そいつらは川からやってくる

 秋に差し掛かった頃、自宅で友人と晩酌していたら突然、ドアを叩く音がした。


「おーい。誰だ、こんな遅くに?」


「わからん。しかし、ただ事ではないような気がする」


 繰り返されるそのノックの音には緊迫感があった。何であれ無視するわけにもいかない。できればそうしたいが。

 足に力を入れてソファから立ち上がると関節が鳴った。

 厄介事はできれば避けたいところだ。日々、衰えていく体に鞭を入れるような気分で玄関に向かった。


「ああ、すみません! 妻が、妻が川で溺れて、わ、私は泳げなくて……」


 ドアを開けるなり、メガネをかけた男がそう言った。

 この家のすぐ近くに川が流れている。考えるまでもなく、そこの事だろう。

 この男、水を滴らせていることから、助けようと反射的に川に入ったものの二人で溺れてはと思い、断念。それで近くの民家に助けを、と。まるでフルマラソンでも走ったかのように息を荒げ、ぐっしょりだ。

 さて、どうするか。なんて考えている時間も、まさか無視するわけにはいかない。

 俺は後ろを振り返り、部屋の奥から顔を覗かせている友人と目を見合わせて頷き、一先ずはライト片手に川辺に行くことにした。


 心地の良い夜だ。川のせせらぎ、虫の声。風が背の高い雑草を揺らす音。

 酒が入っていることもあり、歌い出したいくらいだ。こんな状況じゃなきゃな。

 なあ、と俺は隣にいる友人に目くばせしたが友人は黙ったまま、ただ男の足を見つめ歩いていた。


「どの辺だ?」


 俺はライトを川へ向けた。どす黒い、墨でも流れてるんじゃないかってぐらい黒かった。

 そういや今夜は月が出ていない。

 それに気づくと梯子を外されたような気分になった。

 なあにが、心地良い夜だ。不気味な雰囲気が漂っているじゃないか。

 川に近づいた途端、虫の声も、風も止んだ。生ぬるい空気だ。

 川の音もラジオのノイズのように不快だ。

 男が取り乱しながら川を指差す。

 俺と友人はそこに光を当てたが、まぁ見つかるわけないわな。この川の流れはさほど強くないが、溺れた人間がその場に留まっていられるほど弱くはない。


「そこですほら! そこに!」

 

 だが、男はまるでそこで自分の妻が溺れている真っ最中のように言う。目を見開いて指さしてな。

 俺と友人は一歩、川から遠ざかった。

 足元の石ころを鳴らさないように慎重にな。逆に、男は熱を帯びたように一歩進んだ。

 やがて、振り返った。真顔でな。裏切られたって顔だ。奴は俺たちが隣で見てくれていると思ったんだろう。そのまま一緒になって川に入ってくれるとまで思っていたかもしれない。


「どうしたんですか? 黙ったままで……。変じゃないですか」


 奴は静かにそう言った。絶望したような顔だ。

 ライトの光にメガネが反射して、見えなかったがそのメガネの奥の目は川のようにどす黒い気がした。


「私の恋人がそこで溺れているんですよ……助けてくれないんですか?」


「妻じゃなかったのか」


 俺はまた一歩下がった。


「ええ、妻ですよ。そう言ってるじゃないですか」


「いや、あんたは今、『恋人が』と言った。何ならさっきも歩きながら小声で言ってたぞ」

 

「じきに妻になる人です。婚約者ですよ。つい気持ちが急いて言ってしまいました。

それよりもほら! 彼女のおなかの中には赤ちゃんがいるんです! このままだとその子もどうなるか……」


「初耳だな」


 友人が呟いた。彼はいつの間にか俺よりも、もう二歩ほど後ろに下がっていた。


「何してるんですか! 早く! あぁ三歳の娘も一緒に溺れているんです! どうか、どうか助けてください!」


「あんたの言ってることは滅茶苦茶だよ。こう言って駄目ならああ言うって感じだ。何が何でも川に近づいて欲しいみたいにな」


 男はこうして俺が距離を広げながら話している間も川のそばから離れようとはしなかった。


「助けてはくれないんですね」


「ああ」「そうだ」


「……わかりました」


 男はそういうと俺たちを見つめたまま、一歩ずつ後ろに下がり、一度も目線を切らずに川の中へ入っていった。

 また、俺たちも奴から目を逸らさずにいた。完全に奴の姿が川の中に消えるまでな。


 誰の声もしなくなった。川の流れる音だけが聞こえるようになったとき、友人が大きく息を吐いた。俺もだ。いつの間にか息を止めていたらしい。


「やばかったな」

「ああ」


「戻ろうか」

「ああ」


 多くは会話する気になれなかった。家に置いてきた瓶に入った酒の残りを丸々胃に流し込むまではな。

 俺たちは川から十分に距離(もし何かが飛び出してきて俺たちを引きずりこめる距離だ)をとるまで川に背を向けずに歩いた。

 そして自宅に戻り酒を、新しい瓶まで開けて飲んだ。

 夜だし夏よりも涼しくなったとはいえ、まだまだ暑い時期だ。

 それなのに体はたっぷりと川に浸かったみたいに冷え切っていた。

 俺たちは話した。他愛のないことを。先ほど一件には触れずにな。

 ただ、友人が帰り際に一言、あの風習だけはやめたほうがいいなと言った事に、俺は黙って頷いた。


 この町、それも古い連中の中には死んだあと、墓じゃなく川に骨を流す奴がいる。

 昔ながらの風習だと言ってな。聞いた話だと何十年、何百年と続いているらしい。そのせいか時折、あの男みたいな奴が現れるんだ。

 日の出ているうちは現れないから、まあ騙される事はない。引っ越ししたての新入りでもない限りな。

 俺は瓶に僅かに残った酒を飲み干し、そのままソファで眠りについた。悪夢を見ないことを願いながら。



 それから一週間後の晩。ドアを叩く音がした。

 テレビを消して雨音に耳を澄ましてウトウトしていた俺は椅子から飛び起きた。


「頼む、助けてくれ! 泊まりに来た息子一家が川に連れてかれちまったんだ!」


 ドアを開けた俺に縋り付くようにして友人が言った。


「孫が、まず孫が川に連れてかれちまったみたいで次に息子夫婦が……頼む、何とかしてくれ!」


 俺はすぐに玄関に置いてあったライトを掴み、友人の背に続いて歩いた。


「すまないな。すぐに家に引き返してロープを持ってきたんだ。でも一人じゃ無理だ」

 

 友人は振り返らずにそう言った。


 ああ、気づいていたさ。

 俺がドアを開けた瞬間、玄関の前に立っていた友人の周りに水溜りができていたことに。

 あいつの体から滴り落ちた水がコンクリートのひび割れに吸収され、黒い血管のようになっていたのさ。


 川は雨のせいかいつもより流れが強かった。

 友人はロープを体に巻きつけ、俺に持っているように言った。

 川を指差してまだ、あの辺りで息子夫婦と孫が沈んでいると言うんだ。やつらに体を掴まれてな。


 俺がロープを腕に巻きつけたのを確認すると友人は頷き、川に飛び込んだ。

 ロープがヒュルヒュルと伸びていく。

 やがてピンと張り、俺の腕を引っ張った。

 俺はそれを両手で引っ張った。


 すごい力だった。

 川の中に奴らが何人いるかは知らないが到底抗えるものじゃない。

 俺の体がズリズリと川に引き寄せられていく。

 でも俺も馬鹿じゃない。ロープをすぐに腕から外せるようにしていたのさ。

 俺がちょいといじると、ロープはスルスルと腕から抜けた。

 そして逃げる蛇みたいに河原の石の上を駆け、あっという間に川の中に消えていった。


 俺はしばらく黙ったまま川を見つめた。

 やがて静かな夜が戻ってきた。家に帰った俺は椅子に座り、酒を飲んだ。

 頭からツッーと垂れ、口に入った雨水と混じりあい、一口目は薄く感じた。


 友人は傘をさしていなかった。


 俺はまたドアが叩かれるのを待った。耳を澄ましてな。

 でも聞こえるのは雨音と耳の中で残響する友人の悲鳴だけだった。

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