「第7章 大人達はすぐに騙される」(10)
(10)
それに全力で抵抗する。そのせいで、倉澤は気を付けていたのについ、言ってはいけない言葉を零してしまった。
「森野詩織さんだったら、答えを知っているのかな」
「どうでしょう? でも、そうですね。彼女なら知っていたかも知れない。彼女は賢い人でしたから」
森野詩織の名前を出してしまう事は、二人の関係を警察と生徒に強制的にリセットさせる。その事を倉澤は自覚している。しかし既に手遅れだった。もう内田の心の洞窟は完全に閉じてしまった。彼の心をあれ以上、開くつもりなら名前を出すべきではなかった。
応接室の壁掛け時計で確認すると、意外にも時間はそんなに経過していない。
いつもは早く感じる応接室なのに、こんな日に限って遅かった。
今以上の会話はマイナスしか生まない。
倉澤は話を切り上げる事にした。
「今日はココまでにしよう。わざわざ時間を作らせてすまなかった。駅まで送るよ。本当は家まで送ってあげたいんだけど、そこまでの時間は難しくてね」
「いえ、ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」
内田はソファから立ち上がる。菱田も自然と立ち上がった。倉澤は、職員室まで応接室の鍵を返しに行ってから向かうと言って、菱田と内田に先に車まで向かってもらった。
一人になった倉澤はソファに乱暴に背中を預けた。
「あ~っ! もうっ!」
あと少しだった。あと少しでこじ開ける事が出来たのだ。それを彼は自ら潰した。内田の問いかけを否定してしまった。
今後、彼が自分に心を開く事はもうないだろう。
チャンスはつい数分前に存在して、泡となり消えてしまった。いくら後悔してもし切れない。モヤモヤとした不快感が肺に溜まっていく。
一分間、倉澤は目を瞑った。何かを考えているのではなく、心を無にする為である。ただ何も考えず、周りから見れば寝ているかと誤解されるくらい、規則正しく鼻息を吐いて、肺に溜まった不快感を取り除いた。
「よしっ」
自分の膝をパシっと叩いて、その反動で立ち上がる。そろそろ行かなければ、二人を待たせてしまっている。応接室の電気を消して、職員室へ鍵を返しに行った。小渕が何か言っていたが、ほぼ反射神経で返答した。
受付を出て、外に出ると既に車が待機していた。
運転席に座っている菱田と後部座席に座っている内田。前回と瓜二つのシチュエーションだった。倉澤は すぐに乗ろうとしたが、ふと、ある事を思い付くと、車内の彼らに手を上げてから、振り返ってまた校内に戻った。
倉澤が再び外に出た時、その手には一本のコーラがあった。
今度は素直に助手席に乗り込む。
「これ、内田君に」
シートベルトを付ける前に、彼の方を向きコーラを渡した。
「ありがとうございます」
「炭酸飲める?」
渡してからでは遅いが一応確認する。内田は首を縦に振った。
「はい、コーラ大好きです。いただきます」
「なら良かった。どうぞ遠慮せず飲んでね」
そう言って倉澤は前を向く。
カシュっと炭酸の弾ける音が後ろから聞こえてきた。それをスタートの合図に菱田はアクセルをゆっくりと踏み、車を前進させる。
放課後ではあるが、授業直後ではない事に加えて、部活時間中である事のせいで、通学路に生徒の姿はなかった。
車内に会話はない。菱田は無言で運転して、倉澤は腕を組んで目を閉じている。後ろからは時折チャポンっと音が聞こえた。
何のトラブルもなく、車は駅へと到着した。
車が止まった事が分かった倉澤は目を開けて、助手席を降りた。そして、後部座席のドアを開ける。
「今日は良い話が出来て楽しかった。またね」
「僕も楽しかったです。それではさようなら」
会釈をして、手にコーラの缶を持ったまま内田は車を降りる。彼は一回振り返り、もう一度だけ頭を下げた。そして、改札の向こう側へと消えていった。
内田の姿が見えなくなったのを確認してから、倉澤は素早く運転席へと回り込む。窓ガラスをノックするまでもなく、菱田はパワーウインドーを降ろした。
「俺はこのまま内田透を尾行する。菱田は先に本部に帰ってくれ」
細かい事を説明している時間はなかった。こうしている間にもいつ電車が来てしまうか分からない。現在の時刻と、この駅が他線への乗換なしの駅という事から、甘く見積って猶予は十分程度だろう。
「了解しました。お気を付けて」
時間が無い事を察したのか、それだけを言って菱田はパワーウインドーを上げようとする。数センチだけ上がった所で慌てて止めた。
「待て待て。これ、菱田の分」
倉澤は背広のポケットから、缶コーヒーを取り出して菱田に手渡した。受け取った彼は意表を突かれた顔を見せたまま固まっている。
「今日は御苦労様。本部で成果をたっぷり話すさ。その後、飲みに行こう。三ノ宮に美味しいスペインバルを知っているんだ」
「倉澤さんの奢りなら行きましょう」
「勿論。じゃあ行ってくる」
そう言って、倉澤は改札に向かって駆け出した。
既に内田はホームに出ているはずなので、全力で駆けてもバレはしない。捜査用のIC定期券を改札にかざして、駅構内へと入る。
発車標を見ると、次の地下鉄が来るまで残り二分足らずしかなかった。
内田の家の場所は知っているので、二つあるホームのどちらなのかは分かる。倉澤は迷わず一番ホームへと繋がる階段を駆け下りて行った。ホームの階段付近に彼がいたら、アウトだったが電車に乗り遅れる可能性を考えると、背に腹は代えられない。
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