第5.5話 ジュリの時間
『おい!早く来い!』
『………はい』
男に少女は呼ばれる。
『このクソアマ!早く来いっつってんだろ!』
『………はい』
痛めつけられ思うように動かない足を動かし、少女は歩く。
『………ッ!?』
少女の足は不意に痛み、上体を支えられなくなり、力無く倒れる。
『何をしている!』
『イッ…!』
倒れた少女の頭は男に踏みつけられる。
『ガハハハっ!貴様のようなゴミが私のような高貴な存在に構って貰えるだけ幸せ、そうは思わんかね?』
男は何度も少女の頭を踏みつけ、捻じるように足を動かす。
『………はい…ありがとう…ございます』
『返事が遅い!』
『ッッッ!』
男は少女の腹を蹴り飛ばす。
少女は腹を押さえ呻き声を吐く。
喉奥から湧き上がるのは鉄の味。
その口には赤い液体が零れていた。
………………………………………………
「ハァッ…ハァッ…」
酷い頭痛と、腹痛に苛まれて体を起こす。
…朝…ここは…。
「………大丈夫。ここは…功次さんの…」
私が功次さんの家に来てから早くも1週間と少しが経った。
最初の頃の皆さんに対する不安はもう無いといってもいい。
何処まで行っても良い人で、私が不自由しないようにすごく気を回してくれる。
「おはよう、ジュリ。良く寝れたか?」
「…はい。ベッドもふかふかで、あったかいので」
「そうか…」
階段を降りてリビングに出ると、既に起きていて朝食の準備をしていた功次さんがいた。
「真式さんは、まだ起きてないでしょうね」
「朝飯が出来たら起きてくるだろうな」
「あ、私も手伝いますね」
「ありがとうな」
このように功次さんの雑事を手伝うのも、面倒くさいだなんて思いはしない。
むしろ少しでもこの人の役に立ててるのではないかと思えて、内心嬉しくなる。
ここにいられる意味を持っていると思える。
「…うーむ」
功次さんが小さく唸る。
どうしたんだろう?
「ジュリ、今日は何かしたいことあるか?」
「大丈夫ですよ。功次さんこそ今日のご予定は?」
「仕事を少し進めたら時間はあるからな。どっか出掛けるか?」
「…ご迷惑でなければ」
「遠慮すんな。じゃあ昼飯食ったら行こうか。真式は仕事でおらんしな」
「はい」
功次さんは私が退屈しないようにいつも時間を空けてくれます。
別にそんなことをしていただかなくても、気にしないのに。
ここには沢山の本があるので、以前の痛めつけられるのを待つだけの日々と比べたら退屈なことなんて無い。
喉が渇けば許可を取らずに飲めて、小腹が空けば何か手を取ることもできる。最後にこんなことを経験したのはいったい何年前だったかという生活を送る事が出来る。
ごく普通の幸せというのは、こういうことを言うんだろう。
それに功次さんの…同居人?居候?の真式さんもいい人です。
功次さんはいつも文句を言いながらも真式さんの自由を許して、真式さんも功次さんが本当に迷惑に思うことはしないようにしているので、良好な関係性なんだと思う。
私が一人でボーッとしていると、「話し相手になってくれよ」と言い、いろんな事を教えてくれます。
ある時の会話。
「功次はどうだ?」
「どう、とは?」
「お前さんと一緒にいるときの功次はどんな感じなのかなって」
「そうですね…いつも通り優しいですよ」
「…ほんとにそうか?」
「え?別に何も酷いことされていない筈ですけど」
「いや、違う違う。確かにあいつが優しいのはわかってる。俺が聞きたいのはお前と二人だけでいるときの様子だ」
「そんなこと言われても…別にいつもと変わらないですよ。私が困ってたらすぐに助けてくれますし、気にかけてくれます」
「…気づいていないのか?」
「え?」
「あいつがお前と話すときの表情、俺とか他の人と話すときに比べて穏やかな顔してるぞ」
「…そうなんですか?」
「あぁ。いつも他人とは数歩退いて接するようにしている。たとえ仕事仲間や世話になった相手でもな。でも、お前と話しているときのあいつは…なんかこう~説明しづらいけど、安心しているように俺は見える」
「私からはそうは見えませんでした」
「そうか。まぁ、功次とより仲良くなりたいんだったら言いな。協力してやる」
「…ありがとうございさす」
真式さんには功次さんに対する私の気持ちを見透かされているようで、少し困る。
それでもこういった風に元々奴隷だったということを気にせず話しかけてくれるのは私としてもありがたい。
「じゃあ、行くぞ」
「はい」
功次さんも仕事に一段落付き、昼食を取ると出掛けることになった。
まだまだここに来て日が浅いので知らないところが多い。
そう言ったところを教えて貰いながら、買い物なども済ませるという時間だ。
「んー…そういえば」
「どうかしましたか?」
「ジュリってまだそんなに服無いよな?」
「あー…そうですね」
「だよな。最初にティナのところ行ったきりだしな」
確かにその時以来だけど、今のところ服装で困ることはない。変に多くを買いすぎても功次さんの迷惑にもなるだろうし。
…でも、功次さんにそんなことを言っても「遠慮すんなよ」と言うだろうな。
「…ついでに俺の服も買ってくか」
「え?」
「…前に巻き込まれた面倒事の時に着ていたパーカーに穴とか斬り跡みたいなのが付いていたんだよな」
「…あ~」
多分羽夏さんが戦ったときに付いたものなんだろうな。
…羽夏さん。未だによく分からない人だ。
功次さんの第二人格…とあの人は言っていた。
あの時は驚いた。先程まで捕まっていた功次さんがいきなり女性になったかと思えば、とんでもなく強くなっているんだから。
「まぁ…だからついでだ。ティナのところ言って何かほしいものがあったら気にせず言ってくれ」
「あっ…はい」
多分気づかれているかもしれない。
私がメインの目的で買い物をすると、遠慮するということを。
だから敢えて『ついで』ということにして、私が遠慮しないようにしたんだろう。
…それでも仕方がないじゃないですか。
今まで数年もの間、誰かに甘えるなんて事はできなかった。
もはやそれが普通だと思って生きるようになってしまった。
このまま死ぬまで体に傷を負い続けることになると。
そんな私に年相応の自由なんて与えられても扱い方が分かりません。
「ティナー、居るかー?」
少し歩きティナさんのお店についた。
相変わらず沢山の服がある。
私みたいな子供用のも大人用のもあるのは、相当品揃えが良いんじゃないだろうか。
「あらっ、功次~。良いタイミングに来たわね」
「は?何かあったのか?」
店の奥の部屋からティナさんが顔を出した。どこか焦っているような…。
「ちょっと急にモデルの方の仕事が入っちゃったのよ。それで手伝ってほしいの~」
「え、やだ」
功次さんはティナさんの頼みを即答で断る。
「ほんとお願い!」
「やだよ、めんどくさい。っていうか次の仕事の手伝いは2ヶ月後だった筈だろ?他の従業員とかに頼めば良いじゃないか」
「彼らには彼らの仕事があるし…経験あるの功次だけだし…今頼めるの功次しかいないの。そんなに時間取らないから…だからお願い!」
手を合わせて功次さんに再度頼み込む。
「え~…」
「…今日ここに来たってことは何か買いに来たんでしょ?」
「まぁな」
「その代金無料にするから!」
「…なら、まぁ」
「っ…ほんとありがとう!」
渋々といった様子で功次さんはティナさんの頼みを受けた。
一連の様子を後ろで見ていた私の方に功次さんが向く。
「悪い、ジュリ。ってことで急な仕事が俺にも来た。ちょっと待っててくれるか?」
申し訳なさそうに功次さんは言うが、別にそんなことを思わなくても良いのに。
私なんかより仕事を優先して貰った方が、他の人にも功次さんにも良い筈。
「大丈夫ですよ。私はどうしていましょうか?」
「…なんならジュリちゃんも来る?」
私は待っている間どうしようかと考え始めると、ティナさんから予想だにしない提案がされた。
「えっと、いいんですか?」
「もちろんよ~。別にただ私たちは指定された服に着替えて写真を撮るだけなんだから~。見るくらいなら全然問題ないわよ~。それに…」
「それに、って何ですか?」
「ジュリちゃん綺麗だから、もしかしたら一緒にやれるかもしれないしね~」
「…邪魔にならないなら、私も行きます」
功次さんのティナさんへの手伝いというのを実際に見てみたいというのもあるし、いつも同じような格好をしている功次さんの他の格好を見てみたいというのもある。
「じゃあ、現場までつれていけよ。どうせいつもの場所じゃないんだろ?」
「そ、そうだけどちょっと待って…今準備しているから…」
「なんだよ、さっきから顔だけ出して。なんの準備しているんだ?正直早く終わらせたいんだが」
溜め息をつきながら功次さんはティナさんの元に向かう。
その顔は『面倒だ』という雰囲気が出ていた。
確かにティナさんは店の奥の部屋から顔だけ出して話し続けているけど…何をしているんだろう?
もしかして…
「功次さん!」
「ちょ、待っ!」
功次さんが部屋に手を掛け覗き込む。直前にティナさんの焦った声が発せられる。
「なんだ、着替え中か」
「え、それだけなの…?」
功次さんがとんでもないことをしていた。
だけどその反応はとても薄かった。
「別に他人の着替えなんぞ見て何を思う?」
さも当たり前かのように功次さんは言うが、いくら私でもおかしいということは分かる。
もしティナさんが男性なら功次さんが何も思わないことは自然だろう。
だけどそのティナさんは女性、私の目から見ても綺麗だと思う。
そんな人の着替えを見て一切思うところがない功次さんはおかしいと思う。
もしかして…慣れていたり?
「…相変わらずねぇ。その異性に対する興味の無さ、何とかした方が良いとお姉さんは思うわ~」
「…俺には関係ないな。で、俺の服は?」
功次さんはティナさんの忠告を軽く流して、仕事の衣装を探し始める。
「それならこっちにあるけど…一旦出てくれない?服着たいんだけど」
「そんなん気にすることか?なら俺のやつを取ってくれよ。そしたら出て着替えるから」
「はぁ…頑固ねぇ」
ティナさんは呆れながら衣装を用意して功次さんに渡す。
それを受け取った功次さんは頷いて、その場を離れ試着室に入った。
少しするとティナさんが出てきて私の隣に立った。
最初に会ったときとは違う、より妖艶な雰囲気に目を奪われる。人は衣装だけでかなり変わるみたいだ。
それはともかく…どうしたのだろうか。
「功次にも困ったものねぇ」
「…いつもあんな感じなんですか?」
軽い愚痴を溢すティナさんの話を聞くことにする。わざわざ隣に来たということは、私にも関係あるんだろう。
「そうねぇ…私の仕事を手伝って貰い始めたときからあんな感じねぇ。最初は悲鳴の一つも挙げたけど、今となっては慣れてきちゃった自分が恐ろしいわね~」
「なんであんな風なのかは分かりますか?」
「さぁ?…仕事を早く終わらせたいからその道中の出来事に興味がないのか、完全に異性に興味がないのかどっちかでしょうね~。私は後者だと思ってるけど」
「…それはなんでですか?」
「功次ってあんな風に服装はずっと同じのを着てるけど、顔は悪くないし、人に対しても割と親切で稼ぎもある。世の女性からしたら狙うには充分な相手。だからよく仕事の手伝い先で言い寄られてるのを見るけど、即刻全部断ってるのよね~。むしろ嫌な顔をしてる時もあるわねぇ。相手の方には気付かれないように表情を誤魔化しているけれど、私の目は誤魔化せないわ~」
確かにクラレイさんもそんな感じで功次さんは人気があるということは言っていた。
「…誰か意中の方は?」
「さぁ?あんまりそういう話振っても無視されるから。でも私の勘だといないと思うわね~」
「…そうですか」
それは私にとっても、まぁ嬉しいことだけど…それはそれで困ったことになる。
異性に興味がないとなると、功次さんに意識して貰うにはかなりの道のりとなりそうだ。
そんなこんなティナさんと話していると、功次さんも試着室から出てきた。
「なんの話をしてたんだ?…ってかこれ動きづらいな」
不満そうな顔をして出てきた功次さんはいつもの全身真っ黒でラフな格好とはうって変わって、彩りのある格好となっていた。
町の人となんら変わらない普通の格好だ。
でも、見慣れない功次さんの格好によく分からない感覚に襲われる。
「俺に青は似合わなくね?」
「そんなことないわよ。着心地はどう?」
「上はともかくとして、下が動きづらいな。あんま見たことないやつだけど、何て言うんだこれ?」
「えーっと確か…『ジーンズ』って言う筈。隣国で金鉱探しの作業用として使われているのよ。だから動きやすいとは思うんだけど」
「…まぁ、良いや。なんでそんな作業のやつをお前みたいな見た目専用の店に任せたんだ?」
「なんか流行りそうってことらしいわ」
「ふぅ~ん。じゃあ、早めに行こうぜ。いつもの格好に戻りたいんだ」
「せっかちねぇ…分かったわ。行きましょうか。ジュリちゃんも大丈夫?」
「あ、はい」
どうしても新鮮な功次さんに視線が釘付けになってしまい、少しボーッとしてしまう。
自分で言う以上に私は似合っていると思う。
だから、なんでずっと同じパーカーを着続けているのか分からない。
「ティナさん、次はこちらに…」
「功次さんも同じほうを見てください」
すたじお?って所に着くと何人かが撮影機を用意していて、二人は指示を受けながら写真を撮られていく。
ティナさんはいつもよりも凛々しい雰囲気で、功次さんは時間が経つほど退屈そうな雰囲気を出しながら真顔で指示通りに動いている。
「功次、もうちょっといい顔で写った方がイメージ良いわよ?」
「何度も言うがそんなこと俺には関係ないな。他人の評価なんて必要ない」
「偏屈ねぇ」
ここに来て30分ほど。私はいつもと違う功次さんを見られて少し楽しいが、当の本人は本当に面倒くさそうにしている。
仕事は仕事だと割りきってやるのかと思っていたけど、そう言うわけではないのかも?
「君は?」
功次さん達の仕事をしばらく見ていると、突然この場を仕切っている監督のような男性に声をかけられる。
「え?あ、えっと…」
突然の事でちゃんとした返しが出来ない。
「そ、そんな驚かせるつもりはなかったんだ」
「あ、え、大丈夫です」
どうしても大人の男性に対しては一瞬恐怖を覚えてしまう。
功次さんとか真式さんくらいであればまだいいのだけれど、自分と同じ位か大人は…少し前までの事を思い出してしまう。
世の人にそんな人は少ないことは重々承知している。けれどもこれはトラウマ。どうしようもない…と思う。
「えっと、なんでしょう?」
「君はその…彼と写らなくていいのかい?」
「功次さんと?」
そんなことを言われても私はティナさんのように綺麗じゃないし、功次さんと写るのはおこがまし過ぎる。
「ずっと彼の事を見ているし、ティナさんの事を羨ましそうに見ている節があったからね」
「えっ…」
…本当に私はそんなことしていたの?
別にそんなことをしている気はしていなかった。
そのせいで少し驚く。
「…でも、私に合う服はありませんよ?」
一応聞いてみると、男性はすぐに表情を変えて
「写る気はあるのかい!?」
と、嬉々と聞いてきた。
「あ、え、い、一応?」
突然の変わり身に対応に困る。
「じゃあ、これを着てみてくれないか!」
するとどこかに行ってすぐに戻ってきた。その手には私のサイズに合った洋服がいくつかあった。
「…これは?」
「彼らが着ている物の子供バージョン。これは彼やティナさんみたいな大人以外にも合うという事を示したい。君さえよければそのモデルになってくれないか」
その申し込みに対して私は少し悩む。
ここに来る前にティナさんに、そんな感じの事を言ってはいたけれどまさか本当にそうなるとは思っていなかった。
それに私は皆さんが言うほどいい容姿はしていない。
だからこんな周囲の目に留まるような役を私が引き受けてもいいものかと考えてしまう。
それでもクラレイさんに言われたことや功次さんがいつも言っていることに従おうと思う。
「お疲れさまでしたー!」
どうやら終わったようだ。
撮影機が片付けられると、この場を仕切っていた人が声を挙げる。
「いやー、いきなりの申し込みよく受けてくださいました」
「いいのよ~。私が知らない世界の衣服を提案して貰えるのは、こちらとしてもありがたいわ~」
「…次からはもっと前々から言ってほしいものだな」
笑顔のティナさんと比べて、無表情の功次さん。しかしその声音からは気だるさが見られる。
「ま、まぁ、そこに関して言えば申し訳ない。なにぶん急なことでこちら側に良い男性が見当たらず、ティナさんの方にお任せをしてしまった此方に非があります。何卒ご容赦願いたく」
「…はぁ~、ちゃんと報酬をくれるんなら問題ない。ティナにもちゃんと条件は提示してあるしな」
少し不服そうながらも、頭を下げられたので功次さんは相手をフォローした。
「にしても良かったのか?ジュリも一緒にやっちゃっても」
「こちらとしても、彼女のような存在も必要でした。むしろ協力してもらえて助かりました」
半ば無理矢理といった感じだったが、私とこの人の利害一致でこのような機会を与えて得ることが出来たのは、短い時間と言えど功次さんの隣に立てた。
「…マジか」
「…すいません」
「いや謝らんで良いんだけどな」
「あらあら~、ジュリちゃん似合ってるわよ~」
「はいじゃあ、御三方お並びください!」
三人で横に並ぶ。
私を真ん中に、右に功次さん、左にティナさん。
「皆さん自然なポーズで!」
ティナさんは用意されたバッグを肩にかける。
功次さんはパーカーの癖でポケットに手を入れようとしてないことに気づき、腕を組む。
そして私は…少し功次さんの方に寄り手を前で組む。
その行動に気づいたティナさんは目線を一瞬こちらに向けると、口元を少しに綻ばせる。
「目線よろしくお願いしまーす!」
その合図とともに私たちは、撮影機の閃光に照らされる。
そこから数度に渡って角度を変えたり体制を変えたりして、写真を撮られた。
たまに着慣れない格好で姿勢を変えようとしたことでバランスを崩しそうになったこともあったけれど、功次さんが支えてくれたおかげで倒れたりはしなかった。
このような日の目を浴びるような経験は元の境遇から考えればあり得ないこと。
だからこそ、これ以上は望むことが許されるのかとも思ってしまう。
「ではこちらの写真を記念としてお渡しいたします」
「ん?いらんのか?」
監督のような男性から数枚の写真を渡される。
「最もよく撮れた物のみをコピーし使うので、その他をこちらは必要としません。ただ捨てるだけではもったいないので、協力をさせていただいたときこのようにお渡しするようにしてるんです。そしてもう一つこれを…」
次に渡されたのは、今回の撮影で着ていた衣装等。
「あら~、じゃあありがたく貰っておくわね~。写真、どこに飾っておこうかしら?」
「今までも何度かこんな感じの仕事をしたが…貰ったことはないな。どうしてこれを?」
功次さんは過去の経験を振り返り、質問をする。
「世界には無数に私のような、人の身に纏う衣を扱う者がいます。衣はその人を表す指標の一つ。御二方のような名声を持ち、自身を表現するのに苦労しない人は良いんですが…やはり、自信を持てず表現できない人も一定数います。しかし御二方の様な方と同じ格好をすれば、少なからず自信がつく人も出てきます。私たちはそのような人の手助けをしたいのです。そのためには、御二方にこの服を普段から来てもらいたいという考えがありましてね」
男性の言葉に対して功次さんは重く口を開いた。
「…だが、それは俺らの威を借る狐と言ったところじゃないか?そんなんでついた自信は自分を苦しめる要因になる可能性もあると思うが…」
「確かに功次さんの言うことも一理あります。しかし、そのような借り物の自信だったとしても、無いものからすればそれを得るきっかけにはなります」
「…そうか。その考えは良いが、一つ謝らなきゃならないことがある」
「なんでしょう?」
功次さんは腕を組む。
「俺は、有名なんかじゃないし名声もない」
「…はい?」
「あと、頼まれたこいつを着るっていうのは出来んな」
功次さんの言葉に、男性は固まる。
有名ではなく名声もない?
実際それらがどれだけあるのかはわからないけれど、本を出しているのなら少なからず読んだ人には認知されるはず。
しかもほとんどのミョルフィアの人たちにその名前は知れ渡っている。
この男性も功次さんのことを知っているからこう言っている。
それなのにそう言い切るのはなんでだろう。
「しかし、功次さんは本を出されていますよね?しかもイアラロブで。あそこまで規模のギルドであれば、充分なものを持っていると思われますが」
「イアラロブ所属だからと言って埋もれるやつだっている。ある程度の金を得て生きていけるようになったのも、運が良かった。ただそれだけだ。本来だったら野垂れ死ぬか、盗賊に身ぐるみ剝がれて売られててもおかしくない」
「しかし、たとえ運だったとしても、その地位と名声は確かなものなはず」
「運で得たものほど醜いものはない。むしろ運でこうなった存在を大々的に見せてしまえば…本当にどうしようもない者にも希望を持たせてしまう。…叶うことの無い希望を持ち続けることほど辛いものはない」
その言葉を綴る功次さんの顔は、何かを知っているような、そんな顔をしていた。
目に光がなく、声のトーンも下がる。
いつもとは良くない意味で違う雰囲気。
そこには怒りも哀しみも何もなくなった時の私と…同じものを感じた。
「きっかけが借り物だとしても、希望を持ち自信をつけるには充分です」
功次さんのその様子に躊躇わずに、男性は自分の考えを伝える。
「…そこまで言うのなら好きにしろ。だが、さっきも言った通り俺はこいつを日常で着ることはない。悪いな」
「そうですか…」
少し残念そうに男性は言う。
「ま~、私も着るとは言えないわね~。モデルとしての仕事を、日常に持ち込む気なんてないもの」
「そ、そうですか。こちらの衣服等にご不満が?」
「別にないわよ~。そのジーンズとやらとかも一定の需要はあると思うの~。ただ私には必要ないってだけよ~。あ、その写真を雑誌の載せるのは問題ないわよ~」
「分かりました。…本日は協力ありがとうございました」
こうしてティナさんの仕事の手伝いが終わった。
「お疲れ様ね~」
すたじおからティナさんのお店にまで戻ってきた。
私も撮影で着た服を貰ってきちゃったけど良かったのかな?
私は二人と違ってそんな大したものは持っていないけど…。
「よし、ティナ。言われた通り仕事はしたぞ。約束通り俺らの買い物代金無料にしてもらうからな」
「覚えていたのね…」
「当たり前だ。忘れたとは言わせんぞ」
「はぁ…あなた、下手したら真式君よりも金銭に対して執着がすごいと思うのだけど?」
「…さぁな、気のせいだろう。ほら、ジュリ。好きに見てくるといい」
「分かりました」
功次さんに言われた通り、私はティナさんの店を見て回る。
本来であれば、遠慮をするところではあるが今や遠慮をするとお二人に迷惑になることを感じている。
だからこそ言われた通り与えられた自由に浸る。
「このヘアピンは…似合うかな?」
なんとなく目についた緑色の小物を手に取り、前髪に付けてみる。
せっかく少しの我儘が通るのならば、自分を良く見せるために使う。
功次さんに釣り合うために。
自分自身を持つために。
「ティナ、俺のパーカーあるか?」
「あるわよ~。ほら」
二人の方を見ると、功次さんの目的を果たそうとしていた。
「馬鹿かお前。そいつは子供用のやつだろ。着れるか」
「冗談よ~。ちゃんと用意してあるわよ~。ほら」
「デカすぎるわ。サイズなんだよ?」
「4Lね~」
「ブカブカになるわ。まともに動けなくなるぞ」
ティナさんが功次さんにいたずらを仕掛けている。
功次さんはため息交じりにツッコミを入れている。
しかしその光景を見ると、どうしても自分の心臓に痛みを感じてしまう。
あの二人の間にそんなことは一切ない。私はそれを知っている。
それでも感じざるおえない、この嫉妬に。
二人のその様子を見ていた私に対して、功次さんに笑いかけるティナさんの目が向けられる。
「………?」
その目に困惑をしていると、ティナさんは私の方に近づいてきた。
「ジュリちゃん、なんかいいのあったかしら~?」
「あ、えと…これが」
私は試しに頭に着けたヘアピンを指さす。
「あら~似合ってるわよ。功次にも見せてあげたら~?」
「大丈夫でしょうか?」
「自信持って~。大丈夫よ。似合ってるから」
いざ見せるとなると不安で仕方がない。
ティナさんが似合ってるといっても、功次さんがどう思うか分からない。
しかし私がいまだに踏みとどまっていると、ティナさんが私の後ろに回り込んで肩を掴んだ。
するとティナさんの顔が、私の耳元に近づく。
「ジュリちゃん、そんなんじゃあの堅物は落とせないと思うわよ~」
「…え?」
「今日見たと思うけど、どう思う?あの異性に対する興味の無さ。私も自分自身に魅力がないとは思ってるんだけど~…あんな風に扱われると、ちょ~と自信なくしちゃうのよね~」
「た、確かに…」
「それに今の功次を見てみて」
ティナさんが功次さんの方を指さす。
「ここには女性ものの服も十分置いてあるし、適当に放置してきた場所の近くには女性ものの下着もあるのよね~。それでも今功次はどこを見ていると思う?」
そう言われて功次さんの顔と目の方向を遠目に確認する。
その目はどこを見ているでもなく、光のない目をただ壁に向けていた。
「ど、どこを見ているんでしょうか…?」
「正直なところ、さぁ?っていうのが答え。彼は常に虚空を見つめてる。そこにはきっと誰も、何も映ってない。そこに入ることが今のジュリちゃんが目指すことなのよ~」
何も見ていないし、何も見えていない…というなのだろうか?
私や真式さんといった誰かと話しているときはそんな感じではない。
しかし一人でいるときは、あんな様子なんだろうか。
もしそうだとしたら…どうしたらあそこまで希望のない目をすることが出来るんだろうか。
「そこに映るには、積極的に攻めないとこの勝負に勝てないと思うわ~」
その言葉と同時に私は背中を押される。
「さぁ、頑張りなさい。そのうちライバルが出てくると、奥手のままだと負けちゃうわよ?」
「わ、分かりました…」
そこまで言われてしまっては…自信はないけど、功次さんを取られたくないという気持ちが勝る。
「…ふぅ…功次さん」
「お、どした?」
ティナさんに貰った新しいパーカーの着心地を確かめている功次さんに近づいて声をかける。
先程までの仕事で使っていた服はやはり新鮮だったが、このいつもの功次さんの服装が一番馴染んで見える。
「その…これどうですか?」
私はヘアピンをつけた方の頭を見せる。
どうか…お気に召してくれるといいけれど…。
「似合ってるぞ。ジュリに合ってる。いいセンスだ」
功次さんはそういうと私の頭を撫でる。
その言葉に私は深く安堵したと同時に、嬉しさがこみ上げてきた。
「そういう小物だけじゃなく、他にも選んでいいんだぞ。今日はティナの奢りだ。遠慮しなくていいからな」
撫でられるのが終わり、顔を上げる。
その時、功次さんと目が合う。
そこであることに気が付いた。
さっきとは打って変わって、目に光がある。
やっぱり誰かと話したり関わっているときは、そうなるんだろうか。
「ジュリちゃ―ん。こっちおいで~」
「呼ばれてるぞ。時間は気にせんでいいからな。ゆっくり見てくるといい」
「…はい。ありがとうございます」
私はティナさんの元に戻る。
「嬉しそうね~」
「な、なんで分かるんですか…?」
「分かるわよ~。そんな顔を綻ばせてたらね~。気づかないのは…」
ティナさんは、またしてもあの顔に戻った功次さんの方を見る。
「あの人の心を察せない鈍い人だけよ~」
「そ、そうですか…」
そこまで顔に出でいたのかと思うと途端に恥ずかしさを感じてしまう。
それでも、以前はこういったことも全て心が閉ざさざるおえなかったと思うと、今は相当幸せなのかもしれない。
「功次みたいな面倒な男に奢ろうとかは思わないけど、ジュリちゃんは話が別ね~。さぁ、一緒に選びましょ~」
「あ、え、ちょ、ちょっとティナさん!?」
ティナさんが私の後ろに周ると背中を押す。
そして私は二人いろんな服を手に取り、渡され、着てみた。
その度に、どこか遠いところにいる功次さんの意識を引き戻して、感想を聞く。
功次さんは濃い色が好きなようだ。
どれも『似合ってる』と笑顔で言ってくれる。
それが嬉しくて、顔が緩む。
しかしその緩んだ顔を見られるのが、恥ずかしくて俯いたり横を向けてしまう。
私たちのその様子を、ティナさんは後ろで微笑ましそうな表情と難しい顔の二つを出す。
「こ、これで十分です。これ以上はティナさんにも申し訳ないですしっ」
「あら、そう?もう~遠慮しなくてもいいのに~」
「いや、あの…」
「まぁこれ以上ジュリちゃんをお人形にしてるのも悪いわよね~。ここらへんで終いにしておくわ」
「お、お人形…」
もしかしてただティナさんに遊ばれていただけだったの?
でも、私も自分に合う服を、功次さんの好みの服を探すのが楽しかった。
「じゃあ一応会計通しとこうかしら~」
「分かりました」
ん?でも、今回のこの服だとかは、功次さんの仕事に仕事を突発的に手伝わせたお礼ってことだったんじゃ?
「功次~こっち来て~」
「ん?終わったのか?長かったな」
「お待たせして申し訳ございません」
「いいよ。ジュリは満足したか?」
「はい。こんなによくしてもらって、私はどうお返しすればよいのか…」
「そんなこと気にしなくていいんだ。ジュリはもっと甘えていい。年相応に人に甘えたり、頼ることを知らなくちゃ、後々困ることもある」
功次さんは優しい顔で私の目を見ながら頭を撫でる。
そんな様子を見て、少し昔を思い出す。
暖かかった両親の手を。
そして私の頭を撫でながら、功次さんはティナさんの方に顔を向ける。
「で、どうしてお前はレジに立ってんだ?」
「そりゃ一応会計をしたという体が無ければ、服は渡せないわね~」
「お前の思惑はわかってるぞ。…ジュリ、ちぃと耳を塞いでくれないか?」
「あ、え?」
「大丈夫だ、何もしない。俺はちょっとこいつと話さなきゃならんからな。肩を叩いたら、塞ぐのやめていいぞ」
「わ、わかりました」
言われた通りに耳を塞ぐ。
音が何も聞こえなくなる。
二人は何やら話しているが、ほとんど聞こえてこない。
一体何の話をしているのだろうか…。
ふと功次さんの顔を見ると、いつも私に向けられる優しい顔とは打って変わって、面倒くさそうな顔をしている。
これは…真式さんが家に来たときとかでも同じような顔をしていた。
不機嫌とか苛々しているというわけではなく、本当に面倒くさいと思っているとき。
今ティナさんと話していることは、きっと功次さんにとって面倒なことであって、私に耳を塞ぐように言ったという事は、私が聞いたら何か気を遣わせるだろうと考えたからだろう。
少しすると肩を叩かれたので、覆う手を放す。
「終わったぞ。悪かったな」
「いえ、別に…何かありましたか?」
「いんや。ジュリが気にすることじゃない。まぁ、仕事の話だ」
「そうですか」
きっと二人が話していたのは他の要件だったはずだ。
そうじゃなければ、今にも頭を抱えそうな表情を功次さんがするはずがない。
「じゃあ、今日はありがとうね~」
「はい。ありがようございました」
「ん、じゃあまた」
お店を出て、ティナさんと別れる。
見えなくなるまでティナさんは私たちに手を振ってくれた。
「これでしばらく着るもんにゃ困らんだろうな」
「でも…こんなに貰って、さすがに申し訳なく思ってしまいますね」
袋に詰められた多くの服に目を向ける。
私は上下合わせて12着。
それに引き換え功次さんはたったの1着。
これを無料と言うのは…。
「言ったろ。気にするな。あいつがジュリのことを着せ替え人形にしていた迷惑料とでも思っときゃ良い」
「そうですか…そうします」
私は別に迷惑だと思っていないし、功次さんも私が楽しんでいただろうと言うことは分かっていると思う。
だけどこういうのは、適当な理由で気にさせないためだろう。
これからどの服を着て生活するのか。
歩きながら考える。
功次さんは、自身では認めなけれど、その魅力を理解する人はいる。
嫌々良いながらも、真式さんの世話を焼き、私を受け入れてくれる。
「やぁ功次君。今日はどこへ?」
「世垓さん。また今度、仕事を手伝ってほしいんですが…」
「こーじ兄ちゃん。また戦い方教えて!」
町を歩けば、話しかけてくる人が数人。
本来ありえないだろう。
だけどそれが実際に起きている。
この町では、多くの人が功次さんを知っていて、頼って話しかけて良い雰囲気を出している。
そうすると、隣にいる奴隷上がりの私は、とても見合わなく見えて、違う世界の住人に思える。
功次さんはそう思わなくとも私自身はどこかで思ってしまう。
「やぁ、世垓くん。君も遂に色づいたのかい?」
また町の一人が声をかける。
散歩中のおじいさんに見える。
「色?俺にゃ色はない。ずっと黒いままだ」
「じゃあそこの子はなんだい?」
おじいさんの視線が私に移される。
「この子は…今俺が預かってる子だ。訳あってな」
「そうかい。だが、世垓くんにも色づくことはあるだろう。若いのだからな」
「それはないな。爺さん、ボケ予防の散歩が止まって、ボケ始めたんじゃないか?」
「かもなぁ。世垓君にそう言われては仕方ない。歩こうか」
そうしておじいさんは私たちの横を通り、去っていった。
なので私達も歩き始める。
しかし通り過ぎて少しすると、振り返っておじいさんは言う。
「世垓君よ、君らは似ている。より若い者を大事にするんだぞ」
「…そのつもりだ」
そしておじいさんは散歩を再開した。
そこからも数人に話しかけられるような状況が続き、それを流しながら功次さんが対応しながら帰宅した。
おじいさんの時みたいに、私について聞かれることも少なくなかった。
それに対して私は小さく挨拶するだけで、功次さんの言うことは常に一緒。
『訳あって、預かっている』
この一言。そこから変に詮索されないだけ、良かったと思う。
奴隷だった。しかもデルタルト伯爵の。
奴隷だったという事実だけで、周囲からはどのような目で見られるか分からない。
同情か、忌避か。
それは私の望むものではない。
…今は、自室で貰った服をタンスにしまっている。
買ってすぐは空っぽだった中も少しづつ埋まってくる。
その光景は、私にも似たものを感じ、自然と笑みがこぼれる。
今の時刻は、5時30分。
少しすると夕食の準備が始まる。
何もしないままというのは、あまりにも申し訳ない。
だからこそいくら功次さんが手伝わなくても良いと言ったとしても、私は少しでも役に立たないとここにいる資格がなくなってしまう。
ということで、二階から一階に向かう。
「片づけは終わったか?」
「はい。今日はありがとうございました」
既に功次さんは夕食の準備をしていた。
料理の担当は功次さんか私。
どうやら真式さんは料理が出来ないようなので、二人で交互にやっている。
小さな頃に、母の手伝いをしていたことを思い出す。
本当にたった数年も前のこと。
「お皿出しておきますね」
「お、悪いな」
(ジュリ、お皿出せる?)
(出せる!)
(ありがとう)
不意に過去を思い出す。
「ほんと、ジュリは真式と違っていい子だ」
(ジュリはお父さんと違って、偉いね)
功次さんと母が重なる。
性別も年齢も何もかもが違うというのに、そこにある優しい雰囲気は同じ。
そこにふと、寂しさを感じる。
―――また会いたい―――
その感情。
「なぁ、ジュリ」
「…は、あ、なんでしょう?」
「なんか悲しいことがあるなら、言うといい。なんだって聞こう」
「…え?」
野菜を切っていて私の方は見えていないはずなのに、まるで私の状態に気づいたような発言をする。
そんな私は気づかれて気を遣わせるのことを避けようとしてしまう。
「…何も、ないですよ」
何とか喉から出た音はあまりに情けないものだった。
頬を静かに伝う水滴も気付かれないように拭う。
「ジュリ」
功次さんは包丁をまな板に置く。
「俺は人の心を理解するのが苦手だ。察することもな。だがな、行動に出ているものを見逃すほど俺は馬鹿じゃない」
功次さんは振り返り、私の方へと歩む。
「………」
私は押し黙る。
すぐ前に功次さんが立つ。
「………」
どうすればいいんだろう。
この気持ちを功次さんにぶつけるのか、功次さんが引くのを待つのか。
私にはどうすればいいのか分からなかった。
すると功次さんが腕を広げる。
そして…
「…?」
功次さんは静かに私を抱きしめた。
「…昔な、俺もなんか辛い事とかあると母さんにこうしてもらってた。そうやって辛い時は泣く。それをぶつける相手がいた。でもジュリは違う。本来それをぶつけるべき時に相手がいなかったんだ。でも今は俺がいる。安心しろ」
頭を撫でられる。
その瞬間、私の中の壁がヒビ割れた。
ヒビから流れ始める水。
それは数年閉ざされた感情の一部で、逃げるために作られた壁で、一度壊れた時もう止まることはなかった。
「…こう…じ…さぁん…」
「おう、いくらでも泣け。なんでも言うと良い」
功次さんの胸に顔を埋める。
声が途切れ途切れになり、呼吸をするのも苦しいほど感情が溢れる。
止まらない目からの水は、功次さんの黒のパーカーを濡らしていく。
既に自分の心は満たされたと、これで満足だと、そう思っていた。
もうあんな辛い灰色の世界なんて見なくなる。
それだけで良いと思っていた。
「もう…怖い思いは…したく…ないんです…」
「そうだな」
「もっと…温かい…ところに…いたかった」
「もう冷たいところに行くことはない」
「一人に…なりたく…ないです…」
「…ずっと一緒にいてやるから」
それからもしばらく泣き続けた。
止まることを知らない私の嗚咽と泣き言。
その全てを功次さんは静かに聞いてくれていた。
背中に回された右腕と、頭に乗せられた左手は何よりも温かく、大きなものだった。
夜、ずっとどこかで響き続ける怒号と激痛。
それが収まった日が二日だけあった。
それは功次さんと共に寝た時。
ずっと冷たい部屋で、硬い床で、ただ一人の今まで。
それとは違い、温かい部屋で、柔らかいベッドで、二人。
買ってもらって寝ている、ベッドも柔らかく温かい。
それでも、一人で寝ているとあの時の記憶が還ってくる。
もう収まっていたはずの、当時の痛みが体を這う。
一体どれだけの時間が経ったのだろう。
「ジュリ、落ち着いたか?」
「もう…大丈夫…です」
少しずつ涙も収まる。
何年も私の心に降り積もっていた灰を下ろせた気がする。
気づけば、功次さんのパーカーはびちゃびちゃに濡れていた。
「す、すいません…」
「ん?どうした?」
「服が…」
「あぁ、気にすんな。ほっときゃ乾くんだ」
功次さんはまだ私を離さない。
「も、もう…大丈夫ですから…」
「そうだな。だが、今日ので分かったがジュリは表面上大丈夫だと思ってても、深層心理でまだ回復していないはずだ。」
「あの…本当に…大丈夫ですので…」
流石にこれ以上このままでいては、私はおかしくなる。
長く感じていなかった温かみは落ち着くけれど、好きであると気づいた相手に、このままというのは…私の心臓に悪い、
「…まぁ、そこまで言うならいいか。でも、また辛くなったら今度こそすぐ言うんだぞ」
ようやく功次さんは離れていく。
加古にも少しサヨナラをし、次を見るきっかけにはなった。
しかし冷静になると、さっきまでの状況は…。
「はぁ~…」
「お、どうした?まだ心残りなことがあるのか?」
私は鳴りやまぬ心臓を落ち着かせるためと、自覚できるほど紅潮した顔を見せないために顔を背ける。
「な、なんでもないですっ…」
「…?そうか。まぁ、さっきまでの『なんでもない』とは雰囲気が違うからもう大丈夫だろう。じゃあ後の用意だけ終わらせるか。どうせ真式は寝てるだろうしな。もうちょい、時間置きたかったら先に椅子に座って待っててもいいからな」
功次さんはまたキッチンまで向かい、、料理の続きをし始める。
「いえ…私も手伝います」
「そうか。んじゃ、任せようかな」
コップや取り皿を用意し、並べていく。
この普通の生活。
もう手放したくない。
「うし、出来たことだし、真式も起きてくるだろ」
完成された料理も鮮やかに並べられる。
「お~、ようやく出来たか。今日はちょっとかかったな。功次、寝坊か?」
「文句言うならお前の分は出さんでもいいんだぞ」
「ありがたく頂かせてもらいます!」
「はぁ~。まぁいいか…。ジュリも食べようか」
「分かりました」
二人で席に着く。
「「「いただきます」」」
この三人で手を合わせて職に手を付ける。
自由な会話。
暖かい部屋とご飯の味。
そのすべてを改めて噛みしめる。
この団欒の空間全てが私の脳から離れないように。
「今日会った方たちはお知合いですか?」
「ん?」
真式さんが先にお風呂に向かうと、私たちは二人でお皿を洗っていた。
その時にふと気になったことを聞いてみる。
それは今日の帰りの際に、功次さんに話しかけていた多くの街に方々。
皆さん、昔から関わっているような距離感で功次さんに話しかけていた。
「そうだな…何人かは仕事として関わったやつがいたけど、ほとんどは知り合いというような者ではないな」
「そうなんですか?そうとは思えないように皆さんは功次さんに話しかけていましたが…」
「昔から知らん奴でもあんな感じでも話しかけられることが多いんだよな。俺ってそんな外向性高そうに見えるか?」
「私から見ると…功次さんは、かなり人当たりはよく見えますよ」
「うーん。正直身内以外と必要以上に関わるの、あんま得意じゃないんだよな」
お皿を全て洗い終え、手をタオルで拭いながらため息をつく功次さん。
功次さんは自分にとって面倒なことが起きると、ため息をつくという癖があるようだ。
「一応何でも屋みたいなことを仕事の一つとしてしている以上、ああやって依頼の伝手が多く出来るのはありがたいことだけどな。たまに変な依頼がサラッと来るのだけはやめてほしいが」
「…例えばどんなものが?」
「そうだな…今までで一番おかしな依頼だと思って軽く終わらせたのは、『自分たちの結婚を認めてください』とかいうのがあったな」
「…どういうことですか?それは…功次さんのお知り合いとか?」
「いんや、男も女も赤の他人。一回も会ったことがないし、話したこともない。唐突に依頼が来て依頼者の家に向かったら、結婚を認めてくださいと来た」
「…何がしたかったんでしょうか?」
「さぁな。俺はお前らの親族じゃないってな」
「結局それはどうしたんですか?」
「テキトーに認めますって言ったら依頼料貰ったわ。6000ソルもな」
「いくら説明されても理解できませんね」
「金貰えるだけマシだな。そういうのは多分金持ちの御遊戯だな。あまり気にしないことにしてる」
再度その過去の話をし終わると、ため息をつく。
やっぱり癖になってるんだろう。
「出てきたぞー。次は誰が入るんだ?」
しばらく話していたようだ。
真式さんが湯気を上げながら、脱衣所の方から出てきた。
「ジュリ、先に行くといい」
「いえ、功次さんもお疲れですよね?お先にどうぞ」
二人とも相手に先を譲る。
これは功次さんと私の二択になった際に毎回起こること。
功次さんは私を優先し、私は功次さんにそこまでの迷惑をかけたくない。
その状況になるたびに真式さんが割り振ったりすることで、終わらせることもある。
しかし今回は違った。
「こいつは譲れんぞ。ジュリが先に行くんだ」
「でも…功次さん、あったかいお風呂が好きなんじゃ…」
「まぁそうだがな。ジュリの髪ってそれなりに長いだろ?俺の妹も髪長くて乾かすのに時間かかってたんだよ。濡れたままだと風邪ひくかもしれないしな。だから先に入った方がいい」
いつものただ優先するというのと違い、今回は明確な理由を持って私を説得しに来た。
それだけこれは譲れないということ。
そこまで言うのなら私は応じるしかない。
ここすら遠慮すると、逆に迷惑だろう。
「…分かりました。先に入らせて貰います」
「おう。ゆっくり暖まれよ」
私は着替えを取るために、自室に向かった。
タオルで石鹼を泡立てて、体を洗う。
もう治らないだろう傷跡の部分に少し染み、痛みを感じる。
湯船から桶でお湯を取り出し身体を流す。
少し傷んだ髪を濡らし、洗剤をつける。
ここに来たときはシャンプーしかなかったが、今はリンスも置かれるようになった。
きっと私のために買ってくれたものだろう。
自分たちには必要のないものを買わせてしまったことに少し申し訳なさがあるけれど、そんなことを言っては功次さんの気遣いを断り続けることになる。
ありがたく使うことにした。
「ふぅ………」
湯船に浸かり,一息つく。
自室を貰い一人になれる空間もできて、思考を整理する機会が増えた。
あのころと比べたら、こんな風にお風呂に身を包むことが出来る、体を清潔に出来る。
それだけで恵まれた状況だと思ってしまう。
…私は運よく死なずに済んで、平穏な環境に入れたけど、これを見た先の子たちはどう思うんだろう。
私が買われたときには、既に数人の奴隷の子がいた。
誰もが希望を捨て、体はここにあれど心はここにあらずの人形のような抜け殻の様にただ待機する。
今でも思い出す一番の地獄。
それは肉体が耐え切れずに息絶えた子の処理だった。
いずれ私はこうなるのかと。
次にこうなるのは誰かと。
悲しいが光の無い私たちの目に濁った光が入った数少ない瞬間だった。
あれが死んだ今、生き残った彼女たちはどうなったんだろう。
私のように良いところに流れ着いたんだろうか。
はたまたまだ地獄をさまよっているのだろうか。
今の私には知る由もない。
「………」
暖まり濡れた体をタオルで拭く。
洗面台には3本の歯ブラシが並べられている。
ふと鏡を見る。
傷と火傷の跡が付いた全身、栄養も少なく貧相な体。
こんなのでは功次さんには似つかわしくない。
そう思って少しネガティブになる。
だけど落ち込んだまま出れば功次さんを心配させてしまう。
大丈夫。今の私はこれ以上を望まない。
もう充分幸せなのだから。
買ってもらった寝間着に着替えて、脱衣所を出た。
「上がりました」
「ん、分かった」
リビングに来ると、二人が話していた。
何の話をしていたんだろう?
「ゆっくり出来たか?」
「はい。ありがとうございます」
「なら良かった。じゃあ俺行ってくるわ」
功次さんは椅子から立ち上がり、着替えを手にもって風呂場へ向かった。
「ちょいちょい」
「なんですか?」
真式さんが手招きするので、功次さんが座っていた椅子に座る。
「今日帰り遅かったけど何してたんだ?」
「ティナさんの仕事の手伝いをしていました」
「あー、あれか?モデルかなんかだろ?人間なんざ、意識向けりゃ見た目はどうとでもなるからな。まぁ、功次の場合は素体がいいってのもあるか」
「なんどもお手伝いされているんですか?」
「そうだな。いつからだったか、ティナの方から声かけて功次が起用されてたな。あいつもただ立ってるだけで金が貰える楽な仕事の一つだと思ってるんだろうな。ま、一番あの仕事を引き受ける理由は、頼まれたら断りにくい性格だっていうこともあるか」
功次さんは、頼まれたら断れない性格…。
そのことにどこかしっくりときた。
生きるために、お金を得るために、とにかく出来ることをやった結果が
それが街で聞く『功次さんは快い人である』という、評判に帰結しているんじゃないだろうか。
それは…本当に功次さんなんだろうか。
「あの…真式さん」
「おう、どうした?」
「功次さんは、無茶をしている気がします」
「ほう…」
真式さんは顎に手を当て、面白そうに私を見る。
「まだほんの少ししか関わっていない私が何を言うんだと思うかもしれませんが…功次さんは…」
「当たりだ」
「え?」
真式さんの言葉に呆気に取られる。
「あいつはジュリちゃんの言う通り、無茶をしている。一見そうは見えんがな」
「で、ですよね…」
「自分自身では気づいていない…いや、気づかないようにしている。だからこそ、表にはそれが出ない。何年もそれをしているからこそ、磨き上げられた偽装に他人が気づくことはまずない。生まれてから常に一緒にいる俺だからこそ知っているほどだ。…よく気づいたな」
「いえ、そんな…」
「謙遜することじゃあないさ。こんな短期間であいつの秘密に気づくとは思わなかったが、いずれ気づくとは思っていたさ。ジュリちゃんはよく功次のこと見てるからな」
「そ、そんなことは…」
「いーやあるね。
「………っ」
私は少し振り返って自分の行動を見返す。
無意識だった。だけど確かに私は功次さんが料理しているときや掃除をしているとき、仕事の資料に身を通しているときもその様子を見ていた…気がする。
それに改めて気づくと、私は自分の思っていたことが露骨に功次さんに対する思いを行動で示していたと顔に熱を帯びさせた。
「な、図星だろ?」
「う、うるさいです」
「こりゃ手厳しい」
「…何をしているんだ?」
私が顔を見せないようにそっぽを向いて、その様子を見た真式さんが笑っていると、功次さんがお風呂から出てきた。
「いやー、ジュリちゃんを揶揄ってただけだ」
「…虐めんなよ?」
「そんなことしないってことは、お前が一番知ってるだろ?」
「まぁな。大丈夫か、ジュリ?」
熱を帯びる原因に向かって顔を見せるわけにはいかなかった私は、その言葉に対して
「だ、大丈夫です」
それだけ返して立ち上がって、部屋に早歩きで向かった。
ジーーーー
「そんな俺を見るな、照れるだろ」
ジュリが去ったあと、功次が真式を睨んでいた。
「そんな意味で見ちゃいないがな。…何言った?」
「オー怖い怖い。怒るなって。俺は変なこたぁ言っちゃねぇぞ」
「本当かよ。いつも落ち着いているジュリがただ揶揄っただけであんなふうになるとは到底思えないんだが」
「お前はジュリちゃんを過保護に見過ぎか、大人びていると思っていそうだな。お前が思っている以上に、ジュリちゃんはしっかりしているが、少女だぞ」
「…そうか」
「ここでのびのびと見守っておけば、ジュリは自然と普通の幸せを掴むだろうよ。お前はそこまで気負わなくていいんじゃないか?」
「かもしれんが、俺はあの子を独り立ちできるようにする義務を負った。過剰に介入するわけではないが、きっかけと機会だけは与えなければならない。俺はそう考えている」
「そこまで重く思わなくていいと思うがなぁ。いっそ功次、お前がジュリちゃんを貰ってやればいいんじゃないか?」
真式は半分笑いながら、ジュリの最終目標を提案する。
真式からすれば、ジュリの希望が叶うこと以上に、大親友の幸せを願ってのことだった。
功次もジュリのことは多少好意的に見ているという考えから、ここで決め手にはならずとも少し意識することになればいいと思ったのだ。
しかし功次の返答は想定外のものであった。
「俺がジュリを貰うだと?そりゃ無理だな」
「あんないい子なのにどこが無理なんだ?」
かなり驚いた真式は、聞く。
「それはな…」
「はぁ…」
真式さんは、あんなおおらかな人でありながら良く分からない人だ。
きっと私の想いには気付いているんだろう。
そうでなかったらあんなことを聞いてくることはないはず。
「功次さんのことを目で追っている…か」
買って貰ったふかふかのベッドで横になって思い返す。
私はずっと暗いところにいたせいで、自分が功次さんに対してこんな思いを持つことすら失礼なことかもしれないと思ってしまう。
もっと我儘になってもいい。
その皆さんの気遣いをそのまま受け取れるほど、私は素直になれない。
「はぁ…」
もういい時間。
眠気も徐々に迫る。
『このクソアマ!』
「ッッッ…」
いざ落ち着くと、勝手に頭に響く声。
急激に鳴り始める鼓動。
大丈夫。あの時みたいな次の朝を恐れて寝ることはない。
「また怖くなっても…私には功次さん達がいる」
そう思うと、あの悪夢も乗りきれる気がして私は目を閉じた。
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