第9話……エピソード17……地中海制圧

★ネットフレックスのドラマ「アチェ」のヒロインの言葉

 マフィアのボス……マルピカに拳銃を突きつけられ、死ぬか俺の女になるか選べ。人生は選択の連続だ。

 アチェ……夫を釈放するため大金を必要としていた。マルピカに近づき、チャンスを得ようとしていた矢先にマルピカが殺人をしている場面を目撃したのだ。

アチェ……私の人生は何時も選択の余地がないのよ。

1373年7月下旬の日曜日午後1時……トプカピ宮殿

 宮殿はすっかり出来上がっていた。金角湾を渡るガラタ橋も完成していた。旧市街から新市街「ガラタ地区」への往来が楽になり、イスタンブールはどんどん繁栄していた。アドリアン兄さんが様子を聞きたい気持はよく分かる。

★イスタンブールに暮らす人々

 全体として乾燥し高温な西アジアでは、都市は豊富な水と日陰、ハマームと呼ばれた古代ローマの伝統をひく公共浴場、そして居酒屋やコーヒーハウスなど、娯楽と人間同士のふれあいにこと欠かない快適な空間であった。また、市壁と城砦に守られた安全な場所でもあった。

 イスラム社会においては、こうした環境を保証する社会資本はワクフと呼ばれる寄進制度を通じて整備された。この制度は、キリスト教世界でいえば「隣人愛」に相当する「サダカ」、つまり「余分な富の社会への還元」というイスラムの理念に基づいていた。

 その具体的な方法は、まず、ある人物が官職や社会的な地位に関係なく、個人の資格で、モスク、マドラサ、病院、学校、救貧施設などを建設し、これをアラーの名において公共の利用に供するために寄進する。ついで、多くの場合同一人物が、自分の私有財産である土地、家屋、店舗、菜園、果樹園、公共浴場などの所有権を放棄してアラーに寄進し、そこから得られる賃貸料収入をこれらの施設の光熱費、修繕費、そこに勤める人の給与や学生の生活費などに充当するというものである。

 この制度が他の宗教にも共通な寄進制度と異なる特徴は、これによって建設される施設が、いわゆる宗教施設に関わらず、水道、道路、橋などの公共的な施設をも含む点である。それは「聖」と「俗」の区別の存在しないイスラムの特徴から来ている。

 また都市の家屋や店舗の大半がワクフ制度を通じて有力者によって建設されたため、資本をもたない職人や小売人が賃借料さえ工面できればどこへいっても営業できるチャンスをあたえてくれたから、人の移動を促進する結果をもたらしたことである。

 イスラム社会の特徴の一つである流動性、多民族・多宗教の共存性がこの制度によって保証された。

 アドルフはこの制度を推奨し、現金をワクフ財として寄進し、その「利子」を運用する制度を認めた。利子の範囲を10%から15%の間に定め、自身も金塊10万トンをワクフ財として寄進した。年間の利子だけで一万トンである。

★イスタンブールの発展

 アドルフは住民に生活の場を保証するため、都市としてのハードウエアの整備を行った。市内にそびえるビザンツ以来のヴァレンスの水道橋をはじめとした水道設備が修理され、給水設備が整えられた。すでにハギア・ソフィア聖堂をはじめとしていくつもの教会がモスクに変えられていたが、改めてこの町にイスラム国家の首都としての景観をあたえねばならなかった。

 その方法はアドルフ自身が率先して行ったワクフ行為に基づくものであった。アドルフは、彼個人の名において「アドルフモスク」とこれに付属するマドラサ群、図書館、病院、救貧院などを建設した。

 これらの学校では常時600人の学生が勉強していたといわれるが、ここが、のちにアドルフ王国の最高学府になった学校である。救貧院では、これらの学生を含む1000人以上の人が毎日食事を与えられていた。

 病院には、2人の内科医、1人の外科医、2人の眼科医、1人の薬剤師がいた。

そして、これらの施設の費用を賄うために大バザールを建設した。

 ここが、現在イスタンブールの観光名所となっている「グランド・バザール」(カパル・チャルシュ)の原型となった。

 以後、イスタンブールは歴代のスルタンや高官によるワクフ事業を通じて急速に発展し、モスクとその附属施設、広場、バザール、隊商宿、ハマームなどを中心とするイスラム都市の景観をそなえる帝都となったのである。

★イスタンブール住民の確保

 征服の過程で逃亡したギリシャ人を呼び戻すためにかれらに住居を返還し、就業の機会を与えるなどの手厚い保護を加えたため、かえって、ムスリムの間に大きな不満が起こったほどである。

 アドルフは、ギリシャ人民衆に人気のあるアダム・バチャをギリシャ正教会の総主教に任命し、総主教たちがビザンツ皇帝の下でもっていたすべての権限を安堵した。アダムにしてみれば、ビザンツ皇帝亡き後、ギリシャ民衆に対するかれの影響力はむしろ強化されたといえる。また、のちにはアルメニア正教会の主教バーレントとユダヤ教会の大ラビをイスタンブールへ招聘しょうへいした。

 アドルフはコンスタンティノープル征服後もアナトリアとバルカンの多くの土地を征服したが、それらの土地に住むトルコ人、ギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ教徒のすぐれた職人や商人を強制的にイスタンブールへ移住させた。

 こうしてイスタンブールの人口は徐々に増え、約40万人を越えた。そのうち約58%がムスリム、約32%がキリスト教徒、約10%がユダヤ教徒であった。

 アドルフがかれらユダヤ教徒を帝国内各地「テッサロニキがその中心」に受け入れたのは、イスラムの宗教的寛容性もさることながら、むしろ、かれらの労働力、技術、資本、そしてかれらが地中海各地に築き上げた情報ネットワークを必要としたからである。

 こうして、当時のヨーロッパ随一の大都市となったイスタンブールの住民の間には市民意識に近い一定のアイデンティティも生まれた。かれらは、アナトリアやバルカンを「タシュラ」、すなわち「ひな」と呼んで、優越感を満足させた。

 地方の人々は、逆に「イスタンブールの石と土は金でできている」などといって続々とイスタンブールに押し寄せた。

 アドルフはとりあえず以上のことをアドリアンに報告した。折返し、お褒めの言葉と同時に命令が下された。

アドリアン「直ちにキプロス島を攻略せよ」

アドルフ「はい、かしこまりました」

 アドルフは軍艦200艘を率いてキプロス島攻めに出発した。イズミルを抜けてイスケンデルン港からキプロス島の東沖に到着した時敵の艦隊100艘が攻撃を仕掛けてきた。今度はすべての軍艦にキャロネード砲を積んでいたため敵艦を全て撃沈することができた。

 海上戦よりも島に上陸してからの方が大苦戦を強いられた。敵兵は少数だがゲリラ戦を仕掛けてくる。

地勢については敵のほうが熟知しており、3分の1の兵が重軽傷を負った。

 やむを得ず得意の分散戦で戦うことにした。残りの半分の兵を失ったがアドルフが敵の軍司令長官を捕獲し戦争は終結した。

 キプロス王と王妃たちを捕らえてアドリアンに送り、顛末を報告した。折返し、お褒めの言葉を頂戴したが、次の命令は聞かずに追い返した。

 アドルフは負傷した兵隊の回復を待ち、死んだ兵隊の葬式と遺族への年金支給の手続きを終えてカイロに向かった。次回はチュニス攻めである。バルバロスを援護してチュニジアを手に入れる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る