【三九《悲痛の対価》】:二
次の日、俺は学校の校長室にあるソファーに座っていた。隣には爺ちゃんが座り、正面に居る担任の先生と学年主任の先生、それから校長先生に事情を説明している。
学校には行きたくなかった。でも、学校に行かずに閉じ籠もったら、爺ちゃんと婆ちゃんに心配を掛ける。
二人は、実の娘が逮捕されていっぱいいっぱいなのだ。それに加えて俺が不登校にでもなったら、それだけ心労を増やしてしまう。
流石に、声が出なくなったという説明を無しに学校に行くのは難しい。だから、その説明だけは爺ちゃんにしてもらうしかなかった。
「事情は分かりました。多野、何か困ったことがあったらすぐに先生に言いなさい」
俺は学年主任の先生に頷いて返すが、内心「声が出ないから言えるわけがない」と思う。一日経てば、結構声が出ないことも受け入れられるみたいだ。
この調子なら、すぐに元通り声が出るようになるかもしれない。
爺ちゃんを見送ってから、いつもより遅めに教室へ入る。すると、教室の中がシンと静かになる。
いつもより静かになるのが露骨なのは、あの人が詐欺罪で捕まったからだろう。この周辺に住んでいる人なら、又聞きでもあの人が俺の実の母親だという話は聞くだろうし。
俺が自分の席まで歩いて行くと、黒髪ロングの女子が背を向けて立っていた。その女子は俺の机の上を濡らした布巾でゴシゴシと拭いている。その布巾は、元々真っ白だったはずだが赤紫色になっている。
「おはよう、多野くん」
布巾で俺の机を拭いていた女子の肩を叩くと、その女子が振り返って挨拶をする。その女子は、クラス委員長の鷹島さんだった。
俺は視線を自分の机の上に落とすと、机の天板の上に滲んだ赤と黒の文字が見える。幾つも書かれた文字のうち、読み取れる文字は赤い文字で『死ね』と書かれているものと、黒い文字で『サギシ』と書かれている文字だった。
高一にもなって、他人に対する悪口が死ねとはボキャブラリーが無さ過ぎる。それに詐欺師なのは俺ではなくあの人だ。
「多野くん、もう少しで綺麗に落ちるから待ってて」
俺はそう言った鷹島さんに首を振って、もういいと伝える。そして、出来るだけ鷹島さんに気を遣わせないように明るく笑う。
「カズ! ――ッ!?」
面倒くさいタイミングで、栄次が教室に入って来た。そして、俺の机の天板を見て唇を噛む。
「おいッ! これやった奴出て来いッ!」
頭に血が上って、遠巻きに見ているクラスの奴らに栄次が怒鳴る。その栄次の肩を掴んで俺の方を向かせ、思いっきり大げさにため息を吐いて見せて首を横に振った。
「カズ……」
栄次が辛そうな顔をする。栄次に辛そうな顔をさせてしまうなら、学校に来なければ良かったのかもしれない。それに、鷹島さんにも余計な迷惑を掛けた。
でも、この手のいじめは既に、小学生の時に一通り経験している。そして、どんないじめでも全て同じ方法で対処出来る。
全て無視すれば良い。無視すれば、反応が無くてつまらないと飽きて止めていく。
そうしたら、いつも通り遠巻きでちょこっと悪口を言われるだけの生活に戻る。
今は、あの人が逮捕されたという話題があるから盛り上がっているだけに過ぎない。
だから、放って置けばいいんだ。
朝の盛り上がりが既に鎮火した放課後。俺は帰りの身支度を済ませてフッと息を吐く。
やっぱり、無視を続けていたら面白くなくなったのか、すぐに朝のような落書きはされなくなった。ただ、陰口はいつもより多く露骨だった。
「カズ! 日直があるから先に校門に行っててくれ。もうすぐ希と凛恋さんが来るし、俺もすぐに終わらせるから!」
教室に顔を出した栄次に右手を挙げて分かったと意思表示をする。栄次には昼休みも大分気を遣わせてしまった。それに、昼休みには凛恋にも気を遣わせてしまった。
最初は俺が声が出ないからメールで話していたが、途中で電話が掛かって来て、何度も何度も「私が付いてるから」と励ましてくれた。
凛恋にそう言ってもらえるのは嬉しい。でも、凛恋にそう言わせて心配を掛けているのは辛い。だから、もの凄く嬉しくて少し心がチクリと痛んだ。
鞄を持って教室を出る。
いつもは凛恋達の方が早く、校門の前で待ってくれているのだが、今日は少し遅くなっているようだ。
下駄箱で靴を履き替え、校舎を出て校門まで歩いて行く。
相変わらずいつ見てもよく分からんポーズの石膏像を通り過ぎ、校門を抜けて立ち止まった瞬間、目の前に人が立った。
「お前、面貸せや」
その正面に立っている男子の後ろには、他に四人の男子が居る。しかし、俺は目の前に居る男子を見て首を傾げる。誰だろう? と。
「さっさと付いて来いッ!」
名前も知らない初対面の男子に襟首を掴まれて引っ張られる。それに抵抗しようと体を振る。
「――カッ!?」
みぞおちに衝撃を受けて、痛みと吐き気と一緒に息が漏れる。視線を下に向けると、みぞおちに別の男子の膝が入っていた。
「五人に勝てると思うなよ」
四人の男子で俺の周囲を囲み、襟首を掴んだ男子は、腹の痛みで踏ん張りが利かなくなった俺の体を引き摺るように引っ張った。
「前々からテメーにはムカついてたんだ!」
河川に架かる橋の下、鉄筋コンクリート製の橋脚に、突き飛ばされた俺は背中を激しく打ち付ける。その衝撃に顔をしかめるより前に、左頬を殴られて俺の体は右に倒れた。
下も堅いコンクリート舗装で、冷たいコンクリートの上に体をまた打ち付けた。
「すかした顔してガン無視こいて。俺らのこと、あまりナメてっと死ぬぞ。この犯罪者がッ!」
髪を掴んで頭を引っ張り上げられたと思ったら、ローファーの硬いつま先がみぞおちにめり込む。息が詰まって呼吸が上手く出来なくなり、俺は咳き込みながら必死に空気を肺に入れようと息を吸う。しかし。息を吸うために腹筋を動かす度にズキズキと腹が痛んだ。
蹴られても、殴られても、この男子達が誰なのか分からない。制服を見れば刻季の生徒なのは分かる。だが、話した覚えもない。
名前も知らない男子達の、殴る蹴るの暴行は止む気配がない。視界の上では高笑いをする男子達が俺を見下している。
「テメーなんて生きてる価値ねーんだよッ!」
「親に捨てられて、その親が犯罪者とかクソ過ぎんだろ!」
「マジ、こいつゴミ人間じゃね? いらねーだろ、この世に!」
上から好き放題言われながら、俺はあの人の……いや、母さんの言葉を思い出す。
『あんたが生まれたせいで男に捨てられて私の人生は滅茶苦茶になったのよッ! あんたなんか生まれてこなければよかったッ!』
俺はやっぱりそれを母さん、実の母親から言われたのがショックだったのだ。
物心付く頃には、もう俺の側には居なかった母さんを、俺は心の何処かで信じていた。
俺を置いて行ったのには何か理由があって、どうしても俺を連れて行けなかった事情があったのだと。だから、その理由や事情が片付いたら、きっと俺のことを迎えに来てくれる。そう思っていた。
夏休みのキャンプで会ったミクちゃんの両親は、ミクちゃんと再会した時、本当に安心していたし、目に涙を浮かべてミクちゃんを抱き締めていた。だから俺も、いつか母さんと再会した時は、ああやって抱き締めてもらえるものだと思っていた。
でも、現実は違った。
母さんは、俺を心配するどころか、俺のことを疎ましく思っていて、俺が生まれて来なければいいとまで思っていた。
ずっとその現実から目を背けようとしていた。そんなはずない、母親という存在は子供に必ず愛情を持つものだと。でも……俺の母さんはそうじゃなかった。
「もう痛がりもしねえのか。つまんねーなッ!」
肩をローファーの靴底で踏み付けられ、ギシギシと肩の肉と骨が軋む。
「そーだ、こいつの女呼び出そーぜ」
その声が、クリアに大きく聞こえた。
「スマホあったぞ!」
「電話掛けろ。彼氏がボコボコになってるって聞けば飛んでくるだろ」
「ついでにあと女四人連れて来いって言えよ。女一人じゃ足りねーだろ」
俺のポケットからスマートフォンを抜き取り、画面をタッチする男子が醜悪に笑う。
「クソッ! ロック掛かってやがる!」
「はあ? おいテメー、ロック外せや」
頭を掴まれて起こされ、目の前に俺のスマートフォンを突き付けられる。そんなことするわけがない。こんな奴らを、凛恋に関わらせる訳にはいかない、絶対に。
「テメー! 自分の立場分かってんのかッ!」
絶対に、何があっても凛恋は守らなきゃいけない。
どんなに辛いことがあっても悲しいことがあっても、痛くても苦しくても、絶対に凛恋だけは守らなきゃいけない。
凛恋だけは、何を差し出しても、守らなきゃいけない。たとえ、それが俺の命でも。
「マジムカつくわ、このクズ」
俺のスマートフォンがコンクリートの上に叩き付けられ、更に男子の踵で踏み付けられる。これで、こいつ等が凛恋と関われる手段は無くなった。自分でその手段を断つなんて、こいつ等がバカで良かった。
「このまま終わると思うなよ」
そう言って俺を見下ろした男子に、俺は顔を向けてニヤリと笑った。
腕や足、腹に背中に腰に肩に……つまり全身がズキズキと痛む。口の中は血が滲んで鉄っぽい味で満たされ、視界はぼんやりとして不鮮明だ。
あれからどれくらい時間が経ったか分からないが、ぼやけて見える空が薄暗くなっている。もう、日が沈み始めているのだろう。
気が付いたら、男子五人はいつの間にか居なくなっていた。俺が反応さえも出来なくなって、飽きて帰ったのだろうか?
視線を動かすと、踏み潰された俺のスマートフォンの残骸がある。あれでは凛恋に連絡を取ることは出来ない。
スマートフォン以外で、俺が名前も知らないあの男子達が凛恋と接触出来る術は無い。だから、凛恋は無事に決まっている。
ああ……そういえば、あの中には凛恋の写真が入ってたんだ。惜しいことをした。でも、写真が無くなるだけで済んだならマシだ。
体を動かそうと体に力を入れると、痛みに邪魔されて力を入れられない。
凛恋達との待ち合わせをすっぽかしてしまった。怒っているかな? いや……流石に遅過ぎて心配を掛けてしまったかもしれない。もしかしたら、俺のことを探して……――ッ!?
もし、俺を探しに来た凛恋と、あの男子達が出くわしていたら?
『そーだ、こいつの女呼び出そーぜ』『電話掛けろ。彼氏がボコボコになってるって聞けば飛んでくるだろ』『ついでにあと女四人連れて来いって言えよ。女一人じゃ足りねーだろ』
凛恋が……凛恋が、危ないッ!
激痛が走る体に鞭を打って必死に立とうとする。
立て、立てよ、立てって言ってんだろッ! 動け、凛恋の無事が分かるまででいい。それまで動いてくれれば、後はバラバラに崩れてしまっても良いから。だから……動けッ!
「カズッ!」
遠くから、栄次の声が聞こえる。
「今救急車呼ぶからなッ!」
俺の近くに人が寄って来て、焦った栄次の声が大きく聞こえる。
栄次、俺はいい。俺はいいから、凛恋を、凛恋を守らないと。
「クソッ! カズッ! しっかりしろッ! カズッ!」
栄次は、俺の名前を何度も呼ぶ。こんな時、声が出せないことが辛い。凛恋を守れと言いたい。凛恋は無事かと言いたい。
「凛恋ッ!」
ドサッとコンクリートの上に物が落ちる音が聞こえ、その後に希さんが凛恋を呼ぶ声が聞こえる。
「かず……と……」
凛恋の途切れ途切れの声が聞こえる。良かった……凛恋は、無事だった。
凛恋が聞こえると、一気に体の力が抜ける。もう指一本にも力は入らない。
体には全く力が入らない。でも、視界だけは霞が晴れるように鮮明になっていく。
「そんな……どうし、て……こんな……」
凛恋が、ふらふらと俺の近くまで歩いて、俺の目の前で膝を突いた。
凛恋の体は震えているが、怪我をしたり服が乱れたりしている様子はない。
「凡人……誰が、誰がこんな……酷い、ことを……」
凛恋の顔は泣いている。でも、凛恋の顔に傷は付いてない。ずっと、ずっと大好きな凛恋のままだ。
『良かった凛恋。無事で本当に、良かった』
本当に心からそう思えた時……やっと俺は気を失えた。
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