ゆれる水面にうつるもの

ゆれる水面にうつるもの―壱

 熟した梨は、上に持ち上げると簡単に軸が外れて収穫することができる。熟すにつれて果皮の色が濃くなり、表面にある果点がぼやけると完熟の証だ。

 壱弥は慣れた手つきで、今か今かと収穫を待つ梨を丁寧に籠に入れていった。

 健二の家は梨農家で、収穫の手伝いをするのが夏休みの恒例行事だった。

 温暖な地域で栽培しているため、八女の梨は全国の産地の中でも出荷時期がはやい。柔らかい果肉で甘みが強い幸水こうすいという品種は、例年七月上旬から八月中旬が出荷時期となっている。


「日本でナシが食べられ始めたのは、弥生時代頃であるな」

「へぇ、そうなん」


 作業の合間に飛んでくるナナシの豆知識に、壱弥は小さく返事をした。


「樹里は腹痛やって?」

「うん。いつものみたいよ」


 少し離れたところで、健二と希穂が話している。

 収穫の手伝いには樹里も毎年加わっているのだが、今日は体調が悪いらしい。


「壱弥。樹里の分、持ってってやって」


 作業が終わり昼食を食べたあと、健二が紙袋を寄越してきた。

 収穫した梨は、おすそ分けとしていくつかもらっている。今年は特によく育っているようで、健二の父が奮発してくれたようだ。

 壱弥は、原付で樹里の家へと向かった。


「我は、そのあたりを散歩してくるぞ」


 樹里の家の前で、ナナシはそう言ってどこかへ行った。何となく、気を遣っているのかもしれない。

 インターホンを押すと、すぐに樹里の母親が出た。健二から預かってきたことを伝え、梨を手渡す。

 

「いつもありがとうね、壱弥くん。樹里なら部屋にいるわよ」


 促され、二階へ上がった。

 部屋のドアをノックすると、樹里がいつもの笑顔で招き入れてくれた。顔色はいいようだ。


「今日、ごめんね。胃が痛くなっちゃって。もしかして、梨持ってきてくれたと?」

「うん。お前、またなんか考えすぎとるっちゃろ」


 樹里は、気まずそうに俯いた。昔から、言いたいことを腹に溜め込む悪い癖があるので、よく腹痛を起こすのだ。

 樹里の母が、冷えた麦茶を淹れてきてくれた。それはいつものことなのだが、樹里は落ち着きなく目を泳がせている。


「言いたいことがあるなら、ちゃんと言わんと」


 樹里が口を開くのを待っていたら日が暮れてしまうだろう。麦茶を一口飲んだあと壱弥が言うと、樹里は意を決したように壱弥の顔を見た。


「俺、ずっと壱弥のことが好きやった」


 それは友人としてではなく、恋愛対象として、ということだろう。樹里の声は、わずかに震えていた。


「本当は、一生言わんつもりやった。今の関係を壊したくないし。あんときは、思わず口から出ちゃって。でも、ごまかせるかなって思いよった。壱弥って、そういうところはすごく敏感よね。そういえば、俺が体調悪いことに一番に気付くのは、いつも壱弥やったし」


 一気に言うと、樹里の目に涙が浮かんだ。まだ、言いたいことを腹に溜めているようだ。壱弥は、樹里の言葉を待った。


「男を好きなんて気持ち悪いって、思われるっちゃないかなって。それで距離置かれて、関係が壊れるのが怖かった。ずっと友達でいたいけん。だけん言えんくて、必死で気持ちしまい込んで、ずっと鉛みたいに重かった。誰にも言えんかった」


 樹里は息苦しそうに、ひとつひとつゆっくりと言葉を吐き出している。

 そこからしばらく、お互いに言葉を発しなかった。樹里の嗚咽だけが、静まり返った部屋に響いている。


「十二年やん」


 壱弥がぽつりと言うと、樹里は顔を上げた。


「小学校二年生のときからやけん、十二年。樹里と知り合ってから」


 樹里が転校してきたときのことは、よく覚えている。色白痩躯で、どこかおどおどしていたのだが、話しかけるととても愛想が良かった。


「三年生のとき、樹里が飼育小屋の入口開けっ放しにしてて、ウサギが行方不明になったやろ。お前、先生には、自分はちゃんと閉めてたって言いよったよな。それでなぜか、一緒にいた俺と健二だけが先生に怒られた」


 自分は閉めていたと樹里が言ったので、こちらに疑いの目が向けられたのだ。

 樹里からすれば、他人に罪をなすりつけると言うよりも、ただ自分が怒られたくないという気持ちから嘘をついたのだろう。


「怒られるのが怖くて、自分の失敗をすぐ隠そうとする。そのために嘘をつくような、こすかとこがある。でも、それで友達に迷惑がかかったら、あとでちゃんと謝っとった。お前のこすかとこも、八方美人なところも、ちょっと嘘つきなところも見てきた。そういうところ、全部知っとる。それでも、ずっと友達なわけ」


 喋りながら、自分は怒っているのだ、と壱弥は思った。それは、樹里への怒りではない。

 普段は口数が少ない自分がこれだけ喋っていることに、樹里は少々驚いているようだ。


「俺は樹里を恋愛対象に見れん。でも、恋愛対象が男だとか女だとか、何の関係があるん。それで嫌いになるわけないやろ。悪かとこも自分と違うところも、全部含めて友達なんやろ」


 樹里がずっと苦しんでいたことに気が付かず、傷つけていたかもしれない。そう思うと、自分に腹が立った。

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