理想の息子

 理想の一家。程度の差こそあれ、皆それぞれ持ち合わせ、また志していることだろう。

 小金井家も理想を体現しようとする一家の一つだった。

 夫である善彦は自身が将来を見据える年齢に達したころから完璧な妻、完璧な息子を求め、同じく、妻である友恵は完璧な夫、完璧な息子を求めていた。

 そんな二人が出会い、生まれたのが正一である。

 友恵は息子正一に英才教育を施すことを善彦に提案し、善彦もこれを快く(むしろ自分が言い出したかったと少しの不満はあったが)了承した。


 正一は小学校に上がって早々に、二つの塾に通うことになった。

 二年生時には家庭教師も雇ったがこれは半年でやめた。

 理由は小金井家の汚れだ。正一が小学校に入学の際、隣の家のインターホンを押して隣人を呼び出し、家の前に三人並んで撮らせた写真の白い一軒家の中は、その時にはまだ僅かな水垢程度だったが、汚れは次第に勢力を広げ、今、家の中を支配しつつあった。

 原因は一家の掃除嫌いにある。

 夫の善彦は妻が掃除から何から全ての家事を行うべきで、自分は稼ぎに出ているのだから手伝う必要はないと考えていたし、妻である友恵は家政婦をなぜ雇わないのかと、夫に非難の目を向けていた。

 息子の正一はというと、掃除に費やす時間を勉強に回したかった。

 これは夫婦の理想。期待に応えるためである。


 さて、とは言うものの友恵は一切の家事をやらなかったわけではない。

 結婚当初から正一が物心つくまでは主婦らしくスーパーに買い物にも行ったし、料理、洗濯、掃除等、家事をこなした。

 しかし、自身は家庭に納まる器ではないと自己判断し、仕事を探した。といってもスーパーのレジ打ち等、凡庸な仕事の求人広告は端から目には入れていない。運よく見つかった理想的な仕事。ブランド品の接客業のアルバイトに就いてからというもの、家の中に手が及ばなくなったのだ。

 当然、善彦はそれをよく思ってはいない。ドアを開けたその風圧で菓子パンの袋が転がる家など彼の理想とはかけ離れていたのだから。


「許可しない!」と善彦は友恵を糾弾するのだが、友恵も負けてはいなかった。善彦の稼ぎの少なさを逆に糾弾したのだ。

 と言っても決して稼ぎが悪かったわけではない。ただ、友恵の理想に比べて少なかっただけで一般的な収入、およそ十分ではあった。やりくりすればの話であるが。


 こうした劣悪な環境にあっても正一は夫婦の理想の息子への道を淡々と歩んでいた。

 夫婦の理想の息子とは難関校への合格、そして大企業への就職。あるいは夫婦が他者に自慢できるような仕事に就くことである。

 幸いにも正一の頭は悪くなかった。テレビ、漫画、遊びを許可しない善彦の教育方針の下、このまま進めば夫婦の理想を体現できるだろう。

 夫婦は自分たちの喧騒が、自室を与えられ、机に向かって勉強をする正一の手を時折止めることに気づきもしないで(正一が自分の部屋のドアを閉めることは善彦に許可されていない。勉強をサボらないか様子を見るためだ)互いを罵り合った。


 積もり積もった不満。ぶつけ合いはついにある夜、離婚の話し合いへと発展しようとしていた。

「許可しない」と「許可する」これが口癖の善彦も流石にはっきりと言うのには躊躇いがあった。

 離婚歴など自分の理想とはかけ離れている。そしてそれはこれまでの全てを否定するように思えてならなかった。たとえすでにいくつかの綻びが見えていようとも。


 友恵はすでに自身の判断ミスを認め、全てを捨て去り、過去は箱に仕舞い込み、また新たな理想の家庭を作り上げようと頭の中で妄想にも似た未来図を思い描いていた。


 この話し合いの場には流石に正一も呼ばれた。

 ただ、まだ正一には伝えていない。夫婦は正一がまだ何も知らないと思っている。

 家族揃っての居間での食事は久々だった。

 ハンバーグ(買ってきたものだ)にナイフとフォークを入れて適切な量を口に運ぶ。

 正一のテーブルマナーには寸分の間違いもなかった。

 ただ、このハンバーグはまた口論のもとになった。

「高い奴だろう」「そうよ」「金ないんだぞ」「貴方の能力が低いからでしょ」


 これまで何度も繰り返されたようなやり取りだ。

 その間、正一は静かに放課後、川を眺めていた時のことを思い返していた。

 一見美しいが、その水を飲めば腹を壊すだろう。本当は汚いからだ。底をちょっと突けばヘドロが舞い上がるだろう。おまけにその下には誰かが捨てたゴミが埋まっているかもしれない。

 ……では空はどうだ?  

 美しいが、この空の下には人の悲しみや痛みが絶え間なく湧き出ている。耐え切れずに悲鳴が体の内から出ても。タバコの煙のようにやがて空気と溶け合い消えていく。

 けれども確かにその空気は汚れている。

 この家もそうだ。床は当然汚れているからいいとして壁や天井は新築故に綺麗だが、両親の醜い口論を浴びて、汚れてはしないか? 空ほどは広くないこの家は限界が近いのではないか?

 

 それを裏付ける一言が、夫婦の口から同時に飛び出た。


「離婚だ!」「離婚よ!」


 さらに相手を罵倒しようと夫婦揃って息を吸い込んだ瞬間だった。


「許可しない!」


 夫婦は同時に正一を見た。

 溜め込んだ空気はただ漏れ出た。


「許可しない! 許可しない! 許可しない! 許可しない!」


 ナイフとフォークを握った手をテーブルに叩きつけながら正一が言った。


 それを夫婦はただ黙って見ている。

 息子が壊れた。

 原因はどっちだ。そしてどちらが壊れた息子を引き取るんだ? 

 そんなことを考えながら。


 正一は手を止め、深く息を吐いた。

 そして父である善彦に言った。


「パパ、痴漢してるでしょ。会社に知られたら不味くないの?」


 善彦は目を見開き、口をぽっかりと開けていた。それを目にした友恵は事実だと悟った。


「ママ、万引きしてるよね。それも警察に言おうか?」


 今度は善彦が友恵のほうを見た。そして同じく事実だと悟った。


「まだまだあるよね? 全部知っているよ。証拠もスマートフォンに撮ってあるよ」


 夫婦の理想とかけ離れた行動、共にそれは高すぎる未来図との乖離からくるストレスによるものだったが、それをなぜ正一が知っているのか。

 険悪な両親の仲を察した(元々、隠す努力を怠ってはいたが)正一は両親のあとをつけ、その弱みを握ろうと考えた。

 そして両親の悪癖を知った正一はそれを叩きつける瞬間を待っていたのだ。


「すまなかった……」「ごめんなさいね……」


 二人は正一に謝った。

 自らを恥じ、正一を追い詰めていたことを反省した。

 それは自己保身ではなく自らの愚行を突きつけられ、理想からかけ離れた矮小な自分の本当の姿を見せられたからだった。

 これからは高望みはやめ、このローン苦しい一軒家も手放そうかと夫婦は和やかな雰囲気で話し出した。

 これからは仲むつまじい家族になろうと。

 その様子を正一はただ黙って見つめていた。

 そしてある結論を出した。


 この両親は自分の理想ではない。


 正一は再びフォークをハンバーグに突き刺し、口に運んだ。

 そして、目を閉じてその味を噛み締めながら、想像する。


 ――ああ、なるほど。確かに楽しいな。


 正一は両親のように未来図を描くことの喜びを初めてその胸に感じた。

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