「第11章 エゴイスティックな手記が語るあの日」(8)

(8)

 それよりも早く、輪を絞めた。突然の衝撃に振り向く事が叶わず、詩織は喉から空気が漏れる声を出しながら、首元へ手を伸ばす。


 このまま湊が輪を閉じる力緩めない限り、詩織は簡単に死亡する。


 詩織を殺す事が出来る。


 湊が歓喜に震えながら、今まさに腕に力を入れようとしたその時だった。


 前方の詩織から呻き声とは別に微かな声が聞こえた。


 “何かっ、怖い事があったっ、の?”


 詩織は声を出す事だって苦しいはずなのだ。自分の指の先端を辛うじてクレモナロープと首の間に差し込む程度の抵抗では、喉を充分に守り切れない。


 そんな余裕のない状態なのに、詩織は確かにそう言った。


 その声に湊の手はピタリと止まる。誰かに操られているのかと錯覚する程に両腕に力が入らない。それどころか、次第に力は緩んでいく。


 いけない、今、ココで失敗してしまったらもうチャンスはない。そればかりか、詩織は全てを周りに話すだろう。(命を狙われたのだから、普通は話すに決まっている)そうなれば、湊は全て終わる。


仕事も家族も金も。一つ残らず消えてなくなってしまう。


 そうなってはいけない。脳内の非常ベルは鳴り響いている。全神経が両腕へと一斉にアクセスしようとしている。それなのに一向に繋がる気配はない。やがて、湊の両腕は徐々に弛緩していった。


 詩織の首に掛っていたクレモナロープの拘束が緩んでいく。


 大きく咳き込む彼女。何回か咳を繰り返した後、大きく深呼吸をして、呼吸を整える。その間、湊の両腕はずっと動かない。そればかりか、両足や口の機能まで停止していた。


 辛うじて稼働しているのは呼吸と視覚、聴覚くらいだろうか。いや、それすらも今の湊には正確に動いていると言えるか、自分では分からない。


 その場に硬直してしまっている自分自身を俯瞰で見ている。まるで夢の中にいるような奇妙な世界。いっそ本当に夢であってくれたらと湊は、心底思った。


 そこまで書いてある手記を読んで、透はホッと胸を撫で下ろした。


 詩織が湊に殺されなくて本当に良かった。湊が殺すと決めた時点で、彼女の死の瞬間を覚悟していたくらいである。


 どうやら最悪の結末だけは回避されたようだった。本当に嬉しい。涙が出そうなくらいである。


 透は震える瞳を強く閉じて、湧きかけた涙を引っ込めた。


 手記の中ではその後の物語が、湊の主観によって進行していく。


 湊は相変わらず硬直したまま、指先一つ動かせない。正面に見える詩織の髪をずっと視界に捉えたままであった。一方の彼女はもう完全に息を整えて、しばらく沈黙を守っていた。一体、どうしたのだろうか? 今なら首に掛っているクレモナロープを抜けて、すぐ出納準備室から脱出出来るというのに。彼女はそう言った行動の気配を一切感じさせない。


まさか詩織まで自分と同じように硬直状態になったのかと、一瞬考えたが、すぐにそんな訳はないと否定する。彼女が固まる理由などない。


 詩織がこうして動かないでいてくれるからこそ、湊は首の皮一枚繋がった状態を維持出来ている。もし彼女が動き始めたら、彼には止められない。


 湊は詩織が動き始める前にどうにかして硬直を解く必要がある。


 しかし、湊のそんな甘い考えは早々に打ち消された。目の前の詩織が動き始めたのだ。ゆったりとした動作で振り返ろうとしている。この時、湊の口から得体の知れない味の短い息が漏れた。声とも言えない声を出したせいで、喉に細い傷みが刺さり、軽く咳き込む。咄嗟に目を瞑り顔がやや下がった。


 湊が顔を上げた時、振り返った詩織の顔が正面にあった。


 その白く細い首にはクレモナロープの後が轍のようにしっかりと残っていた。詩織は未だに首に掛っているクレモナロープを取る気配はない。緩んだそれは、まるで自由を得ようとしている動物のようだった。


 詩織の両手が静かに上がる。何が起こるのか、湊には予想が付かない。瞳が彼女の動作に釘付けとなっている。


 詩織は上がった両手を湊へ向かって伸ばした。


 白い二本の腕が自分に向かって伸びて来た時、一瞬、詩織に首を絞められると思った。なのに不思議と、それに対する恐怖はない。それどころか、彼女に殺されるのならば、本望だとすら思い始めていた。十五分もすれば、そんな訳は絶対にないと言い切れるのだが、この時の脳まで硬直しかけた湊にはそこまでの思考力はなかった。 


 ところが、湊の予想は外れて、詩織の両手は彼の両頬へと張り付いた。触れられた瞬間、生暖かい感触がぞわりと全身を蛇のように這い回った。


 詩織と目が合う。自分の脳内を全て見透かされている錯覚に陥る。


 詩織の息遣いがはっきりと聞こえる距離まで接近する。いつもなら、興奮する彼女の甘い香りが恐怖を生んだ。彼女は、両頬に張り付いた両腕をスライドさせて、背中へと回した。それから彼女は沈黙する。


 どれくらい時間が経過したのか。一瞬にも永遠にも感じられる時間間覚の中で、ようやく詩織が行動を起こした。


 背中に回した詩織の手がトントンっと湊を優しくノックする。一回一回のノックが体全身に衝撃を与えた。彼女の表情を見る事は出来なかったが、それで構わらないと思った。


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