第51編「貴女はまるで光ですね」

「くくっ、あははっ……!」

(へ? えっ……なん、)



 幼い子供のように屈託なく、表情をほころばせたまま声を出してからからと笑う裕一郎。

 初めて目にしたその様子に、消え去っていたはずの理性が恋幸の脳内へ帰還する。


 つい先ほどまでは彼女を形成する細胞の全てが『倉本裕一郎』を求め続け、彼に触れられたいという欲望以外には何も彼女の心の中に存在していなかった。

 しかし、今はどうだろうか?



(笑う裕一郎様……か、か、可愛い〜っ!! まさに、守りたいこの笑顔ってやつ!!)



 ときめきで胸が締めつけられ、彼を抱きしめたまま頭を撫で回して頬擦りしたい……などと、まるで赤ん坊を前にした時のような衝動に駆られるが、今しがたよみがえった“理性”でなんとか思いとどまり裕一郎の顔を凝視ぎょうしする。


 すると、視線に気づいた彼は片手のこぶしを口元に当ててわざとらしい咳払いを一つこぼし、上半身を起こしながらどこか居心地が悪そうに目を逸らした。



(あっ、残念……裕一郎様の笑う顔、もっと見たかったな)



 表情こそいつもの殺風景なものに戻ってしまったが、その頬と耳は朱色に染まっており、愛おしさのあまり恋幸の口元は無意識のうちに緩んでしまう。


 ――……そこでふと、以前星川に聞かされた話が彼女の頭をよぎった。



『裕一郎様は、今でこそ感情表現の乏しい方ですが、昔……裕一郎様が小学校に入り、高校・大学を卒業して新社会人になったばかりの頃は、もっと表情がコロコロと変わる明るい方でした』

(そっか、そうだ……が本来の裕一郎様なんだ……)



 出会った頃から無表情がデフォルトでついが普通であると思い込んでしまっていたが、彼女が考えた通り、本来の彼は先ほどのように顔を綻ばせたり一喜一憂する様子をあけすけに表に出す人間だった……と、聞いている。


 では、裕一郎にとっての『当たり前』を奪ったのはいったい誰なのか? 何が要因なのか?

 彼の笑顔を見てしまったが故に、答えの出ない疑問ばかりが恋幸の頭を埋め尽くしていく。


 すると、黙り込む彼女を見て裕一郎は何か思うところがあったらしく、「小日向さん」と一声かけてからセンターテーブルの上にあった眼鏡を手に取り、慣れた所作で掛け直しながら恋幸に目線を投げた。



「すみません。まさか、あの状況で香水の種類を聞かれるとは思わなかったので……つい」

「ゆうっ……く、倉本さんが謝る事なんて何も無いですよ! むしろ嬉しかったです!」

「嬉しい……?」

「はい」



 裕一郎は今だソファに寝転んだままでいる恋幸の黒髪を指先で撫でると、小さく首を傾げて次の言葉を待つ。



「倉本さんの笑顔を見られて嬉しかったです。倉本さんも、その……笑うんだな、って」



 失礼な言い方になってしまわないよう気をつけつつ、感じたそのままを伝えて口元に笑みを浮かべる恋幸。


 そんな彼女に対し、裕一郎は眩しそうに目を細めて「ふ」と小さく息を吐き、



「そうですね……私も所詮ただの人間ですから、笑うこともありますよ。……貴女の前でなら」



 事も無げにそう言って、人差し指の背でついと恋幸の頬を撫でた。



(わ、私オンリーって言いました……!?)



 古い表現をするならば、恋幸はまさに今トスリと音を立てて心臓に勢い良く矢が突き刺さったかのような感覚に襲われている。


 彼の落とした甘い爆弾で受けた傷――もとい、心の底から湧き上がった愛情は、『ときめき』なんて4文字で収めるには生ぬるかった。



「それにしても、貴女はやはり私に対して無防備すぎるのでは?」

「え?」

「分かっていましたか? 小日向さん。貴女、香水について聞いていなければ……私が笑っていなければ、あのまま抱かれるところだったんですよ?」

「!?」



 あまりにも直球な物言いに、恋幸は咄嗟とっさに出かかってしまったおかしな声をすんでのところで飲み込み、一度大きな息を吐く。


 そして、真っ直ぐに彼の瞳を見たまま唇を持ち上げた。



「私も、もっとたくさん触ってほしいって思いました。でも……倉本さんは、社長室こんなところで情を交わす男性ひとじゃないでしょう?」



 彼女の言葉を聞いて裕一郎はほんの一瞬目を見開いたが、息を一つ吐く間に感情を察知させない殺風景な表情へ変化してしまう。


 しかし、眼鏡の奥にある青い瞳はひどく優しい色を浮かべており、その心の中を表すかのように恋幸の頬を撫でる手のひらは暖かかった。



「……さすがに、私を買い被りすぎですよ。たしかに、“ここ”で最後まで行為に及ぶつもりはありませんでしたが……あわよくば貴女にもっと触れたい、程度には考えていましたよ?」

「へ……っ!?」

「愛おしい貴女を前にして、あそこまで可愛いことを言われて。それでもまだ何もせずにいられるほど、私は『大人』ではありませんよ。理想に沿えず、すみません」

「なっ、どうして謝るんですか!」



 求めていなかった急な謝罪のせいで瞬間的にパワーの湧き上がった恋幸は、腹筋の力だけで勢いよく上半身を起こして裕一郎に顔を寄せる。


 いつもならば彼女の方が裕一郎の整った顔を間近に見て我にかえり後退する場面だが、今回ばかりは彼の方が驚いて少し後方へ体を逃す番だった。



「私は……! 前にも言いましたけど、私は私の中で作り上げた勝手なイメージを倉本さんに押し付けるつもりは毛頭無いです! こう思ってるかな? とか、そういう時に予想と違っていたら少し驚いたり恥ずかしくなることは勿論ありますけど……でも、さっきの件だって、私を求めてくれたんだって思うと嬉しいですし、倉本さんが思っていた事を言葉にして伝えてくれるのがいつもすごく嬉しいんです!」

「……小日向さん」

「私にとっての“理想”の倉本さんは、今こうして目の前に居る『倉本裕一郎』だけです! 私の頭の中には存在しません! だから、」



 彼女が言い終わるより先に、その体を裕一郎が腕の中に閉じ込めてしまう。


 突然の抱擁ほうように驚いて硬直する恋幸をよそに、裕一郎は片手で彼女の頭を撫でながら耳元に口を寄せて「だから?」と低く囁いた。



「だっ、だか、ら、」

「はい」

「……謝らないでください。私、倉本さんは何も悪くないのにって時に謝られたら、胸が苦しくなります」

「ああ……それは困りますから、必要以上に謝らないよう気を付けますね。では代わりに、」



 そこで言葉を切った裕一郎は、いったん体を離すと両手で恋幸の頬を包み込むようにして持ち上げる。



「……ありがとう、小日向さん」



 ひどく穏やかに微笑む彼の姿が視界を独占して、満開の桜にも似たその美しい光景に、恋幸は一瞬息継ぎの仕方を忘れてしまった。



「あっ、こ、こちらこそ! いつも、ありがとうございます」

「いえ、私は何も。……ああ、そうだ。小日向さんに聞きたいことがあります」

「聞きたいこと?」

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