けて目を背けている。
これじゃ何も変わらない。でも、俺は凛恋の信頼を裏切ったんだ。友達の信頼を裏切ったんだ。
そんな俺が、何か偉そうなことを言ったり、凛恋や友達のためだと何かをしたり出来る権利はない。
そんな都合の良い時だけ、友達面していいわけがない。
全部、自業自得だ。
一度起きてしまったことは二度と元には戻らない。もう、取り返しが付かない。
間違えたら弾き直せばいい。そうステラが背中を押してくれたのに、弾き直すのが、再び行動するのが怖かった。
情けない。本当に情けない人間だ。
「露木先生」
「赤城さん!?」
露木先生が立ち上がり、後ろを振り返って教室の出入り口を見詰める。
教室の出入り口には、制服姿の希さんが立っていた。
「八戸さんは?」
「凄く、落ち込んでます……」
希さんは力無く首を横に振って答える。
それに、露木先生も力の無い声で「そう……」と答えるしかなかった。
「凡人くんを連れて行っても良いですか?」
「ええ」
「凡人くん、付いてきて」
希さんが教室に入ってきて俺の手を掴んで引っ張った。
教室を出てすぐに、希さんは立ち止まって振り返り、涙を流して俺に抱き付いた。
「凡人くんっ! ありがとうっ! 凛恋のこと、助けてくれてありがとうっ! ……凡人くんが助けてくれなかったら、凛恋はもっと辛い目に遭ってた。でも、凡人くんが助けてくれたから――」
「止めてくれッ!」
まるで拷問のようだった。
俺のせいで凛恋は傷付いた。でも、その凛恋を助けたと感謝される。
それは傷口をえぐられて塩を塗られ、何度も何度も踏み付けられているようだった。
「俺のせいだ……」
「凛恋には凡人くんが必要なの……」
「どんな顔して会えって言うんだよッ!」
俺は凛恋を避け続けていた。そんな俺に今更出来ることはないし、今更何かをしようなんてふざけている。
凛恋が傷付いた後に何かをしようとするなんて、ただ自分の罪の意識を和らげるだけでしかない。傷付いた凛恋は傷付いたままだ。
「凛恋は凡人くんに会いたがってる!」
怒鳴る俺に、希さんがそう叫び返す。そして、俺の胸にドスン、ドスン、と拳を打ち付けて希さんは必死に顔を横に振る。
「会ってよッ! 凛恋を安心させられるのは凡人くんだけなんだよッ! 凛恋……三日前から全然ご飯が食べられてないって……このままじゃ……凛恋が……凛恋が…………」
学校の廊下で、希さんは人目も気にせず崩れ落ちる。
その希さんの両肩を支えて、俺は希さんから視線を逸らした。
どうしても、視線を合わせることなんて出来なかった。
「凡人くん……お願い……」
「何か、食べ物を持っていくだけなら……」
「凡人くん……。うんっ! ありがとう! 本当に……ありがとうっ! …………凛恋、絶対に喜ぶ」
泣きながら必死に頼み込む希さんをこのままにしておくことは出来なかった。
それに間違いを正すために、凛恋とはいずれ顔を合わせなきゃいけない。だから、希さんと一緒に行った方が、一人で凛恋に会うよりも気が楽だった。
「希さん、涙拭いたほうがいい」
「うん……」
希さんがハンドタオルを取り出して目元を拭う間、希さんの横に立って待つ。
「行こう」
希さんが涙を拭うのを見てから、俺は希さんに言葉を掛けて廊下を歩き出す。
まだ一つも、凛恋と会って話すことなんて考えられていない足で。
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