命の天秤

 避難民はだだっぴろい採掘場で腰を落ち着かせた。壁にも天井にも、層状の岩塩が入り込んでいる。桃色と白の縞模様は、豚の脂身を思わせた。


「パンチェッタでビールを呑りたくなってきましたよ」

 

 柱にもたれかかって、ノブローはため息をついた。


「サー・ノブロー、その柱には触らねえ方がいいすよ」

「おや、そうなのですか?」


 ヤコブに注意されたノブローは柱から数歩離れ、天井まで続く岩塩を仰ぎ見た。


「そいつは駄塩だじおでね。いやに苦くて、舐めると調子が悪くなっちまうから掘り残してんですよ」

「へえ? 見た限りでは違いが分かりませんね」

「なあに、引っぱたきゃあ一発です。塩は粉になっちまうけど、駄塩はいやに粘って、砕けちゃくれねえ」

「ふうむ……駄塩ですか」


 ノブローは顎をさすりながら、考えに耽った。


「じっ、ジリー様! ジリー様! やべー! やべーことが! やべー!」


 鉱山の入り口を守っていたはずの男が、すっころびながら採掘場に飛び込んできた。


「今度はなんじゃあ! ダン・パラークシよりやばいどんなことが起きた! どんと来い!」


 ジリーは半ばやけくその声音で絶叫した。


「やべーんすよ! とにかく! やべーからもう本当に!」

「なにがやばいんじゃ! かかって来いや!」

「んくくくくっ♡」


 嗤い声は鉱山に乱反射して、あらゆる場所から耳の奥へと直に流し込まれるようだった。

 ジリーも避難民も、甘く、威圧するような低音に、言葉を失った。


「……ばかなことを」


 ただひとりノブローだけが、眉根をひそめて奥歯を強く噛みしめた。


 ゆったりとした足音が響き、声の主が、坑道の深い闇から姿を現した。


「ざこ貧民のみんなぁー! ニーニャが来てあげたよぉー!」


 ブラドー領の俗悪廃王女が、歓呼の声で迎え入れられる領主のように、高く掲げた両手を振りながら悠々と歩み出た。

 怯えと沈黙からなる完全な無反応が返ってきた。


「あれあれー? ニーニャが来てあげたのにぃー、どうしてだぁれも平伏してくれないの? ニーニャ哀しくなっちゃう♡」


 ニーニャは一切めげることなく、ふにゃふにゃ声でくねくねした。


「それじゃーあー、ざこ貧民のみんなにぃー」

「殿下っ!」


 ノブローが、ニーニャの前に飛び出した。


「ノブロー! よかった、生きてました!」

「どうして来たのですか、ニーニャ・ブラドー!」


 ニーニャは目をまんまるにした。


「え……うそぉ?」

「ばかなことを! 本当にばかなことをされましたよ、あなたは!」

「えなに、なんなんですか会うなりそれ」


 動揺するニーニャに、ノブローは詰め寄った。廃王女を見下ろす細い目には、怒りと哀訴がぴったり等分に込められていた。


「あなたの命の天秤に! どうして私ごときを乗せたんだ!」


 ニーニャは、しばし放心して口をぱくぱくさせた。やがて、深紫に縁どられた紺色の瞳が宿したのは、純然たる苛立ちだった。


「ちょ……ええ? なんっ、はああ? なにそれ? じゃあなんですか、あなたを見捨てて殺されるままに帰れってことですか?」

「当たり前です! 私が死んで身軽になったら改めて攻め滅ぼしなさい!」

「なっ、なにを言っとるんじゃあ!」


 ノブローは手の甲で額を抑え、ふかぶかとため息をついた。


「あなたにかけられた呪いを、今以上に増やすつもりはありませんよ、殿下」


 ニーニャの肩が、ぴくりと持ち上がった。彼女はうつむき、下唇を噛んだ。


「殿下、分かりませんか? あなたはアールヴ陛下に、ローヌ陛下に、ハンビット陛下に、そして南部に住まう全ての民に、呪いを刻まれているんです。その小さなお体には分不相応な呪いを。だから、あなたは復讐を望む。だから、あなたは王権を――」

「口をつぐみなさい、ノブロー」


 ささやくような一言で、ノブローは電気でも浴びたように絶句した。


「それ以上の不敬は、おまえの品位をおとしめます」

「……失礼いたしました、ニーニャ殿下」


 ニーニャはぞんざいにうなずき、怯えすくむ民に目をやった。


「わたしは、だれのことも棄てません。当然、あなたたちもです。ジリー・シッスイの佳き民も、ニーニャ・ブラドーは救います」


 薄暗がりで、人々の目に、かすかな希望が灯る。視線は坑道をのたくるように這って、ニーニャの体に絡みつくようだった。

 

「それが、呪いだというんだ」


 ノブローはうめくように呟いた。


「ニーニャさん、そろそろいい?」

「はい、ミカドさん」

「うーい。どもー、ミカド・ストロースです」


 ミカドが、ひょこっと姿を現した。


「……ミカド?」「“尖風ミストラル”のミカド・ストロースか?」「“氷原の五連星いづらぼし”が、なんだって俗悪廃王女と」「でも、おまえ、ミカドだぜ? あのミカドなんだぞ」


 ひとびとのざわつきが収まるのを、ミカドは死にたそうな気まずい表情で待った。


「えーとその、賊と行き会ったんで、俺とニーニャさんで、あ違うか、強く優しくかっこいい我らの殿下といっしょに全員ぶちのめしまして、寄合場? なんかでかい建物に転がしておきました。ほんで塩鉱山の入口で、そこのアウルゼンさんと話して」


 『やべー』連呼の義勇兵に、ミカドはてのひらを差し向けた。


「ここにみんな集まってるって聞いたんで顔を出した、とか、まあそんな感じです」


 ミカドは最後まで気まずそうな顔のまま言い終えた。


「さて、みなさん。ここにはわたし、ニーニャ・ブラドーと、“尖風ミストラル”ミカド・ストロースがいます。わたしたちはダン・パラークシとみなさんの係争を、恒久的に解決するため参りました」

「おお……まじか」「やべー、廃王女まじかー、やべーな」「いける……いけるでしょミカド・ストロースだし」「殿下……よもやなあ、こんなところにおいでくださるとはなあ」


 希望の光はいっそう強くなっていった。ニーニャは絡みつく視線のひとつひとつを受け止め、やわらかな笑みさえ浮かべてみせた。


「……………いやじゃ」


 ぽつりと、だれかが呟いた。

 全員、ぎょっとしてそちらに視線を注いだ。

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