「第12章 アイスの溶かし方」(3)

(3)

 彩子の人生に多大な影響を与えた詩織。


 自分だけではなく、父も関わり、手記という形でとんでもない物を彼女へ渡した。今でこそ、冷静に手記の話をした彼女も読んだ当時は、酷いショックを受けたと想像出来る。彼女が抱く湊慧一郎に対する感情は、憎悪が九割といったところか。本人ではないので正確な数値は分からないが、概ね正解のはずだ。


 では、詩織に対しては?


 彩子が詩織に対して抱く感情は非常に複雑で、一言ではとても説明不可能だろう。勉強を教えてもらった事から始まった関係が、まさかココまで肥大化するとは誰も考えていない。流石の詩織もそこまでは読んでいないはずである。


 透はそんな事を考えながら、彩子が聴き終わるのを待った。


 しばらくすると、彩子がハンドバックからハンカチを取り出して、涙と嗚咽を抑え始めた。そして両耳のイヤホンを抜いて、MDプレーヤーを透へ返す。


「本当にありがとうございました。やっと詩織さんの本音が聴けて嬉しいです」


「良かった。感想を言う前にトイレで化粧を直してくるといい」


 透は、視線を店内のトイレへと向ける。幸い、今は誰も利用者がいなかった。


「では、お言葉に甘えて少し失礼します」


「ああ」


 彩子はハンドバックから水色の化粧ポーチを取り出して、トイレへと向かった。彼女がトイレに入り、一人になった透は上を向き、深呼吸をする。


 そして、返してもらったMDプレーヤーのコントローラーに自分のイヤホンを挿した。


 渡した時と同じく、冒頭は早送りにして日記部分から再生ボタンを押した。


 目を閉じていると、両耳から聞こえる詩織の声がはっきりとその存在を主張してくる。死んだ人間の声だというのに、何年経っても色褪せない。


 実にクリアで抵抗なく、透の耳に入ってきた。




『私は、自分が大人になってしまう事が耐えられない。ココ数年、年月を重ねる毎に体中に解ける事ないアイスが溜まっていくのが分かる。


怖いくらいに透明で、まるで宝石のように輝く私のアイスは、時間の経過と共に緩やかに白く濁っていく。気味が悪くて、出来る事なら喉に手を突っ込み、吐き出して楽になりたい。ところが、それは決して許されず、私の中でアイスは溜まり続けていく。


 大人になるという事が、これ程の苦しみを負うなんて知らなかった。


 どんな本を読んでも対処法は載っていない。周りの大人達は、皆知っていて隠していた。酷い、信じられない。そんな大人に私はなりたくない。毎日の生活で嫌な事が起こると、アイスは容赦なく蓄積されていく。だから、救済としてこの日記には、今日まで良い事だけを吹き込んできた。


そうする事で、私は大人になる事から抵抗していたのだ。


それなのにどれだけ吹き込んでも、アイスは溶けない。だから、もうこの日記の意味は失われてしまった。どうあっても“大人になってしまう事”からは逃げられない。もう全てが嫌だ。そこで私は、最後の手段として自分で自分の命を絶つと決めた。


きっと天国までいけば、アイスは溶けてなくなり、私は大人にならずに済むと信じて……』




 イヤホンから聴こえるのは、今まで詩織がずっと心の奥に隠してきた本音。


 この遺書を始めて聴いた時の衝撃は忘れられない。倉澤と東遊園地で話した際の涙は演技ではなかった。 この遺書を思い出して、涙していたのだ。


 大学時代にも透は何回か聴いていた。慣れない酒に酷く酔って、心の鍵が緩んでいた時に聴いた日もあれば、彼女の命日に聴いた日もある。これは自分が持つのは相応しくない。詩織の母親が持つべきだと考えた時もあった。しかし、彼女の母は既に海外におり、連絡がつかない。また、別の日記の中には母親宛ての遺書は別に用意していると吹き込まれており、安心している点もある。


 以上の理由から、この日記はずっと透が所持してきた。


 これからもそれは変わらない。


 そんな事を考えていると、透の瞳もまた、潤み始めていた。詩織の声は一瞬で高校時代へと強制的に帰らせる魔力がある。上を向き、湧き上がった涙を抑えようとした。僅かに重力に沿って頬を伝う涙には、服の袖を当てる。


「先輩もトイレに行きますか?」


 いつの間にか帰っていた彩子が上を向いている透にそう言ってきた。彼は正面を向き、彼女の冗談に笑う。


「いや、大丈夫。お気遣いどうもありがとう」


「いえいえ」


 彩子の顔を見ると、表情こそ名残はあるものの、もう涙の流れた跡はない。化粧もしっかりと直っていた。透はそんな彼女の強さを感じつつ質問する。


「詩織の遺書を聴いて、どうだった?」


「驚きました」


 その後、両者に少しの沈黙が流れてから、透が口を開く。


「詩織が自殺した本当の理由は、“大人になってしまうのか嫌だったから”これが全てなんだよ。いかにも高校生が悩みそうな事だ」


「私は、詩織さんがそういう事に悩んでいたとは夢にも思いませんでした。いつも優しく笑顔を見せてくれていたのに。先輩は気付いていましたか?」


 彩子に尋ねられて、透は「まさか」っと首を左右に振る。


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