第60話 断糸

 エレベーターを止めるプランはあった。ダルスが攻め込んだ時、署長たちが怖気づいて逃げることを防ぐための作戦だ。だが、麻薬倉庫の襲撃が上手く行ったので、署長たちは逃亡という選択肢を失った。そこで、敵の動きを制限できるエレベーターは自由にさせることにした。

 その判断がまさか自分を助けることになるとは思わなかった。そんな事を考えながらダルスはエレベーターを降りた。傷の痛みと出血で足元が覚束ない。

「大丈夫?」

「ああ」

 ダルスの隣にはコリウスがいた。自分の服が血で汚れるのも構わず、ダルスの体を支えている。

 コリウスと共に、ダルスはホテルを後にした。晩秋の夜風は冷たい。寒風が傷に染みる。2人は一歩一歩、ゆっくりと進む。

「辛かったら、少し休みましょうか?」

「すまない」

「こういう時は、"ありがとう"でしょう? 覚えてないけど、それぐらいは知ってるわよ」

「……ああ、ありがとう、コリウス」

 自分の命は心配していなかった。止血は上で済ませてある。走ったり飛んだりしなければ問題ない。

 むしろ心配なのは、コリウスの方だ。

「お前こそ大丈夫なのか」

「私?」

 きょとんとした顔で、コリウスはダルスの顔を見上げる。

「連中に何かされなかったか。……辛いなら、言わなくてもいいが」

「平気よ、私は。あの人たち、貴方を怖がって私には本当に指一本触れなかったから」

 安堵に胸を撫で下ろす。しかし、コリウスは続ける。

「でもね、怖かった」

「……まあ、そうだな」

 当然の反応だ。いつ殺されるかわからない状況に置かれたら、人間、誰だってそうなる。コリウスは記憶を失って恐怖を忘れたと言っていたが、今日、ようやく思い出したのだろう。

 そしてダルスは、コリウスに恐怖を思い出させてしまったことを申し訳なく思う。

「すまない。危険な目に遭わせて」

「ううん、そうじゃないの」

 ところがコリウスは、ダルスの謝罪に首を横に振った。

「貴方に会えなくなるのが怖かった。貴方が私のせいで死んでしまうのが怖かった。こんな気持ちになったのは、初めて」

 そして、コリウスはダルスを見上げる。その顔は、困ったように笑っていた。

「だけどね、思い出せないの。この気持ちが何なのか。なんて言えば良いのかわからないの。……記憶が無いのが、悔しくて、悲しい」

 その答えをダルスは知っている。だが、伝えて良いものか、迷った。

 己の手に視線を落とす。裂けた革手袋の奥に、文字通り血に塗れた手が覗いている。だが本当の汚れはこんなものではない。

 空を仰いだ。ミルジェンスクは曇り空だ。いつかの時のような雨は降っていない。

 深く、大きく息を吐いて、ダルスは足を止めた。

「ダルス?」

 問いかけるコリウスの体を、そっと抱き締める。コリウスは驚いて身を固くし、しかしダルスに身を委ねた。

「どうしたの?」

「コリウス」

 声を上げて、名前を呼ぶ。

 そんな権利は自分にない。そんな言葉は許されない。

「……お前を愛している」

 それでも伝えておきたかった。彼女の気持ちに答えたかった。

 身勝手だというのなら、エゴだというのなら、それでいい。

 誰かに頼まれたわけでなく、命令されたわけでもなく。初めて心の底から、己の意志で、彼女のために動こうと思ったのだから。

 夜の街はしん、と静まり返っている。さっきまでの銃撃戦が嘘のようだ。

 静寂の闇の中、コリウスの細い腕が、ダルスの腰に回る。

「……わかったわ。この気持ち」

 響く、鈴のような声。

「私も、貴方を愛してる」

 血で汚れるのも厭わず、コリウスはダルスの胸に顔を埋める。

 痛みが奔るのも構わず、ダルスはコリウスの体を掻き抱く。

 ダルスの心の中で、張り詰めていた何かが途切れた。

 そしてダルスの足元がふらつく。否、足に力が入らない。体が動かない。する、とコリウスから手が外れる。

「……ダルス?」

「まずい」

 緊張の糸が途切れてしまった。全身ボロボロの重傷だということを、今になって思い出した。

 世界が回る。地面が迫る。意識が遠くなる。

「ダルス!?」

 声が聞こえて、闇に落ちる。

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