第69編「窮鼠猫を噛むって言いますよね?」

「――……ゆきさん、起きてください」

(……?)

「……小日向さん、着きましたよ」

(ゆーいちろさま?)



 春風邪のようにおだやかな低音が恋幸の鼓膜こまくを優しく揺らし、夢の世界から意識を引きずり上げる。

 まぶたの重たさを自覚したところで、ようやく恋幸は自身が眠ってしまっていたのだと気がついた。



「ん、」



 まだぼんやりとした思考の中で少し身動みじろげば、カチャッと短い音が耳に届き体の拘束感がなくなる。

 おそらく、裕一郎がシートベルトを外してくれたのだろう。


 着いた? どこに? あ、お家か。

 そんなことを考えながら瞼を持ち上げた瞬間――……目に飛び込んだのは裕一郎の整った顔だった。



「えっ……天使ラファエル?」

「いいえ、倉本です」



 ラファエルという名前はヘブライ語で「神は癒される」という意味であり、ユダヤ教の伝統で癒しをつかさどる天使とされている。(Wikipediaより抜粋)


 恋幸の目には『倉本裕一郎』が天使や神様、はたまた二次元キャラクターやアイドルのように見えているのだが、今さら説明するまでもなく彼はまごうことなきである。

 ……芸能人のように顔が整っており、高身長で声も良く、超大手企業の代表取締役であるという部分をのぞけば『一般的な成人男性』だ。


 そんな彼は、恋幸の頓珍漢とんちんかんな発言を殺風景な表情で一蹴いっしゅうし、もう一度「着きましたよ」と言って運転席を降りた。



「え、っあ! はいっ!」



 結局あの後、ドレスコードを済ませて豪華なレストランへ行き食事中にサプライズでお誕生日の歌と共にワンホールケーキが登場――……するわけでもなく。

 ごくごく普通のレストランで何事も無く夕飯を済ませ、二人の住む裕一郎宅へ帰って来た。


 慌てて助手席を降りた恋幸は、後部座席から荷物を取り出す裕一郎のそばに駆け寄り「私も持ちます」と声をかける。



「気持ちは嬉しいです、ありがとうございます。ですが、荷物は私が持って行くので大丈夫ですよ」

「でも、」



 その先の言葉をつむぎ落とすより先に、まるで小さな子供をなだめるかのように彼の大きな手がぽんぽんと頭を撫でて、裕一郎はわずかに口の端を引きポケットから取り出した革製のキーケースを恋幸に差し出した。



「小日向さんには、玄関の解錠を任せたいのですが……良いですか?」

(ゆ、裕一郎様に頼られた〜っ!! 嬉しい〜!!)

「声に出ていますよ」





 車から荷物を運び終え、大小様々な大きさの紙袋をとこすみへ置いた裕一郎は、『何か』の入った箱だけを冷蔵庫の中へしまう。

 座布団に座ったまま彼の背中に向かって「すみません」とこぼした恋幸の眉は綺麗な八の字をえがいており、それを見た裕一郎は後ろ手に冷蔵庫の扉を閉めつつ困ったように短い息を吐いた。



「謝らないでください」

「でも……」

「今日や荷物の件に限りませんが、全ては私が貴女のためにしたくてしている事で、いわゆる愛情表現です。そんな顔が見たかったわけではありませんよ」

「……。……っあ、愛……っ!?」



 涼しい顔で何の脈絡もなく落とされた大胆発言に、恋幸は背筋をピンと伸ばして真っ赤な顔で唇の開閉かいへいを繰り返す。

 脳みその中を『愛情表現』の漢字四文字がループしているせいで、どう反応を返すべきなのか上手く考えることができない。


 嬉しさと恥ずかしさ、そしてほんの少しの困惑。

 その全てがあけすけになっている恋幸の様子を見て、いとおしげに表情をやわらげた裕一郎はわずかに首をかたむけた。



「……いちいち反応して、本当に可愛いですね」



 さらり、重力に従って彼の黒髪が揺れる。


 心と調子を乱す大きな原因の裕一郎が『余裕』を持ち合わせているのはいつもの事で、狼狽うろたえる恋幸を見て楽しそうに微笑む光景ももう何度目にしたかわからない。

 けれど、



(な、なんか、なんか……悔しい!!)



 いくら裕一郎に対して常に持て余すほどの膨大な感情を抱いていようと、いつもいつもばかりでは口惜くちおしくもなるというものだ。


 胸の中心にポンと生まれ落ちた対抗心が体を動かして、気付いた時には恋幸は座布団から立ち上がっており、勝手に進み始めた両足は裕一郎のそばへ向かう。



「お風呂は八重子やえこさんが沸かしておいてくれたそうなので、先に入って来てください」



 さすがの裕一郎と言えど恋幸の中で起きた精神的な“変化”を瞬時に察する事は困難で、目の前にやって来た恋人へ何の疑問もいだかずに指の背で頬をついと撫でた。



「……わかりました。けど、その前にしたい事があります」

「したい事? 何――……」



 言い終わるよりも先に、裕一郎の厚い肩に手を添えてぐいと背伸びをする。そして、羞恥心に瞼でふたをしたまま彼の薄い唇に自身の唇を重ねた。


 鼻筋に眼鏡のふちが当たったせいで、二人きりの空間でカチンと小さな音が鳴る。

 5秒ほどの間を置いて顔を離すと、空色の瞳を丸めて呆気にとられる裕一郎の様子が視界いっぱいに映り、噴水のように溢れ出した優越感が自然に恋幸の顔をほころばせた。



「それじゃあ、行ってきます」



 スキップに近い足取りで恋幸が床の間を出て行った後、裕一郎は大きく息を吐き出してがくんとその場にしゃがみ込むと、片手をひたいに当てたまま整った眉で八の字をえがく。



「……はぁ……参ったな。可愛すぎる」



 頬を朱に染めた裕一郎がうなるようにそう呟いているなど想像もしていない恋幸は、その時――廊下の曲がり角で右肩をぶつけていた。

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