【四〇《転機の選択》】:一

【転機の選択】


 目を開いて思う。最近は、病院に縁があるみたいだと。

 耳に心電図モニターの同期音が一定のリズムで聞こえてくる。それだけで、今俺が病院に居るというのを理解するには十分だ。そして、俺が何とか生きてることも。


「凛恋さん、もう遅いから帰りなさい」

「そうだよ凛恋さん。カズだって、こんな夜遅くまで凛恋さんが外に居るのを良く思うはずがない」


 遠くから、何かに遮られたようにこもった声が聞こえる。多分、爺ちゃんと栄次の声だ。


「嫌っ! 凡人が起きるまで側に居たいっ!」

「凛恋ッ! わがままを言うんじゃない! 凛恋が居たら多野さんも落ち着けないだろッ!」


 凛恋の声と……多分、凛恋のお父さんの声が聞こえる。

 今は何時なんだろう。目蓋を開けることも出来なくて、時間を確かめられない。


「絶対に嫌ッ! 絶対に、絶対に凡人が起きるまで凡人の側を離れないッ!」


 ドアが開く音がして、俺の左手が温かさに包まれる。凛恋が手を握ってくれているのがすぐに分かった。

 凛恋の温かさを感じて、ホッと安心した俺は、また意識が遠退いていった。



 次に意識が戻った時、俺の左手はまだ温かいままだった。

 相変わらず心電図モニターは一定のリズムで同期音を鳴らし続けていて、俺はその音を数回聞いてからゆっくり目蓋を開ける。


 目蓋を開けて視界が鮮明になると、薄暗い病室の天井が見える。もう、ここ最近で病院のお世話になるのは三度目だ。だからかも知れないが、見慣れた風景に見える。


 体はズキズキヒリヒリして、当然治っているとは言えない。どれくらい時間が経ったか分からないが、あれだけ徹底的にやられたのだ、一日くらいで治るような怪我はしてないだろう。


「かず、と……――ッ!? すぐ来て下さい! 凡人が目を覚ましましたッ!」


 ギシギシと痛む首を動かして頭を左に向けると、俺の手を両手で握る凛恋と目が合う。凛恋は、俺と目が合った瞬間に、枕元のナースコールを押した。


 病院に運ばれて、凛恋に心配を掛けるのも三度目だ。これは、三度も繰り返したくなかった。三度も、凛恋に辛い思いをさせたくはなかった。


「多野さん? 私が分かりますか?」

 昨日とは違う男性医師が病室に駆け付け、俺の容態を確かめる。分かりますかと尋ねられても、声は出せないし全身痛むせいで頷くことも出来ない。


 俺がただ寝てボーッとしている間、俺の周囲では医者や看護師の人達が慌ただしく動く。そして、その人の隙間からは、ジッと俺の顔を見ている凛恋の姿が見えた。

 凛恋は口をキュッと結び、瞳を揺らめかせている。あの顔の凛恋は、涙を堪えている時の凛恋の顔だ。


 ごめん凛恋。凛恋に悲しい思いはさせたくない。でも、俺は凛恋の身を守るか笑顔を守るか、どっちかしか出来なかった。だから、凛恋を悲しませても、凛恋を守ることしか出来なかった。

 凛恋は優しいから、怪我をして病院に俺が運ばれたら、そうやって悲しんでくれるのは分かってた。でも、こうするしかなかった。


「反応はありますが、怪我の影響で上手く体が動かせないようです。ですが、怪我が回復すれば自然に動かせるようになるでしょう」

「ありがとうございます」


 視界の外から男性と爺ちゃんの会話が聞こえる。多分、駆け付けて来てくれた先生と話しているのだろう。


「凡人……」


 俺の横に立ち、視界に入った爺ちゃんが優しく俺の頭を撫でた。


「凡人を殴った奴らは全員逮捕された。それで、すぐに全部白状した。…………よくやった。お前を誇らしく思う」


 爺ちゃんはそう言って立ち上がり、袖口で目を拭った後に病室の外へ出て行った。

 急に人が減って静かになった病室には、心電図モニターの同期音だけがピッピッピッと鳴っているだけだ。


「凡人……」


 ベッドの脇に丸椅子を持って来た凛恋は、丸椅子に座りながら俺の名前を呼ぶ。


「今は、火曜日の二時を過ぎたところ。栄次くんとお婆さんは帰ってて、今病院に居るのは私とお爺さんだけ」


 凛恋の言葉に「こんな時間に女の子が外にいるなんて何を考えてるんだ。俺のことは良いから早く帰って寝ろ」という言葉が浮かんだ。その直後、俺の左手を握り締めて凛恋が言った。


「嫌だ。今日は学校休んでずっと凡人の側に居る」


 その言葉に戸惑う。俺は言葉を発していない。でも、まるで凛恋と会話出来ているような言葉だった。


「凡人なら、『こんな時間に出歩くな。俺のことは良いからさっさと帰れ』って言うでしょ、きっと。でも嫌。絶対に凡人の側に居る」


 俺の左手を握る凛恋の両手に力が入り、その頑とした態度に俺は諦めた。こうなった凛恋に何を言っても無駄だ。


「…………凡人、私のこと……守ってくれたんだね」


 凛恋は視線を落として唇を噛んだ。


「今回の、凡人が怪我したこと、全国ニュースにもなったの。それで、凡人に怪我させた奴らが捕まって、警察の取り調べで話したって。ムカついたからボコボコに殴って、女を呼び出そうとしたら抵抗したからもっと殴った。って……」


 凛恋は、揺らめかせていた瞳から、ポトリと雫を落とした。


「希と一緒に、ケーキ屋さんに寄ってから刻季の校門に行ったら凡人が居なくて、後から来た栄次くんは先に出てるはずだって言ってた。三人で刻季の中を探しても見付からなくて。そしたら、学校に警察から電話があったの。刻季高校の制服を着た男子五人が、同じ制服を着た男子を囲んで連れて行ってるって通報があったって。それ聞いた瞬間、栄次くんが学校を飛び出して行った」


 俺の手を握ったまま、顔を近付けて手の甲で目元を拭う凛恋は、震えた声で話を続けた。


「通報のことを聞いたら頭が真っ白になって、希が手を引っ張ってくれなかったらまともに歩けなかった……。なんで寄り道なんてしたんだろう。こんなことになるなら、いつも通りすぐに刻季に行けば良かった。そんなことばっかり考えてた。私が寄り道しなかったら、出て来た凡人にすぐ会えたから。そしたら……こんなことにはならなかったから……」


 凛恋はいつも、寄り道をせず学校が終わったら真っ直ぐ刻季に来ていた。それが昨日に限って寄り道をした。

 昨日に限って寄り道をした理由は、多分俺だ。俺の母さんが逮捕され、それで声も出なくなった。凛恋は、そんな俺を元気付けるためにケーキ屋によってケーキを買ってくれたんだと思う。だから、凛恋は何も悪くない。それに凛恋と希さんが居た方がもっと危なかった。


 俺はあの名前も知らない男子達五人に、徹底的にやられた。人数差もあったが、そもそも一対一でも俺が殴り合いで勝てるような奴等じゃなかった。だから、あの時に凛恋と希さんが一緒に居たら、俺は二人を守れなかったかも知れない。

 そんな最悪なことになる可能性もあった。だから、凛恋と希さんの寄り道は正しかった。


 俺はポロポロと涙を流す凛恋に、言葉を掛けたかった。でも、どんなに頑張っても声は出ない。せめて凛恋を安心するために頭をなでたかった、手を握り返したかった。でも、体に力は入らない。

 役立たずだ。俺のために泣いてくれて、俺のことを本当に心配してくれている凛恋が目の前に居るのに、俺は何も出来ない。


「かず、と?」


 声も出ない力も出ない役立たずの俺は、涙だけは流せた。でも、彼女の目の前で泣くなんて情けない。俺は、凛恋の涙を止めなきゃいけないのに。

 こんなことだから、生まれて来なければ良かったなんて言われるんだ。

 心の中で笑って、本当にそう思う。俺のことを好きと言ってくれて、ずっと好きで居てくれて、ずっと好きな凛恋に何も出来ない俺なんて、生きている意味はない。生まれて来なければ――。


「お爺さんから、お母さんのこと聞いた。…………ごめんね、なんて言葉を掛ければ良いか分からない」


 爺ちゃんが、母さんに俺が言われた言葉を話したようだ。でも、凛恋の反応は当然だ。実の母親から、生まれて来なければよかったと言われたなんて、どう声を掛けていいか分からなくて当然だ。

 凛恋が思い詰めることではない。だけど、凛恋は酷く辛そうな顔をする。


「でも……私には凡人が必要だから! 凡人が居ない世界なんて……私は、絶対に、絶対に嫌だからっ!」


 凛恋は目をゴシゴシ擦って、涙で湿った頬を俺の手に当てる。


「私……凡人を傷付けた人達のこと、絶対に許さない。…………私が、ずっとずっと凡人の側に居るからね。ずっと、凡人のこと必要にするからね。だから、大丈夫」


 キッと鋭く視線を尖らせる凛恋の言葉を聞いていると、凛恋の『大丈夫』という言葉を聞いていると、ヒリヒリと心に染み渡る。

 俺はどうすれば良かったんだろう。どうすれば、凛恋にこんな辛そうな顔をさせずに済んだんだろう。どうすれば……凛恋に誰かを憎いなんて思わせずに済んだんだろう。


 人が生きている以上、誰かを好きになることがあれば嫌いになることもある。でも、それを俺のせいで凛恋にさせてしまったことはやり切れない。

 俺は隣に座る凛恋に視線を向ける。俺と視線が合う凛恋は、泣き顔のまま無理に笑おうとする。

 それが……より、俺に俺自身を憎ませた。



 怪我が完治、とまではいかないものの俺は病院を一週間で退院出来た。実際は怪我で動けなかったのは三日程度で、残りの四日間は別の意味で入院させられていた。


 失声症の発症と暴行被害、その二つのことが同時期に重なった俺は念入りな精神科医のカウンセリングを受けた。話を聞かれるのもそうだが、砂の敷かれた囲いの中にドールハウスのように物を配置する箱庭療法という治療法もされた。

 しかし、俺としては話を聞かれると言っても話せないのだから筆談だし、箱庭療法も面白くなくて退屈だった。


 もちろん、精神安定剤の処方もされたが、俺としては精神が不安定なわけでもないから必要性を感じられない。


 今日は退院して三日目。学校には、まだ行っていない。


 一〇日も経てば怪我もほぼ治っている。だから、学校に行けない、行かない理由は無い。でも俺は、まだ学校に行けてない。


 部屋のベッドで横になり、天井を見詰めて頭を押さえる。寝過ぎたせいか頭が重い。

 ゲームもほぼやり尽くして、昼間は寝て過ごすことが多くなった。そして、夜は昼寝をしたせいで眠れなくて、何も気を紛らわすことが無くて思い出す。母さんに言われた言葉を、名も知らない男子に言われた言葉を。


 この一〇日、俺は人生で一番情けなく弱くなっていた。小学校時代に始めていじめられた時も、ここまで酷くはなかったはずだ。行きたくない学校だって、頑張って行くことが出来た。でも、今の俺は頑張ろうという気概も無い。


「凡人? 起きてる?」


 部屋のドアを開けて制服姿の凛恋が入って来てベッドに飛び込んで来る。

  問答無用で布団の中に潜り込んで来た凛恋が真正面から抱き付き、スマートフォンを取ろうとした俺の動きを止める。


 凛恋の学校で、俺と凛恋が付き合っていることを知っている人はそれなりの人数居る。それは、凛恋の友達はもちろん、凛恋の友達ではない人にも居る。そして、その中には俺のことをよく思わない人ももちろん居る。


 それが俺は心配だった。


 何も関係ない凛恋が、俺のことで傷付くようなことをされていないか、言われていないか、それが心配だった。

 人は、人を傷付けることが出来る。その傷付け方は、怪我として目に見える暴力以外にも、目に見えない言葉の暴力や行動態度の暴力もある。


 そういう目に見えない暴力に、凛恋が俺のせいで曝されていないか心配になる。

 凛恋は普通の女の子だ。

 凄く可愛いことや凄く優しいこと、それから俺を好きになってくれたことは普通じゃない。でも、普通に楽しい人生を送っている女の子という意味では、普通の女の子だ。


 俺は普通じゃない。それは、小学生の頃から周りと距離を取って一人で居た。なんてことじゃない。

 そういう人は、俺以外にも意外に居るものだからだ。そういうことではなくて、俺は普通じゃない。

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