雉白書屋短編集

幸運のスプーン

　そのアンティークショップに訪れた青年は一度店の外に出て、休業中の札がどこかにないか確認した。

　なぜそうしたか。そこが余りにも無秩序だったからだ。商品の陳列が雑で、棚や床に無造作に置かれている。壁の至る所に時計が掛けられていて音を立ててはいるが全てではない。鳩時計の小窓から飛び出したままの鳩のその首には、くすんだ光沢を放つ金の細いネックレスがかけられている。

　そして天井からいくつもの照明と飾りが吊るされており、スペースの有効活用とはお世辞でも言い難い。

　青年がこの店に入ったのは只の興味本位からだった。この店にはそういった類の客がたまに訪れる。大抵の者は店の中をぶらつき、嘲笑混じりの溜息をつき何も買わずに出ていく。それ以外の少数の者は気になった商品を手に取り、店主を探す。

　この青年は後者だった。

　青年は口笛で呼ばれる、あるいは服の裾を摘まれた様な感覚を抱き、辺りを見回した。

　そして、棚に置かれていた銀のスプーンを手に取ると、まじまじと眺めた。

　これだ、このスプーンに呼ばれたような気がしたのだ。

　青年はスプーン、更にそれが置かれていた棚の下まで探したが、どこにも値札がついていない。なので店主を探した。

　そう大きくない店だが見つけるのに思ったより時間がかかった。店主のお爺さんは本に囲まれて、その姿がチラッとしか見えなかったのだ。

　青年は店主に近づくと訊ねた。

「これ、いくらですか？」

「……値はないな。持って行っていいよ」

「え、タダ！？」

　青年は少し驚いた。商売っ気はなさそうだがそこまで気前がいいとは。しかし……。

「造形も凝っていて高そうなスプーンなのに何か理由があるのですか？

たとえば、曰く付きとか……」

　そんな訳ない、あっても迷信だろうと思いつつもどこか不安、それに期待のようなものを胸に青年はそう疑問を投げかけた。

「……いや、それは幸運のスプーンだ。持ち主の願いを叶えてくれる」

　思った以上の答えだった。しかし、今度は驚かなかった。聞いておいて何だが、店主の小粋なジョークだろう。

　青年は、はははは、と笑って見せたが、店主は顔に刻まれた皺一つ動かさない。

　どこか気まずい空気が流れ、青年は小さく咳払いをし、店主に訊ねた。

「それはすごいスプーンですね。でも、本当にこれが幸運のスプーンなら

あなたがそのまま持っていれば良いのでは？　どんどん願いを言ってそれで……」

「私はもう願いを叶えて貰ったからね。恐らく一人につき一回のみだろうな……」

　なるほど尤もな理由だ。そして、考えてみれば、そもそも疑う意味がない。何も幸運を謳い文句に高く売りつけようとしているわけではない。タダなのだ。曰く付きなら捨ててしまえば良いだけ。

　いや、そもそもナイフならともかくスプーンにどんな曰くが付いているというのか。

　そう考えた青年はスプーンを貰い受けた。

　家に帰った青年は満足気にスプーンを眺めた。

「さて……まずは磨いてみるとするか」

　銀製ではあるがとってつけられたような汚れがあり、気になった青年はスプーンを磨き始めた。

　そして、スプーンが輝きを取り戻した瞬間、青年の目の前に銀色に輝く女が現れた。

「も、もしや君、いや、貴女が願いを叶えてくれるのですか？」

「ええ、そうよ。言ってみなさい」

　もはや疑う余地はない。二秒ほど店主に頭の中で感謝を述べ、そして脇へ追いやった。思考力は大事なことに使わなければ。そう、今こそが人生で一番大事な瞬間だ。

「……俺を大金持ちにしてくれ！　ただの金持ちじゃなく、世界一の大金持ちだ！」

　単純だがやはりこれがいい。金は大抵の物と交換できる。まだ若い彼は不老不死や永遠の若さといった願いに然程、興味を持たなかった。

「ええ、いいわよ。そうねぇ……まずは私にチョコレートをちょうだい。で、その次はねーえ……」

「……あ、ああ勿論だ！　まず俺を大金持ちにしてくれたら、チョコなんていくらでも買ってあげるよ。だから早く頼むよ」

　青年はもはや興奮を抑え切れなかった。

　しかし、銀色に輝く女は呆れたようにため息をついた。そして空気を吸い込むと一気に捲くし立てた。

「あのねぇ、世界一の金持ちになるなんて簡単なことじゃないのよ？

すぐにしてくれって言われて、はい、そうしますなんていうわけにはいかないのよ。

ものすごく魔力が必要なんだから。

あなたが私の願いを叶えてくれてくれれば魔力が貯まるのよ。さ、ほら早く早く」

「じゃ、じゃあ、俺の願いを叶えてくれるのはいつになる……？」

　頭を殴られたような衝撃。答えは半ばわかっているようなものだが、青年は訊かずにはいられなかった。

「そうねぇ、六十……七十年くらいかしら？　尤も私の願い事をちゃーんと全部聞いてくれたらの話だけど」

「い、いや、そんなに待てるか！　その頃には俺はヨボヨボの年寄りになってしまうじゃないか！　取り消しだ取り消し！」

「ざーんねんキャンセル不可でーす。

でも世界一の大金持ちになれるんだからいいじゃない。

アンティークショップの彼も自分の店を出したいって願いに

四十年かかったのよ。ま、特別な商品を揃えたいって話だったからだけど。

あ、私を捨てようなんて思わないでね。

貴方の願いを叶えるまでついていくから。

さ、さ、はやーく！　あーあ、歌でも歌おうかしら！

チョコを～くれるまで～わーたーしぃーう～た～うことやめな～い！」

　割れたガラスを擦り合わせたような歌声だった。

　青年はスプーンをポケットにしまい、すぐさま家を飛び出した。向かうところは当然あの店だ。一瞬、煙のように消えているなんて想像をしたが、店は変わらずそこにあった。

　勢いよくドアを開けたので積み上げられていた商品の山が崩れた。

　煩わしそうにそれをかわし、店主のもとへ行くと青年はポケットからあのスプーンを取り出した。

　魚眼レンズで見ているようにスプーンには銀色の女が映っていた。

　青年は嫌そうな顔をしたあと、店主のほうを向き直し、言った。

「おい、この……い、いや、あなたならこのスプーンの効果を打ち消す方法を

知っているんじゃないですか？　お願いします、どうか、こいつをなんとかしてください！」

　海や川に捨てるなり何をしようが、すんなり手放せるとは思っていない。

　だが、あの銀色の女がさっき言っていたこと。

　この店には特別な商品が揃っている。それがどの程度本人の意向に沿って集められたかは知らないがこの女に付きまとわれていたのなら必ずこう願ったはずだ。こいつをどうにかする物が欲しいと。

「……あるよ」

　そう言って店主が出したのは小さな皮袋だ。

「これは？」

「願いや呪いを打ち消す粉が入っている。一振り三万円だ。貴重品なんでな」

　……やられた。青年はそう思った。青年は粉に飛びつくよりも先に自分でも何故かわからないがそう思った。それは店主の目に一瞬ギラリと光るものが見えたからなのかもしれない。

　初めからこうなるのが、この店主の目的だったのか。押しつけ、言わば解呪料金をぼったくることが……。きっとスプーンにも何か人を惹き寄せる効果があったに違いない。すると、女はただの喋るスプーンで幸運云々は嘘なのか。それとも幸運の話は本当なのか……。

　青年はわからずに考え込んだ。

　故に青年は自分が握るスプーンに映る銀色の女が店主にウィンクしたことに気づかなかった。

　あるいは慌てて店に駆け込まずに、もう少しこの銀色の女と対話していれば一途な女であることに気づけたのかもしれない。

　幸せは常に傍にあり、それを知覚。手放そうとしなければ持ち主から離れては行かないのだ。