12‥‥私と二人。



 初めて彼と出会ったのは去年の夏だった。

 八月の半ば。夏休みのとある一コマの出来事。



 美術部部長という不名誉な大役を課せられた私は、その日も朝から学校に登校していた。



「おはようございま~す」



 人気のない職員室からカギを取りに行き、むわっと熱風が籠る美術室を解放した私は、まず最初に窓を総て開き空気の入れ替えに勤しんだ。



 どうせきょうも誰も来ない。



 美術部とは名ばかりの部活動で、本気で絵を描いている人間なんて誰一人としていない。例に漏れず、私もその一人だ。



 しかし部長という役職を押し付けられたのは予想外だった。

 来年に待ち受けている新入生への部活動紹介が、既に煩わしい。



 ひんやりとした床に寝そべり体温調整。

 メガネを外してワイシャツのボタンを三つ外した。

 午後三時までの数時間、私は一体何をすればいいのだろう。



 絵を描けばいい――美術部員なのだから。

 そう言われでも甚だ困る。

 絵なんて描いたことないし、絵具で汚れたくない。



 こんななりをしているけれど乙女なのだ。

 本気出せば可愛い。

 本当の私は超絶美少女なのだ。

 ワケあって隠しているだけで。



 暫くの間、開け放たれた窓から見える青空を眺めながら、ただ時が過ぎるのを待った。

 待って、ようやく一時間経ったころ、喉が渇いたので一階に降りて自販機に向かった。



 滲み出る汗に嫌気を差しながらペットボトルのお茶を購入。

 再び美術室の前まで戻って来た私は、反射的に戸から身を隠した。



 見間違い、だろうか。顔を恐るおそる美術室に覗かせて、やはり見間違いじゃないと脳が判断する。



 率直に言って、丹代なあさが美術室で男子と逢引していた。



「いや……女の子? でもズボン履いてるし……胸もない」



 女の子と見紛う顔立ち。

 背も低く、華奢。

 中学生と言われれば、確かにと頷ける幼い容姿だ。



 私が見守る中、丹代なあさはとても愉しそうに少年の上着を脱がし、嬉々としてワイシャツのボタンを外していった。



 男の方も乗り気なのか恥ずかしがってるのかよくわからない表情で、なされるがままにされている。



 へぇ、と感心した。

 美術部に所属している女子の中では一際目立たない女のコが、男を部室に連れ込んで不純異性交遊だなんて。



 戸を少し開けて、僅かな視界で二人の行為を眼球に納める。丹代さんはどういう風に立ち回るのか、どこが弱いのか、どういう体位が好きなのか……部長として、とても興味がある。



 しかし期待は呆気なく裏切られた。

 中央に用意した椅子に半裸の少年を座らせると、丹代さんはキャンバスに筆を走らせた。



 この角度からでは何も見えないけれど、間違いなく丹代さんは連れ込んだ彼を描いている。肖像画だ。



 驚かないはずがなかった。

 この部活に、幽霊とギャルしか居ないと思っていたこの美術部に、まさか本気で絵を描きたいと思っている人間が居たなんて。



 真剣にキャンバスと向かい合っている丹代さんは、苛めで一人の女子生徒を自殺に追い込んだ主犯格にはとても思えない顔つきだった。



 夏休み前は黒かった髪を深みのある赤茶に染めて、清楚な雰囲気はそのままに大人っぽくイメチェンを果たした丹代さんは女子目線から見てもかわいい。大学生っぽくて着用している制服がコスプレにしか見えない。



 比べて、モデルの男子は成程、可愛らしい丹代さんが好きそうなかわいい草食系男子だ。サッカー部の顧問とかが大変好きそうな男のコだ。



 あんな子、この学校に居たんだ。

 机の上に綺麗に畳まれた制服の中から覗くネクタイの色から一年生だということがわかる。



 恥ずかしそうにきょろきょろ視線を動かして、丹代さんから注意を受けしょんぼりする姿は雨に打ちひしがれている子犬のようにしか見えない。



 これ以上邪魔するのも悪いので、そっと戸を閉めて私は学校を出た。

 近所のデパートで時間を潰そう。



 本屋で買った本をカフェで読みながら、刻一刻と時が過ぎるのを待ち、時計の針が二時を指した辺りで美術室に戻ってきた。



 既に二人はこの場から立ち去ったようで、机や椅子の位置も綺麗に何事もなかったかのように元通りになっていた。



 窓を閉めて部室のカギを掛けた私は、美術室の隣にある倉庫に向かった。

 ここは美術部がまだまともだった頃の諸先輩方による作品が納められた倉庫で、今では教師陣ですら知る人間は少ない。



 何十年も手入れをされていなかったせいで尋常じゃない量の埃が私を出迎えた。くしゃみが止まらない。



 しかし、そんな劣悪な環境のおかげでそれはすぐに見つかった。



 ひとつだけ埃が積もっていない不自然な作品の布を翻すと、そこには息を呑むほどに美しい少女の下絵が隠されていた。



 椅子の上で足を抱え、この先の未来を愁うような少女の儚い面影。

 少女が、あるいは丹代さんが抱え込んでいる心の闇のようなもの。

 あるいは、あやふやで脆く壊れてしまいそうな切望を、その絵から感じ取れた。



 キャンバスをひと撫でして、目を閉じた。



 丹代さんの目にはきっと、のだろう。同時に、どうしようもなく好きだという気持ちも抱えている。



 初恋にも似た不思議な感情が、湧き上がってくるのを感じた。



 誰かひとりに、ではなく、ふたりに対して。



 その熱は家に帰ってからも続いていて、不服ながらもお父さんにお腹を蹴り飛ばされた。



「人の話をまじめに聞きなさい!!」



 隣に座っていた兄を巻き込む形で倒れ込み、胃の中から唐揚げが戻ってきた。



 突然の衝撃にパニックを起こした兄は奇声を発しながら壁にタックルして気絶した。


 お母さんは点いていないテレビを見つめながら「あら、また不倫騒動? いやぁねぇ~」といつもの調子で日本の未来を愁いでいた。



「明日、壮玲そうれいさんがおまえの様子を見に来るそうだ。失礼のないように対応しろよ」


「……はい」



 壮玲というのは、私の許嫁の名前だ。

 絵に描いたような眉目秀麗で、ラノベの主人公のように正義感が強く、間違ったことは許せない。そして女好き。



 そんな彼は幼い頃からアプローチを受けている幼馴染と生まれながらの許嫁である私のどちらを獲るかでなやんでいるらしい。

 毎日のようにSNSで現状報告ポエムが送られてきて、知りたくもないのに近況を把握させられていた。



 だからブロックした。

 きっとそれがバレたから直接会いにくるのだろう。

 なんて面倒くさい男なんだ。

 キープにされる女の気持ちがよくわかる。



 吐いた汚物を片づけ終えた私は、お腹をおさえながら部屋に戻って来た。

 お父さんはスーツに着替えて家を出て行った。

 多分、パチンコかキャバクラだろう。



 机の引き出しから大量に印刷した家族写真を取り出して、デパートで新調したカッターを使い新しい世界地図を作った。



 やはりというか、世界を作るのには写真一枚じゃ足りず、合計八十枚もの数を消費してしまった。カッターも買い替えたばかりなのに刃が二枚しか残っていない。



「死ね、死ね、死んでしまえ……死ね、死ね……」



 ふと、階下から兄の奇声が聞こえきた。



 どうやら空気中に漂う菌が肺に這入ってくるのを止められないらしい。



 いつものことなので、私は無視してカッターを写真に突き立てた。


 

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