最終話 逃亡者たち
戒厳令と汚職騒動で騒がしいミルジェンスクも、夜になれば寝静まる。建物の明かりは消え、通りから人の姿が無くなる。
今日の夜空は曇っている。そして雨は降っていない。揺らぐ月明かりもなく、街は薄闇の中に沈んでいる。
静止した風景の中で、ひとつだけ動くものがある。黒いコートを羽織った金髪の男。ダルス・エンゼエルシー。人目につかない路地から路地へ、隠れるように歩いている。
ダルスの目的地は決まっていた。街の中心部にあるミルジェンスク駅だ。そこに、ベンジャミンが手配した貨物列車が待っている。それに乗って街を出るつもりだった。
時折、ダルスは足を止めて壁に寄り掛かる。大きく息を吐いて深呼吸し、脂汗を拭う。ダルスの傷はまだ治っていない。何しろ、目を覚ましてから1日と経っていないのだ。
それでも彼は歩みを止めない。逃げるチャンスは今しかないからだ。
連邦保安局はダルスを諦めないだろう。何しろダルスは『コッペリア』を全滅させている。『巡礼路』の事も知られている。戒厳令が解かれれば、あらゆる手段を使ってダルスを探しにかかるだろう。
コリウスたちはダルスを匿うだろうが、それでも限界はある。そして見つかれば、中央はコズロフ・ファミリーごと、あるいはこの街ごとダルスを始末するに違いない。トゥエリスタンのように。
そうなるとわかっているのに、のうのうと街に残ることは、ダルスにはできなかった。
幸い、脱出手段はある。軍が貨物列車を用意していた。ベンジャミンの上司はダルスを捕らえるつもりはないらしい。相手をすれば甚大な被害が出るとわかっている。かといって、かばうつもりもない。中央と本格的に事を構えれば、ただでは済まない。
だから今のうちに列車に乗って、中央への嫌がらせも兼ねて穏便に逃げてほしいという事だった。ダルスはその提案を受け入れた。
コリウスには何も伝えていない。伝えれば、きっと何としてでも止めようとするからだ。そうしたら、決意が揺らいでしまう。だから黙って出ていくと決めた。一応、手紙だけは残してある。
息を整えたダルスは、再び歩き出した。路地を進む。もうすぐだ。角を曲がれば、駅のすぐ側に出る。
そこまで来て、ダルスの足が止まった。道の先に誰かがいる。黒い毛皮のコートを纏った女。大きなトランクを抱えている。髪の色はエメラルドで、瞳の色はアイスブルー。
「どこに行くつもり?」
コリウスだった。
「お前……どうしてここに?」
「勘よ。ねえ、どこに行くつもり?」
自慢げな笑みを浮かべるコリウス。対してダルスは俯き、視線を泳がせた。
「……ヤトーツクだ。そこから電車を乗り継いで、海を渡る」
「お店にいてもいいのに。ニコライさんもどうにか都合をつけるって言ってたわよ?」
「駄目だ。絶対に見つかる。それに……俺は、この街に居たくない」
コリウスの顔に不安がよぎった。
「どうして? この街が嫌いになったの?」
「そうじゃない。店にいるのは楽しかった。市場で食材を探すのも、話すのも良かった。何しろ、人間扱いされるのが嬉しかった。不便な所はあるが……それでも、いい街だ。
だから、そこにいる自分が許せない。自分がいるせいでこの街がいつか壊れてしまうのに、それに目を背けることはできない。……店長のようなことは、もうあってほしくないんだ」
守るために離れる。それがダルスの出した結論だった。スザンナはダルスの罪に巻き込まれたようなものだ。そんな事は二度とあってはならない。遠く離れた地で、無事なこの街を想いながら生きていけるなら、それでいい。
コリウスはダルスをじっと見つめていたが、やがて、諦めたように溜息をついた。
「……そう。なら、しょうがないわね」
「すまない。落ち着いたら手紙を……」
「それなら、私が貴方についていくから」
「……何?」
思考が止まった。
「聞こえなかった? 貴方と一緒に街を出るわ」
「……いや、お前、店は」
「ニコライさんが上手くやってくれると思うわ」
「いや、そのニコライたちに話は?」
「手紙は置いてきたわ。貴方の手紙の隣にね。あと、もしも貴方が目を覚ました後、この街を出ていくなら、一緒に行くって話もしてる」
思った以上に用意周到だ。そこでダルスはコリウスが持つトランクに気付いた。あの中に旅の道具一式が入っているのだろう。そこまで覚悟をしているなら、無視するわけにはいかない。だが、受け入れるわけにもいかない。
「駄目だ。お前はここに残れ、コリウス。俺に一緒に来るのは危険だ」
言い始めれば、言葉が溢れる。
「この街はお前の居場所だ。仲間もいるし、友達もいるだろう? わざわざここを離れる必要はない。
それに、俺の側にいるのは危険だ。この前みたいに攫われて……いや、そんな間もなく殺されるかもしれない。
俺が守ってやれるかどうかもわからない。奴らは夜でも、いや、一日中、いつでも襲ってくるんだ。少しでも気を抜いたら殺される。
第一……俺は、人殺しで、テロリストで、どこに行っても追われて爪弾きにされる悪党だ。そう言われても仕方のないことをしてきた。
それなのに、どうして俺なんかと一緒に来るんだ?」
「だって、好きな人の側にいたいんだもの」
あまりにもあっさりと、当たり前のように、コリウスは答えた。
それに対してダルスは言葉を返せなかった。薄々感づいてはいたが、自分からは言い出せない言葉をあっさり胸に刺されてしまった。
「いや、それは、その……」
「それとも、ダルスは私と一緒にいるの、嫌?」
コリウスが不安げな表情で覗き込んでくる。
そう言われるとダルスは反論できない。愛しているのは事実だ。嘘はつきたくないし、彼女は見破ってしまう。だから言葉を並べて彼女を諦めさせようとしたのだが。
「ねえ、どうなの?」
コリウスはお構いなしに踏み込んでくる。首元に切っ先を突きつけられたような感覚に陥り、ダルスは、本音を吐き出した。
「……ああ、そうだよ。できるものなら一緒に居たい」
「なら、決まりね」
だが、と言いかけたダルスの手を引いて、コリウスは歩き出す。ダルスも釣られて前に進む。
「危険だ!」
「平気よ」
バランスを取って、歩調を合わせる。
「今までみたいなマトモな生活じゃない」
「それでも貴方と一緒がいいわ」
足を早める。
「歌も気軽に歌えなくなる」
「歌うならどこでもできるわよ。それに、貴方に届くだけで十分だもの」
隣に並ぶ。
「……いつ死ぬかわからないぞ」
「それは私? それとも貴方?」
答えられない。考えたくもない。黙るダルスに、コリウスは笑いかける。
「貴方が死んだら、後を追うわ。だって側にいたいもの」
事も無げに、コリウスは言ってのける。
「でも、私が死んでしまったら」
そしてコリウスは、困ったように笑った。
「……ごめんなさい」
それを見たダルスは、コリウスの手を強く握り締め、手を引いて歩き出した。
「守る」
「え?」
「二度とそんな顔はさせない。絶対にお前を守る。だから俺から離れるな。いいな?」
コリウスは微笑みを浮かべると、ダルスの後に続いて歩いていく。駅へ。
今日の夜空は曇っている。しかし雨は降っていない。
曇天の下、長い旅が始まる。
曇天 劉度 @ryudo
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