【四六《暗灰の影》】:一

【暗灰の影】


 教室の黒板に『歩こう会』という文字がでかでかと書かれ、教卓の前でプリントを片手に池水先生がその『歩こう会』の説明をしている。


 この歩こう会とは、刻雨高校の冬の伝統行事らしい。だが、歩こう会なんて楽しげな名前が付いているが、内容は楽しさの欠片も感じられない。


 歩こう会を正式な名称で言うと強歩(きょうほ)大会と言うらしい。

 この強歩大会は何も刻雨高校だけではなく、全国の至る所の中学高校で行われているらしい。


 強歩大会は字のごとく、歩くことを強いられる大会だ。だが、読みの同じ競歩と違って順位が競われるわけではなく、決められた距離を歩き切ることがただ一つであり、最大の目標になっている。


 強歩大会の総歩行距離は、行われる学校によってまちまちらしい。

 中学生だと平均一〇数キロメートルらしいが、俺達と同じ高校生だと平均二〇キロメートルくらいは歩くものらしい。だが、うちの高校は二〇キロなんて生易しい距離じゃない。


 刻雨高校の歩こう会の総歩行距離は八〇キロ。この数字を見て、正直バカなんじゃないかと思う。それに、大会の内容も更に目を疑う。


 総歩行距離八〇キロのコースにはそれぞれチェックポイントがあり、それぞれのチェックポイントを決められた時間以内に歩けなければ強制リタイアになる。

 強制リタイアになった場合は、学校が手配した貸し切りバスに乗せられ、ゴールの刻雨高校に連れて来られるらしい。

 そして、その道には勾配の急な坂や山道も含まれているらしく、想像しただけで苦難の道なのが分かる。

 更に、八〇キロを早い人だと約三〇時間で歩くらしい。


 歩こう会のチェックポイントの中には、地域の公園のような広いスペースの場所も設定されているから、休憩出来る場所はある。しかし、その全てが屋外。つまり、夜になったら外で野宿しろ。ということなのだ。


 暦(こよみ)はまだ一月上旬、冬の寒さが厳しい時期だ。こんな時期に外で野宿なんて頭が可笑しいとしか思えない。

 いや、睡眠時間を六時間だとすると、二四時間……端的に言えば一日中歩けということなのだ。しかもそれは、早い人での話なのだから正気とは思えない。

 俺だと一体どれだけ時間が掛かるのだろう……。


 運動とは無縁の生活を送る俺に、一日以上歩き続けろなんて命の危険がある。

 それに、めんどくさいし怠いし疲れるし、嫌だ……。


「歩こう会はクラスの制限はない。部活や他クラスの友人と歩いても構わない」


 目の前で話している池水先生の話を、話半分で聞く。先生が話している内容は全部配られたプリントに書かれている。だから、プリントの内容さえ見ていればいい。


「凡人くんは誰と一緒に歩くか決めた?」

「俺は凛恋と、その友達と一緒に」

「そっか。まだ決まってなかったら一緒に歩こうって誘おうと思ってたのに、残念だな~」


 隣に座る筑摩さんの発言を聞いてクラスの男子が俺の方を見る。

 その視線は鋭く、明らかに悪意がある。だが、女子の中の一定数の人が筑摩さんに同じような視線を向けてる。ただ、筑摩さんは素知らぬ顔でニコニコと俺に笑顔を向けていた。

 気付いていて無視しているのか、本当に気づいていないのか、どっちにしても大人しそうな見た目通りの性格ではないのは確かだ。


 凛恋達が要注意人物だと話していたが、何かにつけて話し掛けて来ることを除けば、やっぱり無害だ。まあ、話し掛けて来るのはかなりの害があると言えるが。

 何にせよ、今の問題は筑摩さんよりも歩こう会の方だ。


 はっきり言うと参加したくはない。

 何を好き好んで明らかにしんどそうな行事に参加しないといけないのか、ということが頭に浮かぶ。

 でも、その考えを簡単に蹴散らす参加する理由がある。


 凛恋に『今度の歩こう会、一緒に歩こうね!』と言われたからだ。

 それに八〇キロを三〇時間掛けて歩くということを、スーパーポジティブシンキングすれば、三〇時間ずっと凛恋と一緒に居られるということになる。

 しかも、一緒に歩く人が自由で、歩く人と一緒に野宿するということは、夜寝るときも凛恋と一緒だということだ。


 そう考えると、歩こう会がとても素晴らしい行事に思えて来る。しかし、不安があるとすれば……凛恋の目の前でリタイアという醜態を晒す可能性。だが、それは絶対に嫌だ。

 自分が強くないし頼りない人間だという自覚があったとしても、凛恋に情けない姿を見せたくない。だとすれば死ぬ気で歩くしかない。



 昼休みは凛恋の教室で食べるのだが、女子の集団に男子一人というのはかなり肩身が狭い。


「冬休み明けのテスト、学年成績二番って、多野くん凄いね」

「もっと凄い人がそっちに居るんだけど」

「あー、もう希はあれね。殿堂入りってやつ?」


 溝辺さんの話題に、凛恋がそう言って希さんに視線を向ける。向けられた希さんは困った表情をしながら俺に視線を向けた。


「刻雨の冬休み課題をやってないのに、点数取れてる凡人くんは凄いよ。私は課題をやった後に何回か見直ししただけだし」

「私は一回やってから見直ししてないわー」


 溝辺さんが笑いながらお茶を一口飲む。そして、チラッと視線を凛恋に向けた。


「でも、何気に凛恋が今回二五番だったのがビックリ。一年の最初の方は私と同じくらいだったのに、いつの間にかエリート街道まっしぐらね」

「いや、希が言った通り課題テストだからちょっと良かっただけで」

「あっ、そっか! 凡人くんは凛恋と一緒に勉強してたから、課題は見てたんだね」


 納得した表情で笑う希さんの言葉の後、切山さんが凛恋ににじり寄ってニコニコと笑みを向ける。


「多野くんにマンツーマンレッスンしてもらってたんだー」

「何のマンツーマンレッスンしてもらってたんだかー」


 切山さんに便乗して、溝辺さんがニヤニヤと凛恋に言う。

 それを受けた凛恋は、視線を逸らして紙パックのジュースをストローから飲む。


「別に、やらしいことなんてしてないし」


 その凛恋の発言を聞いて、俺は内心「あちゃー」っと声を漏らしたくなった。正に墓穴を掘るという感じだ。


「別に私達は、やらしいことなんて言ってないんだけど、凛恋は何を想像したの?」

「バカッ! き、聞かないでよ!」

「えっ!? 凛恋が想像したことって言えないことなのー?」

「からかうなっ!」


 相変わらず、溝辺さんと切山さんにからかわれる凛恋は、真っ赤な顔をして効果の薄い抵抗をしている。


 正直、この騒がしい空間で休めるわけはない。

 希さんと凛恋の三人だったらあまり気を遣わないのだが、まあ凛恋の顔を立てる意味で断ることは出来ない。

 わがままを言って良いのなら、静かな場所で凛恋と二人っきりというのが良い。それなら、気疲れもしないからじっくり休める。


「そういえば、里奈と萌夏は歩こう会は彼氏と?」

「そうそう」「うん」


 凛恋が話題を変えると、二人はからかいの手を引いて凛恋の話題に答える。

 こういう、ちゃんと引いてくれるところが良い友達関係だと思う。


「凛恋は多野くんと?」

「もち! 凡人と希と三人で歩く!」

「えっ? 凛恋、凡人くんと二人っきりで歩くんじゃ……」


 凛恋の明るい言葉に、希さんが驚いた表情をした後、探るような視線を凛恋に向けて恐る恐る尋ねる。

 それを見て、凛恋が眉をひそめて首を傾げた。


「三人で一緒に決まってるじゃん! せっかく三人で一緒に居られるのに、なんで希だけ別なのよ」

「凛恋……ありがとうっ!」


 希さんは凛恋の隣に椅子を持ってきて、凛恋へピッタリ寄り添って座る。


「凛恋大好きっ!」

「ちょっ! 希!?」


 よっぽど嬉しかったのか、希さんは凛恋に甘えるようにベッタリしている。

 凛恋と同じで希さんも長い付き合いになるが、希さんが凛恋に甘えるような一面があるとは知らなかった。

 これも、仲の良い友達同士の雰囲気によるものなのかもしれない。


「多野くんどうする? 希に凛恋を取られちゃったけど」


 ニコニコ笑って切山さんが、仲睦まじげに寄り添う凛恋と希さんを見ながら言う。だが、あの二人の雰囲気は独特というか、特殊な感じだから彼氏の俺でも割って入るのは無理そうだ。

 それに、せっかく二人が仲良さそうにしているのに割って入るのは野暮なことだ。


「あの間に割って入ったら、色々問題だからここで見てるかな」

「まあ、見てるだけでも男子は嬉しいかもね」


 クスクスと笑う切山さんの言葉の意味は分からなかったが、俺はそのまま凛恋と希さんが仲良さそうにじゃれ合っている姿を見ていた。



 放課後、栄次と希さんが俺の家に遊びに来て、もちろん凛恋も一緒に居る。居るのだが、床に座ってあぐらを掻いている栄次が、ジュースの入ったコップを傾けながら爽やかに笑った。


「お互いに、彼女を取られちゃったな」

「切山さんが言ってたけど、昼休みからずっとあんな感じらしい」

「昼休み?」

「ああ、なんか歩こう会っていう、強制的に歩かされる行事を一緒に歩こうって凛恋が希さんに誘ったら、それが嬉しかったみたいで」

「ああ、噂の強歩大会か」


 栄次は特に驚いた様子は見せずに言った。俺は凛恋から聞くまで知らなかったのに、栄次は知っていたらしい。


「それで? カズはもう学校に慣れたのか?」

「まあ、それなりにな。筑摩さんに話し掛けられるのは疲れるけど」


 凛恋に聞こえないくらいの声で言うと、栄次がニッコリ笑いながら肩を数回叩く。


「まあ、そのうち諦めるって。カズの拒絶に耐えられるのは凛恋さんくらいのものだし」


 栄次の言うとおり、適当に言葉を返していれば、そのうち察して離れていってくれるだろう。

 希さんと凛恋は、帰ってくるときもずっと手を繋いで仲良さそうにしていて、今も隣同士で話に花を咲かせている。

 栄次の言った彼女を取られた、という感じではないが、なんか自分の手に手寂しさを感じる。


 凛恋と初めて手を繋げた時から、一緒に居る時はほとんどずっと手を繋いでいた。

 今日みたいに、手を繋がずに帰るのは付き合う前くらい振りかも知れない。それに今は冬だからか、凛恋の温もりがない手は冷たさが寂しさに足されていく。


 男同士は手を繋ぐなんてことをしないが、女同士なら結構あることらしい。

 凛恋や希さんのように仲の良い同士なら尚更だ。仲が良いことはもちろん良いことだし、凛恋の相手が希さんなら何の問題もない。なのに、やっぱり寂しいのだ。


 そこにあるのが当たり前になっていた温もりが消えたから、急に物悲しくなって心が冷えていく。

 はぁ……凛恋と手を繋げないのがこんなに寂しいなんて……。


「「えっ?」」

「ん?」


 急に正面に居た凛恋と希さんが驚いた声を上げて俺を見る。しかし、俺はその二人の反応に首を傾げた。すると、横から栄次がチョンチョンと肩を突いてくる。


「カズ、心の声、漏れてたぞ」

「えっ!? ――ッ!」


 実に楽しそうに笑う栄次にそう言われ、急に体がカッと熱くなる。理由は簡単だ。単純に恥ずかしかったのだ。

 凛恋と手を繋げないことが寂しいと思っていたなんて知られて、羞恥心に耐えきれなくなった。


「凡人!」


 立ち上がった凛恋が俺の隣に座って両手で俺の手を包んでくれる。

 全身の熱が恥ずかしさで沸点ギリギリまで達しているのに、凛恋の温かさははっきりと分かった。


「私と手、繋げなくて寂しかったの?」

「き、聞かないでくれ……」

「ねえねえ、もう一回言ってよ~」

「嫌だ」

「え~」


 いつの間にか希さんは栄次の隣に座っていて、さりげなく栄次の手を握り締めていた。


「栄次も寂しかった?」

「ああ、希が構ってくれなかったから寂しかった」


 平然と俺が素直に口に出来なかった言葉を、栄次はさらりと言って希さんに笑顔を向ける。どうやったらあんな恥ずかしい台詞をさらりと言えるようになるんだ。


「凡人は寂しくなかったの?」

「…………かった」

「ん? 良く聞こえない。はっきり言ってもらわないと」

「寂しかった……凛恋と、手を繋げなくて」

「いやーん! 凡人可愛いっ!」


 荒々しく頭を凛恋に撫でられ、栄次と希さんの前というのもあって更に恥ずかしさは二倍、三倍になる。


「ごめんね凡人くん、凛恋のことを取っちゃってて」

「いや……希さんが謝ることじゃ――」

「凛恋は返すから、思う存分、凛恋に甘えていいよ」


 希さんが明るい笑顔で言う。希さんまで俺をからかう気のようだ。

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