第149話 安芸返信1
「ちょい、待ってや。安芸殿」
肩を強く掴まれて、安芸は渋々足を止めた。
上方出身でもないのに、あちらの商人を真似たような喋り方が胡散臭い。お道化たような口調とは裏腹な鋭い狐目を見返して、安芸は困ったように微笑んだ。
「何度も申し上げておりますが、あの方とお会いしたのは先日が初めてです。難波殿に難儀しているようでしたので声をお掛けしただけですよ」
陰虎様の近侍とはいえ、主の私邸に単独で乗り込んでくるとまでは思わなかった。花姫付の侍女として側仕えしている安芸は、困った風を装いながら周囲の同僚たちに目配せした。
意図を察した同僚たちが、遠巻きにひそひそ耳打ちする。さすがと気まずくなったか、安芸の肩を掴んでいた手がわずかに緩み、それを待ち構えていた安芸はぐいと肩をそびやかした。
「もうよろしいかしら?」
にっこりと微笑みながら横をすり抜け際に、ち、と舌打ちの音が聞こえたが、安芸は振り向きもせずさっさと場を離れた。
「ありがとう。助かったわ。しつこい殿方には困ったものね」
「どうしたの? こんなところまで押し掛けるなんておだやかじゃないわよ?」
心配と好奇心をない交ぜにした同僚たちに、何か事情を説明しなければいけない。出来るだけこちらが有利になるような嘘を。
安芸は同僚と連れ立って歩きながら、大袈裟に溜め息をついた。
「実はね……」
*************** ***************
殆ど書き進んでいないのに、もう手元が薄暗い。考え込んでいる間に、明かりを灯さなければならない刻限になってしまった。
どのようにして雪村に知らせるべきか。安芸は一度、筆を硯に置いて頬杖をついた。
正室の花姫が越後から輿入れした事もあり、相模と越後の間では定期的に飛脚が行き来する。
飛脚が届ける文は、すべて城の『取次』によって検閲されるが、これからの安芸の文は、首藤にも筒抜けになると思って良い。あの男なら取次にそれくらいの根回しはしているだろう。
幸い、まだ『「越後の雪」からの文』に関しては気付かれていないようだが、これからは細心の注意を払わなければならない。
注意を払うべきではあるけれど、問題はその方法だ。
大名が内密の文を遣り取りする場合は家臣や僧、山伏などを使い、直接伝言を託す。
だが一介の侍女にそのような事は出来ない。
だからこそ『情報の受け渡しは直接会って』と取り決めたのに、まさか『雪村と会う』約束の文まで秘密にしなければならなくなるとは。
「まず、雪村はどこまで知っているのかしら。そこの注意を促すところからね」
硯に置いた筆を再び取り、安芸は独りごちた。
*************** ***************
「『安芸から文が来た』と、兼継様にお伝えなさい」
文に目を落としたまま老女が命じると、侍女のひとりがすっと立ち上がり、部屋を出ていく。
老女の手には、文と共に送られてきた細長い布包みがあった。
手元の包みと老女を交互に見比べながら、桜姫が戸惑いがちに「安芸は何故、雪村ではなく老女にお文を出したのかしら?」と訊ねている。
不思議にも感じるだろう。雪村からは「自分宛に安芸から文が届く」と聞かされ、その仲立ちを頼まれていたのだから。
「そうでございますね。私宛てではありますが、実際のところは兼継様宛て、といったところでしょうか。後ほど、これは雪村にも知らせますよ」
本人が嫌がって伸ばし伸ばしにしていた件を、とうとう実行しなければならない時が来たようだ。老女はちらりと、幼さの残る整い過ぎた顔に視線を戻した。
せめてこの姫の耳に入れないのが武士の情けというものだろうか。
雪村は「桜姫と兼継殿は親しくしている」と思っているようだが、侍女衆の目にはお互いに足を掬う隙を窺い合っているようにしか見えない。
それはともかく黒歴史とは、腹痛のようにじわりじわりと蝕むものである事よ。
幼い子供の頃から知っている執政の とり澄ました顔を思い浮かべ、老女は頬筋と腹筋がくつくつと痙攣するのをぐっと抑え込んだ。本人は至って真剣なのだ、笑っては可哀そうだろう。
「そうですね、姫様。私は少し席を外させていただきますわ。おやつにみたらし団子を用意してあります。少し休憩なされては?」
「解ったわ。何かあれば教えて頂戴」
察しの良い姫で助かる。
「兼継様がいらしたら、私の部屋に」
そばにいた侍女に耳打ちして、老女は部屋を出て行った。
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