第19話 燎原の火

 ミルジェンスクの街を中央を走るミガン・ストリート。そのやや奥の方に『アゴン・スズハレイ』というクラブがある。この辺りでは最も大きいクラブで、休日である今日は大勢の客が詰めかけている。

 このクラブには2階席がある。ホールを見下ろすように広いスペースが設けられており、そこは特定の人物しか入れないVIPエリアとなっている。VIPエリアのソファに足を開いて座っているのは、白いスーツで上下を固めた浅黒い肌の男だ。顔には炎を表した漆黒の入れ墨が彫られており、男の凶悪な風貌を一層際立たせている。常人が睨まれれば、即座に震え上がってしまうだろう。

 彼の名はマクシム・アイマートフ。アゴン・スズハレイを根城とするマフィアたちのリーダーであり、ホテル『クロドゥング・メヴリージャ』の幹部でもある。部下を使ってミルジェンスクの街で麻薬を売り、莫大な利益を上げてきた。邪魔する人間は敵も味方も薙ぎ倒してきた、ホテルきっての武闘派である。彼に文句を言えるのはホテルのボス、オーナーぐらいのものだろう。そんな凱風快晴なマクシムの顔に、今日、泥が塗られた。

「で? てめえら、ユリアンどもにブチのめされて、おめおめ逃げ帰ってきたってわけか」

 マクシムの足元には、床に膝をついて震え上がっている男たちがいた。彼らはマクシムから麻薬を買い入れている売人たちだ。コズロフ・ファミリーのボスに遭遇して散々に叩きのめされたらしい。その報告のために、このクラブへノコノコやってきたのだ。

「そうなんですよ! あいつら、客を囮にして俺たちをおびき出しやがったんです!」

 売人グループのリーダー、茶髪の男がベラベラと喋る。

「俺らも頑張って戦ったんですけど、何しろ腕の立つ奴らで……ニコライにヤブジニー、それにコートの変な奴もいて……」

 マクシムは無言で立ち上がると、壁に掛かっている片刃の斧を手にとった。

「いや、死ぬ気で頑張ったんですって! ただ、奴ら、よりにもよって女を盾に」

 茶髪の男の顔面に斧が叩き込まれた。男は顔の右半分を砕かれ、血と脳漿を撒き散らしながらその場に沈んだ。

「片付けとけ」

「はい」

 マクシムはスーツ姿の部下に声をかけた。部下たちは手早くゴミ袋を用意し、死体を放り込むと階下へと運んでいった。他の売人たちはその様子を見て完全に硬直している。中には失禁している者もいた。

「……俺ァ、思うんだけどよ」

 自分たちの立場を理解していない腰抜けたちに、マクシムは話しかける。

「死ぬ気で戦ったなら、何でおめえら生きてるんだ?」

「た、助けを呼ぶのに、何とか逃げてきて……」

「あぁ? 尻尾巻いて逃げてきた連中を助けろってか、この俺に? てめえらのケツはてめえらで拭けや、このボケ!」

 マクシムはテーブルに斧を振り下ろした。ガラスのテーブルは上に乗っていた酒瓶ごと砕け散る。

「わかったらとっととババアと赤ジャケのタマ獲ってこいや! それともぶっ殺されなきゃわからねえか!?」

「ひいいいっ!」

 売人たちは悲鳴を上げてVIPエリアを出て、階段を駆け下りクラブを出ていった。マクシムはそれを見届けると、ソファに乱暴に座り込んだ。

「おい、車とハジキを準備しろ」

「わかりました」

 部下の一人に声をかける。既に各地の売人や構成員にメッセージを送って、酒場を襲撃するように命令している。その数はおよそ50人。更にこれからボリスが直々に15人を連れて行く。コズロフ・ファミリーの命運は今日で決まったと言って良い。

 これからの事を考えると、マクシムの口端は自然と上向きになった。酒場に復讐するのはマクシムの長年の夢であった。今まではオーナーの命令で抑えてきたが、向こうが縄張りを荒らしてきたのなら遠慮することはない。一人残らず血祭りだ。

「おい、待て、お前。そっから先は立入禁止だ」

 階段の下から声がした。見ると、男が1人、階段を上がってくる所だった。見知らぬ男だ。金髪緑眼、ボロボロの黒いコートを羽織っている。その後ろを、さっき車と銃を準備するように命じた部下が追いかけてくる。

 階段近くにいた部下2人が、男の前に立ちはだかる。後ろの部下も追いつき、3人が金髪の男を取り囲む。しかし男は物怖じせずに言い放った。

「マクシム・アイマートフに用がある。通せ」

「何だテメェ」

 男はソファに座るマクシムを認めたようだ。緑色の瞳でまっすぐにマクシムを睨みつけ、右手を掲げる。その手には、白い粉の入ったビニール袋が握られていた。マクシムが売人たちに卸している麻薬だ。

「この麻薬について聞きたいことがある。誰が作ってる?」

「ナメてんのか?」

 マクシムは不快げに答える。正直に答える訳がない。相手をする気にもなれない。だが、男は平然と言い放った。

「真面目に聞いている。作っているのはステファン・イェゼフか?」

 その名前にマクシムは瞠目した。

「何者だ、テメェ……!?」

 マクシムは改めて男を見る。金髪、緑色の瞳、ボロボロの黒いコート。見知らぬ顔だ。ホテルの構成員でも、酒場の連中でもない。不意に、さっき売人たちが言っていた言葉が頭をよぎった。黒いコートの知らない男がユリアンと一緒にいたと。

「なるほど。てめえ、ババアの手下だな?」

 マクシムの怒りを察した部下たちが、それぞれの得物を準備する。男は麻薬のパッケージを振り、もう一度言った。

「質問に答えろ。この麻薬を作っているのは、誰だ?」

「殺せ!」

 マクシムの命令を聞いて、男を取り囲んでいた部下たちが襲いかかった。前に立つ2人は警棒を振り下ろし、後ろの1人はナイフを繰り出す。前後からの同時攻撃、避けられるはずがない。

 しかし男は警棒の1本を避け、もう1本を握る腕を捻じり上げ、後ろからきたナイフを防がせた。更にナイフを持つ腕を蹴り上げて、得物を弾き飛ばす。警棒を避けられた部下が次の攻撃を放つが、男は腕を捻じり上げていた部下を投げ飛ばして対処する。2人がもつれ合って転がった。

 そこへナイフを取り落した男が掴みかかる。腰を後ろから抱え込み、動きを封じようという魂胆だ。男は動じず、腰に絡む手を掴むと、そのまま指をへし折った。

「ぎゃあああっ!?」

 悲鳴が響く。引き剥がした部下には目もくれず、男は立ち上がってきた2人に相対する。2本の警棒が振り下ろされ、薙ぎ払われ、突き出されるが、男にはかすりもしない。それどころか、男は部下の1人の袖を掴み、足払いをかけて床に叩きつけた。更にもうひとりの脇腹に蹴りを放つ。部下は吹き飛ばされ地面に転がった。蹴り足は倒れた部下の顔面に振り下ろされる。こちらも立ち上がれず、大きく体を痙攣させて動かなくなった。

 3人を瞬く間に倒した男は、コートの裾を翻してマクシムに向き直った。ただのケンカではない。洗練された格闘術の動きだ。

「なんだそりゃあ。カラテって奴か?」

 ユリアンがそういう格闘技を身に着けていると、マクシムは聞いたことがあった。男の妙な動きもそれだろうと検討をつけたのだが、男は首を横に振った。

「……半分当たりだ。カラテはカラテでも……」

 黒いコートの男は構えを取った。右手を前に、左手を腰に。腰は軽く落とし、顎を引いて半身を隠す。

「ソビエトカラテだ」

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