殴る男

 駅のホーム。人の間をくぐり抜け、階段を駆け上がる。

 求めていた約束の地、楽園、安住の住処、懺悔の箱。念願のトイレに足を踏み入れたというのに、山本はピタッと動きを止めた。

 嫌な予感はしていた。トイレの中に入る直前、その不吉な音は耳に入っていたのだから。

 押し寄せる便意の前では靴に入った砂利程度。しかし、こうして映像とあわせると、一歩後ずさりするほどの迫力があった。


 ――ガン

 ――ガン!


「だえあいまかー!」


 男が訳のわからないことをブツブツ呟きながら壁を叩いているのだ。

 その男が拳を打ちつけている位置は血が散らばり、床にまで赤い線を引いている。

 どれだけの時間、そうしていたのか。また、いつまでそうしているのか。男がいる場所はトイレの一番奥の壁の前。向かい合う大便器の個室と小便器の間だ。

 大便器は二つ。幸い、他の人間はいないからどちらも空いている。山本の目標は当然、大便器。問題は手前の個室が和風だということだ。

 洋風がいい、と言うか彼はそこでしか用を足せない。そういう性分だから仕方がない。

 洋風はあの男の近く。扉は内開きだから男に当たることはない。という事は問題ないか?

 いや、こうして考えている時間が問題だ!

 腹は唸り声を上げている!

 そう考えた、いや、もう何も考えられなくなった山本はさっと奥の個室に入り、鍵を閉めた。



 ……神よ、感謝します。


 山本は息を吐き、胸の前で芝居がかった十字を切った。

 彼は無心論者だ、こと腹が痛いときのトイレの中以外ではだが。

 その山本が肛門から伝わる快感に顔を緩ませていると


 ――ドン!


 突然、扉が震えた。


 ――ドン! ドン!


 間髪入れず二度目。気のせいかと思うことすら許されない。快感と恐怖が入り混じり、彼の肌を粟立たせた。


 ――ドン! ドン! ドン!


 扉の金具が揺れるほどの強さ。このノックは紛れも無く、あの男によるものだろう。

 山本は一瞬「入ってます」と返答しようかと思ったが順番待ちの催促ではないことはわかりきっていた。


 ――ドン!


「だえあいまかああああああー!」


 山本は頭を抱えた。

 何があの男をこちらに惹きつけたのか。

 排便音がうるさかったから? 臭い? それは仕方ないだろう!


 ――ドン! ドン!


 ――ガラガラガラ!


 威嚇のつもりでトイレットペーパーを豪快に取ってみた山本。しかし……。


 ――ドン! ドン! ドン! ドン!


「だえあいまかああああー! だああかああぁぁ!」


 効果は無いどころか逆効果だったようだ。すごい圧だ。息苦しさを感じた山本はネクタイを緩め、大きく息を吐いた。


 どうする? 過ぎ去るのを待つ? 誰かが駅員か警察を呼んでくれるのを期待する? それとも、扉を開けて勢いよく飛び出すか?

 ……そうとも、何をビクビクしているんだ。

 こっちに落ち度はないんだ。助けなんて期待しても無駄だ。どうせ来ないだろう。ん? 何故そう思った? ……まあいい、やると決めたんだ。手洗いは……この際しょうがない。気にするな。一気に外に飛び出すんだ。よし、行くぞ!

 そう考えた山本は尻を拭き、ズボンを上げた。覚悟を固めたその時だった。


 ……なんだこれは?


 扉の隙間から漏れ出てくる煙。その勢いは凄まじく、あっという間に山本の体を包んだ。


 まさかあいつ、新聞紙かトイレットペーパーか何かに火をつけたのか!?


 咳き込む山本。恐怖と絶望は苛立ちに。そして怒りへと変わった。 

 とんでもない野郎だ。頭がイカれてやがる。だが、それで何を下っていいわけじゃないんだぞ。ああ、いいとも。それを教えてやる。出た瞬間、肘打ちしてやるんだ。よし……やってやるぞ。

 山本は扉をキッと睨むと、鍵をスライドさせ、扉に触れた。


 ……開かない。内開きの上、鍵さえ外せば自然と開くようになっているのにもかかわらず、なぜか開かないのだ。

 上の隙間から手で扉を押さえているのか?

 そう思い、視線を這わせるも煙が遮り目が沁み、更に咳き込んだ。

 クソ! と悪態をつき何度も扉を叩く。

 その最中、山本は声を聞いた。

 囁くような。

 いや、違う。

 扉の向こうからだ。

 山本は扉にピタッと顔をつけた。




「これだけやっても返事が無いんだ、次行こう」

「そうだな、音を聞いた気がしたんだが……」


「おーい! 手を貸してくれ!」


「あっちだ、行くぞ」

「ああ」


 遠ざかる慌しい足音。

 その振動が僅かにだが頬に伝わり山本はハッと目を見開いた。


 あれ? 何故、俺は床に?

 それにここはどこだ……。

 トイレじゃない。

 ……ああそうか。

 あのノックの音は……。


 バチバチと燃え盛る炎の音。

 ノックの音はもう聞こえない。

 扉から垂れた血がナメクジが這った跡のように扉と山本の手を赤い線で繋いでいた。

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