どうすんの?

「どうすんの?」


 ソレが俺の母親の口癖だ。

 どうすんの? どうすんの? どうすんの? ガキの頃から俺にそう聞くんだ。

 何食いたいか。何が欲しいか。どこ行きたいか。

 聞くだけ聞いて意見を尊重したと思っていやがるんだ。

 いいや、ただ聞くだけさ。

 コレが食べたい。いや、コレにしなさい。

 コレが欲しい。コレにしときなさい。

 結局決めんのはアイツさ。


 ――アンタ、どうすんの?


 成績が下がった事がバレたときにそう言われた。

 いや、正確には初めから俺は下だった。名門校に入ったものの順位は下から数えたほうが早かった。

 母親は頭悪いのにテメエの息子が賢いと思っていやがる。そして俺に人生とはこうだと説くんだバカのくせにな。


 あいつの髪の毛を引っ張った時に「ああ、やっぱりな」って思ったんだ。

 腹が出た醜い体形の割りに意外と軽かったんだ。

 ははははは。頭の中が空っぽなんだ。

 壁に叩きつけたらヒステリックに滅茶苦茶喚いたよ。

 その時、俺の中に不快感よりも目覚まし時計を止めるように「早く静かにさせなきゃ」って義務感が芽生えた。

 だから金槌で頭を叩いてやった。

 すげースッキリ。

 なんか頭がフワフワした。

 夢心地って言うの? きっと女を抱いたらこんな気分なんだろうな知らねぇけど。

 でも目を見開いたまま動かない母親を見て、ここから離れたいって思ったんだ。

 はははは。死体って気持ち悪いんだな。で、家を飛び出した。


 財布に貯金箱の金を詰めたのは我ながら良い判断だったと思う。

 膨らみ、重たくて自分がすげー金持ちになった気分、全能感。でもポケットに入れたらなんか勃起してるやつみたいで恥ずかしかった。ああ、実際してたかも。はははは。

 自転車に飛び乗って思いっきり漕いだ。思いっ切り笑いたかったけど注意を引きたくなかった。後々警察にチクられるかも知れないだろう? でも結局笑った。大声で。すると本当に愉快な気持ちになったんだ。

 後ろを振り返ると俺の家の屋根が小さくだけど見えた。あの家の廊下でアイツがくたばっている。まだ夏前なのにもう腐り始めてんじゃねぇかなって想像したら口の中が酸っぱくなってそのまま地面に吐いた。


 ハンバーガー屋の前に自転車を乱暴に止め、店内に入った。

 頼んだのはオレンジシュースとハンバーガーとポテトのSサイズ。

 来たのいつ以来だっけって頭の中かき回したけど思い出せない。母親は見栄っ張りでこういう店には入らないのが上品だと思っていた。ケッサクだな。自分が何か高尚なものだと思い込んでいるんだから。てめえの旦那と息子を見れば違うって事がわかりそうなものなのにな。


 ジュースは喉を通ったがハンバーガーは駄目だ。ポテトは三本目でギブ。Sサイズを頼んで正解だった。食い物を無駄にするのは駄目だろう?

 脇の下が汗で気持ち悪い。背中もだ。この時期は店内のエアコンが弱い。ジュースを頬に当ててみたが、大して涼みはしなかった。フワフワとした気分が余計に増した。

 なんだこれ。ああ、眠いのか俺は。昨日は特に寝付けなかった。それもそうだよな朝になったらあの母親の頭をかち割ってやろうと考えていたんだから。

 包んだままのバーガーを枕にして目を閉じた。温かくて気持ち悪い。けど顔を上げる気はしなかった。


 目を覚ますともう夕暮れ時だった。

 店を出た俺は気づけば家のほうに向かっていた。

 習慣かな。バカだよな。でも犯人は現場に戻るって言うし、不思議なことじゃないよな。それに汗かいた服を着替えたいし、ついでにシャワーを浴びたい。家のどこかにある親の金も持ち出して逃げればいい。うん、そのほうが得だ。薄暗くて俺の顔は見えにくいだろうし、パトカーが家の前に止まっていたら引き返せばいい。なんて理由を付けても、俺はどこかに行くのをビビッているんだ、きっと。


 家の前にパトカーはなかった。まぁそうだよな。死体が見つからなきゃ警察は呼ばれない。父親の帰りはまだだろうしな。

 ……だとしたらおかしい。玄関の灯りがついている。

 俺がつけた? いや違うな。

 自転車を家の前に止め、門を開ける。鍵は開いていた。俺が飛び出したときのままだ。ドアを開け、中に入った。


 トントントンとまな板の上で包丁を動かす音。

 いつも通りだ。あるはずの母親の死体がない。血痕も。

 俺は靴を脱いで、キッチンとリビングへのドアノブに手をかけた。

 ゆっくり、音を出さないように開ける。

 料理をする母親の背中。変わらない。有り得ない。母親は治癒能力持ち? ウルヴァリンみたいな。ウルヴァリンって死んだっけ?

 ま、有り得ないわな。そうだったらきっと何者かになってたはずだ。情けねぇ旦那の妻でもなく、クソみてぇな息子の母親じゃない何者かに。

 じゃあ、これは何だ? 親殺しのショックで俺の頭がイカれちまったってことか? それともイカれてたから殺しちまったのか。ははは。順序がわからねぇ。何なら殺したことは俺の妄想か? だとしてもイカれちまってる。とりあえずやるべきことは確かめることだ。俺の幻ならそこまで。リアルならもう一度殺してやればいい。……できんのか? 正直ビビッちまっている。


 俺は母親に近づき、肩に手をやった。

 でも振り向いた母親の顔を見て、俺は度肝抜かれた。

 ヒビが入っているんだ。ギリギリ割れない卵みたいに。


「お」


 声を出そうとした俺は腹に痛みを感じて視線を落とした。

 突き刺さった包丁からジワッーて、俺の薄汚れた白Tシャツに赤いのが広がってく。小便漏らしたガキのズボンみたいに。


「どうすんの?」


 母親が俺に言った。

 それはこのままだとアンタ死ぬけど、どうする? って意味か?

 どうすりゃいいんだよ。助けてくれとでも言えばいいのか? 俺がヒビ入れたアンタに。


「どうすんの?」

「どうすんの?」

「どうすんの?」


 繰り返される質問。バカ。クソババア。もう喋る元気ねぇよ。



 ブラックアウト。目覚めたら俺は冷めたバーガーに突っ伏してた。夢だ。夢オチ。しょーもな。

 俺はフラフラと自転車に乗り、引き寄せられるように自宅に向かった。安心したかったからだ。本当に夢だと。じゃないと、この震えも鼻の奥でするアイツの臭いが消えない気がした。


 でも玄関の灯りはついていた。

 あの夢の通りだ。

 ドアの鍵は開いていた。

 コレも夢の通り。

 キッチンのほうに明かり、んで調理の音。

 よせばいいのにドアに手をかけた。


 キィーって音が鳴り、トントントンって調理の音が止まった。

 アイツが振り返る。

 その顔はヒビ割れていて亀裂に赤いペンでなぞったように血が滲んでいた。

 すごい速さだった。両手に持った強力な磁石が、手を放した瞬間引き合ってカチッと音を立てるように。

 アイツはドッドッドって裸足でフローリングを駆け、俺の腹に包丁を突き刺した。


 まただ。これはまた包丁で刺されたことを言っているんじゃない。

 俺はまたバーガーの上で目を覚ました。なんだか妙な臭いがして俺はぱっと顔を上げた。

 バーガーからだ。腐ったような臭い。こびりついた臭いを消したくて俺は顔をゴシゴシ擦った。


 俺はそのまま店を飛び出した。自転車に乗るのも忘れて家と反対方向に走った。


 でも結局辿り着いちまった。

 あの家の前に。


 どうすんの?


 これは俺の脳内でした声だ。

 どうすりゃいいんだろうな。


 どうすんの?


 俺が今すぐここから離れても、この声は聞こえ続ける。そう思うくらい、はっきり聞こえるんだ。消えねぇ。


 どうすんの?


 運よくどっか住み込みのバイト見つけて転がり込んでも。女抱いてるときも。産まれたガキ抱っこしてるときも。この声は。


 どうすんの?


 いや、そもそもこの町から出られる気がしねえ。どんどん状況が悪くなっていってる気がする。


 どうすんの?


 頭が割れるように痛い。


 どうすんの?


 家みたいだ。

 自分の頭が家。

 脳が俺。

 狭い。出られねぇ。

 てめぇで頭かち割るまでは。


 どうすんの?


 顔を手で触ると皮膚がボロボロと落ちた。

 蛇の脱皮みてぇに。

 髪がごっそり抜けて、鼻も耳もポロッと型を取ったみたいに薄い皮膚が落ちていく。

 でも下にあるのは俺のものじゃなかった。


「どうすんの?」


 取れた唇の下からでた新しい唇がそう言った。

 アイツの声だ。

 アイツが、母親が俺の中にいる。


 そうだ、ヒビ割れているのは俺だ。

 俺の体。それにアスファルト。

 卵白みたいに体から溢れ出てきた血がアスファルトのヒビの中に染みこんでいったんだ。

 置いてきたはずの自転車がひしゃげて倒れてタイヤが回ってら。

 俺を笑うようにカラカラカラカラカラってな。


 ああ、そうさ、もうとっくに捕まっちまってたんだ俺はさ。

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