【五六《理屈では説明出来ないこと》】:三
「凡人に会いたかった」
「えっ?」
「ここに来れば、凡人に会えると思ったからここに来た」
ステラの言葉にドキンッと胸が跳ね上がる。そして、体の熱が一気に上がって、背中の冷たさが消えた。
「凡人、来て」
「えっ?」
ステラはそう言って、ひさしの下から雨の下へ駆け出した。
俺もそのステラの後に続いて雨の下へ駆け出した。
前を走るステラは公園を出て、いつもステラが帰っていく方向に駆け出す。
公園の周りをグルリと回ってすぐ、裏手にある分譲マンションに駆け込んで行く。
「ステラ、ここって」
「私が住んでるマンション」
「……ステラが住んでるマンション!?」
「そのままでは凡人が風邪を引く。だから、すぐに体を拭いたほうがいい」
「いや、確かにそれはそうかもしれないけど、いきなり知らない男が来たら家の人がビックリするだろ」
「大丈夫、二人とも海外だから」
「海外?」
ステラは俺の腕を引っ張って、ズンズンと中へ入っていく。そして、エレベーターのパネルを操作し終えると、俺の方を向いた。
「父親は指揮者、母親はヴァイオリニスト。二人とも、海外を転々としている。だから、日本には年末年始しか帰って来ない」
「じゃあ……ステラは……」
「日本で一人暮らし」
「だったら尚更ダメだって」
女の子一人の家に入るわけにはいかない。しかし、俺の腕を掴んだステラの手は力強く引っ張る。
「ダメ」
「ダメって言われ――うおっ!」
軽い電子音を響かせてエレベーターの扉が開き、そのエレベーターの中にステラから突き飛ばされる。
振り返ると、後からステラが入って来てパネルを操作するのが見えた。
「凡人に風邪を引かせたくない」
「心配してくれる気持ちは嬉しいけど」
エレベーターに乗りながら、ステラの後ろ姿を見る。プリーツスカートの裾からスタスタと水滴が落ちていた。
エレベーターの扉が開くと、ステラが先にエレベーターを下りる。
ステラに続いてエレベーターを下りると、外廊下を奥まで進んで振り返ったステラの姿が見えた。
ステラはずぶ濡れの制服のポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込んでドアの鍵を開ける。そして、ドアノブを捻ってドアを開けた。
「入って」
「お邪魔します」
ここまで付いて来ておいて帰るなんてことも出来ず、俺はステラの開けたドアの中に入る。
ステラは後ろから入って来て靴を脱ぎ、廊下を入ってすぐ右手のドアを開けて入って行く。
ステラの家は白い壁に床はクリーム色のフローリング。玄関から廊下を見ただけだが、あまりにも綺麗過ぎる気がする。生活感があまり感じられない。
「凡人、はい」
「ありがとう」
ステラからタオルを借りてとりあえず頭を拭く。
「凡人、シャワーを使って」
「いや、そこまではお世話になれない。でも、ちょっと運動着に着替えさせてほしいから、ステラにはその間シャワーを浴びてもらえると助かる」
俺もずぶ濡れだが、ステラもずぶ濡れになっている。だから、ステラがシャワーを浴びて温まる必要がある。
「分かった…………」
「ん?」
再び入り口右手のドアの前に立ったステラが、ジーッと俺の方を黙って向く。
その視線が何を意味しているのか分からず、首を傾げて疑問を示してみる。すると、ステラは俺の前に歩いてきて、下から俺の顔を見上げる。
「私がシャワーを浴びている間、帰らないで」
「あ、ああ」
綺麗なブラウンの瞳で見詰められ、心臓がドキドキと高鳴る。
ステラがドアの中に入っていくのを見送って、俺はスポーツバッグから運動着のシャツとズボンを出す。そして、思わず顔をしかめた。
「汗臭……」
日頃、体育でも運動を極力しないようにしている俺だったが、今日はサボりが出来なかった。
そのせいで、俺の汗を吸い込んだシャツからは、俺の汗臭い臭いが漂っている。
俺としてはずぶ濡れの制服と汗臭い運動着だったら、迷わず汗臭い運動着を着るのを選ぶ。だが、シャワーを終えたステラが出てくることを考えると、汗臭い運動着を着るのは躊躇われる。
「どうするかな……」
汗臭い運動着を手に持って迷う。ステラが出てくるまでに着替えないといけない。だが、やっぱりステラに俺の汗の臭いを嗅がせてしまうのは申し訳ない。
ドアの隙間から聞こえるシャワーが浴室の床を打つ音に冷や汗を掻きながら、ステラが出てくるギリギリまで、俺は濡れた制服と汗臭い運動着の間で葛藤を繰り返していた。
シャワーを終えたステラは、キャミソールにショートパンツという部屋着姿で出て来た。
ここはステラの家なのだから部屋着なのは当然なんだが、ステラの白く綺麗な裸あられもなくさらけ出されていて、目のやり場に困る。
結局、俺は汗臭い運動着を着ていて、極力、ステラに近付かないようにすることにした。
ステラに部屋の奥に通してもらい、進められた白いソファーに腰掛ける。
汗が染み込んだ運動着で座ることに気が引けて、特に臭いの酷い上半身はソファーの背もたれに付けないように気を付ける。
ソファーのあるダイニングは実にシンプルで、ソファーとテーブルくらいしかない。
ダイニングはキッチンと繋がっている。そのキッチンには冷蔵庫と電子レンジはあるが、コンロも無いし炊飯器も無い。
「凡人、ごめんなさい。温かい飲み物がなかった」
「ありがとう。気を遣わなくていいよ」
ミネラルウォーターの入ったコップを差し出してくれて、ステラにお礼を言ってコップを受け取る。
「ヴァイオリンの先生に言われた。最近、演奏が感情豊かになったと」
「演奏が感情豊かに?」
ステラはコップをテーブルに置き、俺を真っ直ぐ見て話し出す。
「そう。私は、楽譜を見て楽譜の通りに弾くことは出来た。でも、演奏に感情を込めるということが出来なかった」
「俺は凄い演奏だと思うんだけどな」
「私が感情を込められなかったのは、凡人に出会う前まで」
ステラの綺麗なブラウンの瞳が僅かに揺らぐ。
「凡人に出会ってから、私は凡人のために演奏するようになった。凡人に褒められたくて、毎日あの公園で凡人を待ちながら弾き続けた。今日はどんな曲を聴かせよう、今日も勉強で疲れているだろうから明るい曲が良いのかもしれない。それとも、ゆったりと落ち着ける曲が良いのかもしれない。そんなことを毎日考えていた。凡人が来ない日は……とても寂しかった」
「ステ……ラ?」
ステラの右目の目尻から、小さな雫がスッと流れ落ちる。その雫は、ポトリとソファーを打った。
「私の演奏に、凡人は必要不可欠な存在になっていた。凡人は私が演奏する理由になっていた。凡人……私は凡人を愛している。こんな気持ちは初めて。私は凡人に愛されたい」
ソファーに座るステラが、俺の手を握って体をゆっくり近付けてくる。
シャワーを浴びて上気した頬が、更に赤くなるのが見える。
ステラは凄く素直で、過剰な程にピュアだ。
そのピュアなステラが、複雑に混ざり合った感情に戸惑うように、不安そうな表情を俺に向けている。
そのステラは今にも砕け散りそうな、繊細なガラス細工のような儚さがあった。
俺は今、一人で居ることに耐えられない人間になってしまっている。
一人で居ることが寂しくて、心細くて、不安で、他人の存在や温かさを欲している。
でも、ステラの告白を受け入れれば、俺はその寂しさや心細さ、不安さから解き放たれる。
それに、ステラは偽らない。だから、安心して、俺はステラの存在と温かさに甘えられる。
ステラは、俺に顔を近付けてゆっくりと優しく両目を閉じる。そして、俺に震える唇を突き出した。
俺は、そのステラの唇に吸い寄せられるように、心にぽっかり空いた隙間をステラで埋めようと、唇を近付けた。
ステラの唇と俺の唇が触れる前に、俺の心に激痛が走る。
息をすることも出来ないくらいの鋭い痛みで、とっさに俺はステラの手から自分の手を離す。
僅かに、数センチ先に近付いていた温もりは、俺が欲した温もりではなかった。
「ステラ…………ごめん」
ステラの告白に、俺は応えられなかった。
ステラは俺が辛い時に一緒に居てくれたし、ステラは俺が疑わなくて良い唯一の人だ。でも、俺はステラの気持ちに応えられなかった。
理由は……分からない。でも、その分からない理由で、俺はステラの告白に応えられない。
「……ステラごめん。雨宿りさせてもらってありがとう」
その場に居るのが辛かった。だから、俺はそう言ってソファーから立ち上がってステラの家を出る。
玄関のドアが後ろで閉まる音を聞いて、俺はコンクリート製の外階段に視線を落とし歩き出す。
一人で居られる強さを失っても、結局俺は独りだ。
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