第29話 ルサールカの軛
天井が見えた。
ダルスはすぐに起き上がり、鉄骨の陰に飛び込んだ。
まだ、生きている。頭に手をやると、赤い血がべっとりと手を濡らした。額の左をかすめたか。エルヴィナを探して上を見なければ、脳を貫かれていただろう。
「流石ですねえ!」
称賛の声が降り注ぐ。鉄骨の陰から窺うと、2階の通路にいるエルヴィナを見つけた。柱を陰にして、ダルスから狙えない位置についている。
エルヴィナが金属棚を破壊したのは、2階に上がる足音を消すためだったのだろう。高所を取るのは有利だが、空中通路には遮蔽物がない。だから、柱の陰というポジションを取るまで、ダルスに気付かれないようにしたのだ。
血が目に流れ込んできた。ダルスは血を拭い、ポケットからバンダナを取り出す。店で使っている黒いバンダナだ。それを頭に巻き付け止血する。
状況は悪い。一方的に狙われている。ダルスが動けば、エルヴィナも合わせて動き、柱を盾にし続けるだろう。お互いに遮蔽物があるなら、高所を取ってライフルを手にしているエルヴィナの方が有利だ。かといって階段を上がろうとすればエルヴィナに蜂の巣にされる。
「そろそろ手詰まりじゃないんですか、教官!」
ダルスの心を見透かしたかのように、エルヴィナが呼びかけてくる。ダルスは答えず、牽制の銃撃を放つ。柱に弾かれる。
「ねえ、昔、言ってましたよね? 死ねるものなら死にたいって。今ならチャンスですよ? 大人しく出てくれば、一発で頭を撃ち抜いてあげますよ!」
ダルスは鉄骨の陰から飛び出した。すぐにエルヴィナが撃ってくる。弾幕に追われ、機械の陰に飛び込む。そこからエルヴィナの位置を窺うが、すぐにエルヴィナは別の場所に移動してしまった。今度は天井から吊り下げられた鉄骨が邪魔になる。
「射撃練習ですか? 自信ありますよ! 初めての実戦で3人も頭を撃ち抜いたんですから!」
「だが、射撃テストの成績は2位だっただろう?」
もう1人、筋の良い子どもがいた。生き残った子どもたちを託した彼女は、上手く逃げ切れただろうか。
「1位じゃないとダメですか? じゃあ黙って出てきてくださいよ。じっとしてれば、あたしだって上手く当てられるんですから」
邪魔をする鉄骨を見る。天井から鎖で吊るされている。撃っても切れない。鎖は天井の滑車で折り返し、床のレバーで固定されているようだ。
「悪いが、死ぬのは今じゃない。オリンピアを連れて帰る必要がある」
「はぁ? 何ですかそれ。正義の味方気取りですか?」
そんな訳がない。ダルスが戦うのは、もっと目に見えるもののためだ。
「そんな訳あるか。……ただ、あいつには待ってる親がいる」
オリンピアには親がいる。コーリアという父親と、アンジェリカという母親がいる。1組の家族の平穏のために、今のダルスは戦っている。
「……何だよ、それは」
エルヴィナの声に剣呑な色が混じった。
「あたしたちを見捨てて逃げ出しておいて! 他人の親を助けるのかよ!」
エルヴィナが引き金を引いた。銃弾が吐き出され、鉄骨に弾き返される。ダルスに当たらないことがわかっても、エルヴィナはムキになって銃を撃つ。
「あたしたちを戦わせて、いざ負けたら逃げ出して! こんなところで善人ぶって! ふざけんなぁっ!」
銃声が途切れた。弾切れだ。大きな隙。ダルスは物陰から飛び出して全力で駆け出した。鉄骨を固定するレバーに駆け寄り、蹴り倒す。固定が外れて、吊り下げられていた鉄骨が落下する。ダルスは反対側の鎖を掴んだ。鉄骨に引っ張られて、体が一気に上へ運ばれる。
空中通路より高所へ来たところで、鎖を手放し通路に飛び乗る。エルヴィナの目の前。彼女のライフルは、まだリロードが終わっていない。
「終わりだ」
ダルスはエルヴィナに銃を突きつける。
「終わってない!」
だが、エルヴィナはライフルを振るってダルスの拳銃を弾き飛ばそうとしてきた。ダルスは手を引いてライフルを避けるが、エルヴィナは回転の勢いを乗せて回し蹴りを放った。踵が拳銃を弾き飛ばす。更にエルヴィナはライフルを投げ捨て、ナイフを引き抜いた。ダルスもナイフを抜き、順手に構えた。
「トゥエリスタンは、あたしたちはまだ終わってない!」
エルヴィナが斬りかかる。ダルスは刃で斬撃を受け流す。
「あんたはあたしたちの一番近くにいてくれた。他の大人と違って、死んだら悲しんでくれた!」
エルヴィナは何度もナイフを振り回すが、ダルスは刃の軌道を見切って弾き返す。
「あんたが声をかけてくれれば、あたしたちはまだ戦える!」
斬撃が届かないと悟ったエルヴィナは、今度はダルスの心臓へナイフを突き出した。ダルスは身を捩って避ける。エルヴィナはフェイントも何もなく、真っ直ぐにダルスに刃を繰り出し続ける。
「なのにあんたは、あたしたちのために、死ぬまで戦ってくれないの!?」
「違う!」
ダルスは刃を弾き返し、叫んだ。エルヴィナの刃が止まる。
「……違う。お前たちに戦い方を教えたのは、生きてもらうためだ」
確かにダルスはエルヴィナたちに戦い方を教えた。銃の撃ち方、ナイフの使い方、爆弾の仕掛け方。子どもに教えてはいけない技を伝えた。だがそれは、彼女たちを死地に送り込むためではない。
「生き残って、銃を捨てて、戦わなくていい世界にいてほしかったんだ。お前たちには」
故郷が戦地になってしまった彼女たちに、せめて生き残って欲しい。正義のないダルスができる祈りは、それだけだった。
ダルスの言葉を聞いて、エルヴィナが構えるナイフの切っ先が下がった。朝焼け色の瞳が大きくに見開かれる。張り詰めていたエルヴィナの体から力が抜ける。ダルスも腕の力を抜いた。
光を失った朝焼けは、血の色に変貌する。
鋭い痛み。ダルスの右腕から鮮血が吹き出す。
「……ふざけるな」
エルヴィナの一閃が、ダルスの右腕を斬り裂いていた。今までとは段違いのスピードに、ダルスは身動きがとれなかった。
「だったら最初に言ってくれれば良かったんだ。あたしらに戦うなって。どうしてそうしてくれなかったんだ。どうしてこんな事を教えたんだ!」
エルヴィナの目が、ダルスを真っ直ぐに睨みつける。込められているのは敵意と殺意。それだけではない。怒りがある。
「あたしらはもう戻れないんだよ……なあ、言ってくれよ! 死ぬまで戦えって! 一緒に死んでくれよ!」
ダルスは答えられなかった。言葉が伝わらなかった悔しさに、彼女たちを救えなかった悲しさに、彼女たちに『戦うな』と言わなかった後悔に、唇を噛みしめるしかなかった。
「何だよ。あんたは違うと思ってたのに。結局、他の大人たちと同じだったのかよ」
沈黙するダルスに対してエルヴィナが斬りかかる。
「この嘘つき」
先ほどとはまるで別人の動きだった。迷いを振り切ったのか。情を切って捨てたのか。確かなのは、ダルスの言葉がエルヴィナを変えたという事実だけ。
ダルスはナイフで斬撃を防いでいるが、全てを防ぎきれてはいない。コリウスと買った服が切り裂かれ、血に染まる。エルヴィナの斬撃は、確実にダルスを追い詰めている。
このまま仕留められるのも良いか。そんな考えがダルスの頭の中をよぎる。手を尽くせば尽くすほど人が死ぬ。助けようとした人々は誰一人として助けられない。どん底に突き落としておいて、助けたと思い込んでいた人間に復讐されて死ぬのなら、ふさわしい末路だろう。
手を降ろす。ガラ空きになった喉に、エルヴィナがナイフを突き出す。止めの一撃。受け入れる。土台から間違っていたのだ。あの雨の日、彼女を殺したあの日から。
『こんな風に、楽に死んではいけませんよ?』
刃は首をかすめた。首の皮膚が僅かに切れる。それだけだ。致命傷には到底至らない。外したのか。目を剥くエルヴィナの顔を見て、違うと判断する。
体が左に傾いていた。ダルスは刃を避けていた。動かす気は無かったのに、体が勝手に動いていた。
「死ぬんじゃ……」
エルヴィナが怒りに身を細める。
「なかったの!?」
再び斬撃。刃が打ち合わされ、火花を散らして離れる。ダルスに傷はついていない。
「……ああ、死ぬならばそれでいい。惨めな死だ」
ダルスはナイフを手の中で回転させた。順手から逆手へ持ち帰る。そして、今まで使っていなかった左手を構えた。
「だが、楽に死ぬのは許されない」
「……大人はさ。そんな風に言い訳して、逃げて、あたしたちを捨てていったんだよ。あんたも同じだ」
ダルスは小さく頷く。いつまで経っても、どこまで行っても同じだ。死ぬその瞬間まで惨めに生に縋り、全てを置いて独りで生き残る。聖歌隊も、トゥエリスタンも、この街も、コリウスも。それだけが自分に許せる生き方だ。
「殺してやる。お前なんかのために死んだ、みんなのために殺してやる」
「なら、上手く殺してみろ」
エルヴィナが踏み込んできた。目にも留まらぬ鋭い斬撃、刺突、更には打撃まで加える。しかしダルスはそれらを全て防ぐ。エルヴィナの動きは遅くなっていない。むしろ速くなっている。そしてダルスの速さは変わらない。変わったのは、動きの種類だ。
「ッ!?」
ダルスの手首を狙ったエルヴィナの刃が逸れる。左手だ。ダルスの左手が軌道を反らした。今までは右手のナイフで受けていたのに。そして、刃を受けなかったダルスのナイフがエルヴィナの左腕を斬り裂いた。ダルスからの初めての攻撃だった。
凄まじい速さで斬撃の応酬が繰り広げられる。徐々に、エルヴィナが後ろに下がり始める。ダルスのナイフの軌道が、今までとは比べ物にならないほど複雑になっている。喉を狙うかと思えば足に振り下ろされ、そこから跳ね上がって手首を狙う。変幻自在の軌道にエルヴィナは翻弄されるばかりだ。
「この……ッ!」
逆にエルヴィナが攻め込めば、ダルスは両手を使ってことごとくいなす。どれだけ速くナイフを振っても変わりはない。ダルスはナイフの軌道を全て予測していた。
刃がきらめく、エルヴィナの肩が深々と切り裂かれる。エルヴィナは歯を食いしばり、ダルスの心臓目掛けてナイフを突き出す。ダルスは身を反らして刃を避けた。ガラ空きになったエルヴィナの眼前に、ダルスのナイフが迫る。エルヴィナは左腕を掲げた。刃は止まった。細い左腕を刃が貫いた。
「――っ、あああああっ!?」
悲鳴が作業場に響き渡る。だが、ダルスは無表情で刃を押し込もうとする。エルヴィナの鼻先に血塗れの切っ先が迫る。あとひと押し。それが動かない。
「ああアアアッ!」
悲鳴が咆哮に変わっていた。エルヴィナは右手を振り上げ、ナイフをダルスの首に突き刺そうとする。ダルスは左手で手首を掴み、刃を寸前で止める。ダルスはナイフをエルヴィナの腕から引き抜こうとするが、動かない。腕に力を込めて、抜けなくされている。
エルヴィナが一歩踏み込んだ。ナイフが押し込まれ、ダルスの喉を、貫かなかった。ダルスは抜けないナイフを手放し、体を引いて刃を避けていた。掴んだ左手首はそのままに、右手をエルヴィナの左肘に押し当て、押す。鈍い音が響き、左腕が逆方向へと折れた。手からナイフが零れ落ちる。
「ぎっ……!」
悲鳴はない。歯を食いしばったエルヴィナは、その歯で自分の左腕に刺さったナイフを咥えた。腕からナイフを引き抜き、そのままダルスの胸へと飛び込む。狙いは左胸、心臓。
もう一度、骨が破壊される鈍い音が響いた。左腕ではない。足。ダルスの痛烈なローキックが、エルヴィナの左膝を砕いていた。完全に虚を突かれたエルヴィナの口から、ナイフが零れ落ちた。刃が床を叩く前に、ダルスが踏み込む。全体重を乗せた肘打ちがエルヴィナに叩き込まれた。小さな体は吹き飛ばされ、手すりを飛び越え、落下し、床に叩きつけられた。
ダルスは構えを解くと、下を覗き込んだ。エルヴィナが仰向けに倒れている。動く気配はない。他の敵も同様だ。ふらつく足で階段を降りる。痛みと疲れで汗が吹き出ている。汗が傷口に滲みて激痛を発するが、ダルスは歯を食いしばって耐える。
オリンピアを見つけた。作業場の入り口。奥の部屋から這い出てきたのだろう。近付いてくるダルスに気付いたオリンピアの瞳には、怯えの色が宿っていた。そしてオリンピアは、手にした拳銃を震えながら持ち上げようとする。
銃口が向けられる前に、ダルスは拳銃を奪い取ると、オリンピアを強引に背負った。
「行くぞ」
ダルスはオリンピアを背負って歩き出す。
「ひっ……!」
オリンピアは小さく悲鳴を上げたが、それっきりで、後はずっとダルスの背中にしがみついているだけだった。
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