【五八《最後の最後に信じられなかった人》】:一

【最後の最後に信じられなかった人】


 俺が凛恋の誘いを断った日から、凛恋は週の終わりまでずっと学校を休んだ。

 その休んだ理由が俺だとは限らない。でも、気にしてしまう自分が居た。


 明日から休み。それにホッとする。でも、学校が無くて気楽だというよりも、自分の隣の席を気にしなくていいという安心感だった。


 今まで通り放課後は適当に街を見て回って時間を潰す。でも、今日はあの公園には足を向けない。あの公園に行く理由はもう俺にはない。


 ステラに出会って、ステラのヴァイオリンを聴いて、俺は凄く心を救われた。

 精神医学の世界でも音楽療法という治療法を使い、音楽の力によって心の病の治療をするらしい。

 実際、音楽を聴くことでストレスの解消も出来ると聞くし、音楽には不思議な力があるのは間違いないと思う。

 でも、その俺の心を救ってくれたステラとは――。


「ステ、ラ?」


 ポケットに仕舞ったスマートフォンが震えスマートフォンを取り出すと、画面にステラの名前が表示されていた。

 俺はその表示に目を疑う。もう二度とステラから電話が掛かってくるなんて思っていなかったからだ。

 俺は、画面をタッチしてゆっくりスマートフォンを耳に付けた。


「もしもし……ステラ?」


 恐る恐る電話の向こうに居るステラに尋ねると、いつも通りのステラの声が聞こえた。


『凡人、公園に来て』

「え?」


 ステラの言葉に耳を疑う。俺はステラを振って、ステラは俺に振られたのだ。

 それなのにステラは公園に来てほしいと言っている。それは、俺に会おうとしているということだ。


『凡人、公園に来て』

「ステラは俺と会いたくないんじゃ?」

『何故?』

「何故って、俺はステラの告白を断って」

『それはとても悲しい』

「じゃあ――」

『でも、凡人に来てほしい』


 ステラの声に、俺は電話を耳に当てながら空いた手で自分の頭を押さえる。そして、声は出さずに笑った。

 そうだった、ステラはそういう子なんだ。ステラは気まずさなんて気にしない。

 ステラは行動を邪魔するような、そんな余計な感情に囚われない子だ。


「分かった。今から行くから少し待っててくれるか?」

『いつまでも待ってる』


 ステラの混じりっけの無い素直な言葉を聞いて、俺はまた声を出さずに笑う。

 それで、ついさっきまでステラと会い辛いと思っていた自分を笑った。


 ステラは素直な子だ。

 俺を好きだという気持ちも本物で、俺に告白を断られて悲しいという気持ちも本物だ。でも、その本物の気持ちも惑わされない真っ直ぐな心を持っている。

 ずっと曲がりくねった、捻くれた生き方をしてきた俺では得られなかった心をステラは持っている。

 だから俺は、曲がりくねって捻くれて一人になった俺は、ステラにまた心を開くことが出来た。


 もしかしたら、俺は今度こそ友達が出来るのかも知れない。

 俺が曲がりくねっても捻くれても腐っても、真っ直ぐで綺麗な心を持っているステラなら。




 公園に着くと、いつものベンチにセーラー服姿のステラが座っていた。そして、俺の方に駆け寄って来て真っ直ぐ綺麗な瞳を向けた。


「凡人」

「ステラ、この前はごめん」


 俺がそう言って頭を下げる。しかし、ステラの言葉がいつまで待っても聞こえてこない。

 それに、俺は恐る恐る頭を上げて正面のステラを見る。正面に立つステラは首を傾げて俺を見ていた。


「何故凡人が謝るの?」

「それは……ステラを傷付けたから」

「凡人は悪くない。悪いのは私の価値が足りなかったこと。凡人に私を愛してもらえる価値がなかっただけ」

「ステラ……そんなことはない。ステラは凄く価値のある子だ。俺には勿体ないくらいの子だよ」


 ステラの持っているヴァイオリンの才能だけじゃない。

 その心の純粋さは、心の色がくすんで、心がすさんだ俺には勿体ない。だから、ステラの価値が俺に足りないなんてことはない。

 比べるまでもなく、ステラの存在価値は俺より遥かに高い。


「凡人にコンクールの本戦に来てほしい」

「コンクールの本戦?」

「インターナショナルミュージックコンクール。その本戦に出る」


 インターナショナルと付くということは、世界的なコンクールなんだろう。

 そのコンクールで本戦まで行ってるという事実が、やっぱりステラは天才なんだと改めて思わされる。


「ステラは凄いな」


 思わずその言葉が出た。

 本当に凄い、俺より年下なのに、ステラの見ている、ステラに見えている世界は俺よりも広い。


「来てくれる?」

「俺が行ってもいいのか?」

「凡人が来ないなら辞退する」

「いや……そんな理由で辞退しちゃマズイだろ」


 ステラの言葉に呆れ笑いを浮かべる。でも、呆れはほんの少しで、やっぱりステラは変わっている子だと思った。


「凡人と出会ってから、ヴァイオリンが楽しくなった」

「前までは楽しくなかったのか?」


 俺はてっきりステラはヴァイオリンを好きで弾いているのかと思った。でも、ステラの口振りからしたらどうやらそうではないようだ。


 ステラと一緒に公園の中に入って、いつものベンチの上に座る。すると、ステラは膝の上にヴァイオリンケースを置いて視線を下ろした。


「私は小さな頃からずっとヴァイオリンと生きてきた。ヴァイオリンを弾くのは当たり前のことで、ヴァイオリンは弾かなければいけないものだと思ってた」


 ステラの母親はヴァイオリニスト。

 その母親がステラに同じ道を進んでほしいと願っていたとしたら、ステラが自発的にヴァイオリンを弾きたいと言わなくても、幼い頃からステラにヴァイオリンを学ばせていて不思議じゃない。

 その幼い頃からの英才教育の結果、ステラはヴァイオリンを弾くことが生活になっていた。だから、好きだから弾くというよりも、ヴァイオリンは弾くもの、弾いて当然のものになっていたのかもしれない。


 ステラは俺と出会う前、ヴァイオリンに感情を込められなかったと言っていた。

 もしステラの中でヴァイオリンが日常生活の一部になって、無意識下でも弾けてしまうまで習慣化されていたとしたら、それも当然だと思ってしまう。


 俺は顔を洗うことに感情は込めないし、歩いて移動することにも感情を込めない。

 ステラにとってヴァイオリンはそれほど日常化したものだったのだ。


「でも、凡人が私のヴァイオリンを聴いて嬉しそうにしているのを見るのは嬉しい。凡人のために何を弾こうか考えるのは楽しい。だから、凡人がコンクールに来てくれたらきっとコンクールが楽しくなる。だから、凡人に来てほしい」


 ステラは綺麗なブラウンの瞳で俺を見て、そう俺に頼む。俺は、一瞬ステラの告白を断ったことで、ステラの頼みを遠慮しそうになった。でも、すぐにその考えを改める。

 せっかく、ステラがそういう感情を抜きにして誘ってくれているのに、俺がその感情で断るのはステラに対して失礼だ。

 それに、ここで断れば、今度こそ俺は一人になる。


「俺で良かったら行かせてもらっても良いか? ステラがコンクールでどんな曲を弾くかも聴いてみたいし」

「ありがとう凡人」

「いや、俺の方こそありがとう。もう、ステラに嫌われて、ステラの演奏を聴けなくなると思ってたから、ステラから誘ってくれて嬉しい」


 俺が正直に自分の気持ちを口にすると、ステラはまた首を傾げて言った。


「私は凡人を愛している。だから凡人のことを嫌いになるなんてあり得ない。それに私は凡人のためにヴァイオリンを弾く。これからもずっと」


 その真っ直ぐな愛の言葉に、俺はドキリとして、そしてその言葉に応えられないことを申し訳なく思った。

 でもそれ以上に、ステラの言葉に救われて、ステラの言葉が嬉しかった。




 公園でステラと別れて家に帰り着くと、廊下で婆ちゃんに会った。婆ちゃんは俺の顔を見ると優しく笑う。


「おかえりなさい。凡人」

「ただいま」

「ご飯は?」

「部屋で食べるよ」

「そう、じゃあご飯を食べてる間、お風呂の準備をするわね」

「ありがとう、婆ちゃん」


 穏やかな表情と語調の婆ちゃんは、風呂場の方へ歩いて行く。そして、台所に行って、いつも通りお盆に載った夕飯を持って部屋まで歩いて行く。


「凡人くん、おかえり」

「ただいまです」

「もう、普通にただいまで良いのに」


 クスッと笑う田丸先輩が、横に並んで歩く。


「ご飯を食べながらお話ししない?」

「いいですけど」


 何の話かは分からないが、俺の部屋まで付いてきた田丸先輩は、テーブルを挟んで俺の真向かいに座る。


「八戸さんが今日来たよ」

「えっ?」

「凡人くんはまだ帰って来てないって言ったら、帰ってくるまで待ちますって言って門の前で待とうとしてたの。だけど、いつも帰ってくる時間が遅いから、今日は諦めた方がいいよって言ったら、分かりましたって言って帰ったよ。…………八戸さん、凡人くんと仲直りしたいんじゃないの?」

「俺には、そんな気はありませんから」


 俺がそう答えても、田丸先輩は表情を少しも変えずに話を続ける。


「それと、八戸さんが来た後は、赤城さんと切山さんが来たよ」

「そうですか」

「二人にも凡人くんはまだ帰って来てないって言ったんだけど、二人とも、八戸さんと同じで、帰ってくるまで待ちますって言ってた。だけど、やっぱり凡人くんは帰ってくるの遅いからって帰した」

「ありがとうございます」

「凡人くん、八戸さんと何があったの?」


 俺はその質問に押し黙る。田丸先輩は俺が凛恋と別れたことしか知らない。

 それは凛恋を連れてこなくなった俺に、爺ちゃんが凛恋のことを尋ねたことがあった。

 その時に「別れた」とだけ話したことを聞いていたのだ。


 別に盗み聞きされたわけじゃない。凛恋と別れたことを話したときは婆ちゃんも居た。

 でも、俺は別れた理由は話さなかった。話す必要はないと思ったし、たとえ話しても誰にも理解されないと思った。


「俺は凛恋に信じてもらえなかったんです。俺が凛恋以外の女子と一緒に居たとか、凛恋以外の女子が好きとかそういう嘘の話を凛恋は信じたんです」

「凡人くん、それって凡人くんも八戸さんのことを信じなかったってことでしょ?」

「えっ?」

「だって、結局最後は凡人くんも八戸さんのことを信じてあげられなかったんでしょ?」

「俺は凛恋を信じてて、でも凛恋は俺を信じてくれなくて――」

「でも、最後の最後に凡人くんも八戸さんのことを信じてあげなかったんだよね? だから、八戸さんと別れたんでしょ?」


 田丸先輩の言葉に、俺はサーッと血が引いて口の水分が一気に無くなる。


 俺は凛恋を信じていた。信じていたから、逸島の作った証拠なんて信じなかったし、すぐに破棄した。でも、凛恋はあの証拠を信じて俺を疑った。


 そう考えて、自分に否定が生まれる。

 でも、それは有馬に誘導された溝辺さんに焚き付けられた結果、俺の真意を確かめるために信じた振りをして試した結果だ。


 俺はその考えに首を振って否定する。

 いや、でもその試したという行為は俺のことを信じていなかったからだ。だから、試さないと凛恋は安心出来なかった。


 ……でも、最後の最後に凛恋を信じなかったのは誰だ?


「……俺は、凛恋を信じなかった」


 田丸先輩の言うとおり、俺は最後の最後に凛恋を信じなかった。凛

 恋が俺を信じなかったと諦めたんだ。


「確かに凡人くんのことを信じてあげられなかった八戸さんにも、落ち度はあると思うよ? でも、その八戸さんと同じように凡人くんも八戸さんを信じてあげられなかった。だから、凡人くんも悪いと思う。私はね」


 立ち上がって俺の部屋の入り口まで歩いて行った田丸先輩は、俺の方を振り返ってニッコリ笑った。


「ちゃんと、仲直りしなきゃダメだよ?」

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