第166話 執政の接待と春之祭典2
「……読めない」
神農本草経も本草網目もがっつり漢文だった。
雪村の知識で漢文自体は読めなくはないけれど、医学的な専門用語が混じっていて、内容が難しい。
「写しを持ち帰っても良いぞ。侍女衆に写本を頼むか?」
そんなお気遣いをいただいたけれど、写本を貰っても、私が自力で理解できる内容じゃないよ。
結局、兼継殿に口語訳で翻訳して貰って、内容を必死で紙に書き写している。
必死で書いているんだけど、手書きだと遅々として進まない。これは一日かけてもあんまり進まないぞ……
道理で「明日、明るくなってから来い」って言う訳だよ。昨日行っていたら絶対に徹夜だよ。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。時間がある時で構いませんので、また教えて頂けませんか? これは私の手に余ります」
本当に迷惑なお願いだけど、背に腹はかえられない。
がっくり項垂れてそう言うと、兼継殿がつらっとした顔で「本草綱目は全五十二巻だ。頑張れよ」と言い出した。
ご、五十二巻……?
*************** ***************
「全部覚える必要は無い。日ノ本では手に入りづらい生薬もある」
ある程度メジャーな生薬を中心に、口語訳に直して説明してくれているけど、量はやっぱりそれなりにあるし、漢方薬の名前自体がもう画数が多くてややこしい。
葛根湯なんて楽なもんだよ。柴胡加竜骨牡蠣湯って手書きで書いてみて?
軽く手首が死ぬよ。
ちなみに雪村が子供の頃に教えて貰った『紫苑が鎮咳去痰の薬になる』っていうのは、神農本草経に載っていた。
兼継殿は子供の頃から、こんなのを読んでいたんだろうか……。
ふんふんと頷きながら必死で筆を動かしていたけれど、だんだん手と肩が痛くなってきた。たぶんもう五十枚分くらい書き続けているんじゃないかな。
でも兼継殿は興が乗ったのか、スパルタ教師のようにビシバシ説明を続けている。どうやって切り出そう……?
とうとう我慢できなくなり、私は情けない顔で兼継殿を見上げた。
「兼継殿……私はもう無理です。少し休ませて下さい」
ぽとりと筆を落とし、私はぷるぷる震える手を兼継殿の前に差し出した。右の手はどこもかしこも ばっきばきに固まっている。
それを見て、やっと兼継殿も我に返ったらしい。
ちょっと苦笑して、私が落とした筆を拾い、硯に置く。
「済まない、つい夢中になってしまった。無理をさせたようだな」
うう、もう少し早くリタイアすれば良かった。疲れた……
文机に突っ伏してぐてんとしていると、立ち上がった兼継殿が私の後ろに回って、首筋や肩に手を這わす。
そして首の付け根あたりをぐいぐい揉みだした。
こ、これが戦国時代の接待……! じゃなく。
戦国武将の握力でいきなり肩もみなんてされたら、気持ちいいより先に痛い!
「痛い……! 兼継殿、痛いです! もう少し優しくして下さい……っ」
私はびっくりしたのと痛いのとで、半分悲鳴みたいな声になった。
「少し我慢しろ。慣れれば楽になる」
指にかかる力は緩んだけれど、女の身体は柔らかいせいか、武将の力でやられるとやっぱり痛い。
しばらく我慢していたら、兼継殿が私の腕を掴み、肩甲骨のあたりを伸ばすようなストレッチをし始めた。
あ、これは何か身体が楽になってきたかも。
私はストレッチされながら、ちらりと兼継殿を振り返った。
漢文の訳をやらせた挙句に肩まで揉ませるなんて、雪村が居たら憤死しそうだ。ごめん雪村。
でも私だって気が咎めてない訳じゃない。
「申し訳ありません。私はこのような事に慣れていなくて……」
現世ではパソコン入力ばっかりで手書きなんて殆どしなかったし、こっちに来てからは『右筆』って文字を書く専門職が居るから、やっぱり殆ど字を書かない。
散乱した紙を見回しながら言い訳すると、兼継殿も少し笑って「どうだ。少しは楽になったか?」と聞いてきた。
ばりばりに固まっていた肩は、いつのまにかすっきりとしている。
「はい、気持ちいいです」
私も笑って返事をしたその途端。
ばったーん!
大きな音と共に襖が内側に倒れて、外から大量の侍女衆が雪崩れ込んできた。
*************** ***************
「……」
「…………」
失敗した組体操みたいに潰れている侍女衆と私達は、無言で見つめあった。
よく見ると、奥御殿の侍女も混じっている。
やがて次々と起き上がった侍女衆が、無言で襖を嵌め直して外へと消えていった。
そして襖の向こうから「雪村、最後の「気持ちいいです」は少し違うわ。もっと情感を込めて言って頂戴」とダメ出しが入った。
何だそれ?
でもどんな情感を込めればいいのか解らない。
「気持ちいいです……?」
「言わなくていい!」
側に居た兼継殿がぴしゃりと遮ったけど、一瞬遅かった。
「求めるものとは少し違いますが、まあ良いでしょう。戸惑った言い方も悪くないわ」
「雪村、「兼継殿」を冒頭に入れてもう一度」
その言葉が終わらないうちに、兼継殿がすごい速さで部屋を横切り、すぱんと襖を開け放った。
襖の向こうには 誰も居ない。
「くそ……! 『春之祭典』か……!!」
状況を理解しているらしい兼継殿は悔しがっているけど、何が何やら解らない私は、兼継殿の後ろ姿を見つめたままぽかんとしていた。
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