第55編「だから自惚れてしまうんです」
「ああ、そういえば……貴女がこのエプロンを身に付けている間は『
今しがた思い出したかのような口調でそう呟いた裕一郎の指先が、恋幸の身に付けているエプロンの端をちょいと摘んで持ち上げる。
羞恥心なのか、それとも緊張感か。心の底から込み上げた『何か』が喉を詰まらせて、上手く言葉を吐き出せない。
「そ、の……はい」
心臓の音が耳の奥に響いているせいで、なんとか絞り出した彼女の声は
(裕一郎様の顔、見たいのに)
恋幸が唇を引き結んだ瞬間――両脇の下に裕一郎の手が潜り込み、驚く暇も無くウサギのようにひょいと抱き上げられる。
「!?」
あまりにも突然の出来事で声にならない声をあげる彼女をよそに、
ぎりぎり横抱き……
「……」
「小日向さん」
横目でそれとなく裕一郎の顔を確認しようとしたタイミングで低い声が彼女の名前を
「な、」
返事をするより先に伸びてきた手が恋幸の頬を優しく撫でれば、つい先ほどまで頭の中に浮かんでいたはずのセリフなど全て甘く溶けていく。
どきどき、ばくばく。とにかく心臓が忙しくて、どうにかなりそうだ。
「……今から私がすることに対して少しでも『嫌だ』『やめてほしい』と感じたら、私の目を見てください。貴女の嫌がることはしたくありませんから」
まるで悪夢の提案だと恋幸が頭の中で考えると同時に、
これから何をされるのか恋幸には見当もつかないが、彼の顔を見ていたくても視線を向けた瞬間に愛情は『拒絶』へ変換されてしまうのだ。
そして「彼に何をされても構わない」というのが変わらぬ本心である以上、彼女にとってこの条件はもはや苦行に
「わ、わかりました」
それでも、頷く以外の選択肢は選べなかった。
「それでは、」
おもむろに伸びた彼の大きな手が、恋幸の片手を包み込む。
裕一郎は割れ物にでも触れるかのように優しく彼女の手を掴むと、緩やかに自身の胸元へ誘導しその指先をネクタイに触れさせた。
「……『家事手伝い』さん。これ、外して頂けますか?」
「……っ、」
上品な
恋幸はこくりと頷いてから右脳と
(えっと、たしか)
次に、結び目から
真剣そのもので
「……っ、し! できた! できました!」
仕上げに彼の肩からぶら下がるネクタイを回収した恋幸は、両手のひらにそれを載せたままいつもの調子で彼の顔を見上げる。
しかし、ほんの一瞬だけ彼女の瞳に裕一郎の姿が映った瞬間、先ほど言われた事を思い出し慌てて顔を俯かせた。
見る人が変われば『騒がしい』と感じるかもしれないそんな恋幸の態度が、彼の心を甘くくすぐり続けていた。
「はい、ありがとうございます」
裕一郎は口の端をわずかに持ち上げ、恋幸の
そのまま白く細い指へ
「……可愛い」
「う、」
「う?」
「ひゃっ!」
黒髪の隙間から顔を出していた赤い耳たぶに彼が口をつけて
けれど、腰に回されたままの裕一郎の腕がそれを許すはずもなく、ひたすらに熱が集まる耳を唇で
不意に、恋幸の鼻をくすぐる
いつもいつも、理性を溶かすこの匂いをまるで
「……っゆ、いちろ、さま」
「うん?」
「もう……顔、見てもいいですか?」
恥ずかしさから震える声で彼女が問いを投げた瞬間――
数秒後、ほとんど密着状態にあった体温がゆっくりと離れていく。なぜか俯いたままの裕一郎は、ひどく冷たい表情を浮かべていた。
「……調子に乗りました、すみません」
「違っ……! 嫌とかやめてほしいって思ったんじゃなくて、そんなこと思うわけがなくて……!」
手を力強く握り返し、恋幸はネクタイを自身の太ももに置いてから空いた片手で彼の頬を撫でる。
「ゆ……倉本さんの顔、見たかっただけです」
すると、そんな彼女の手のひらへ裕一郎は猫のように頬を擦り寄せ、青い瞳に恋幸を映して綺麗な眉で八の字を
「私の顔なんて、見ていてもつまらないでしょう?」
「なっ、どうしてそんなこと……っ、」
自嘲にも似た口調に対して、
「……昔、そう言われた事があるからですよ」
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